『黎明ニ帰ス』







 岡山の駅を出てもうすぐ三時間になる。
 中部地方から静岡に入るころまでは雨続き。
 神奈川の天気は分からないけど、雨雲と一緒に北東に進んでいることを考えると、もしかしたらこのまま雨の横浜に降り立つことになるのかもしれない。
 出発してから暫くの間ぽつりぽつりと断続的に続けられていた会話も今は失われ、雷鳴さんも壬晴君も、それから初めから眠ったままの帷先生も変わらずに目を伏せて沈黙を守っている。
 雷鳴さんと壬晴君は恐らく深く眠りについているのではないのだろうけれど、どちらが先にとは問わず多分二人とも人に何か自分の深奥を詮索されることを拒んで、一人の世界に沈んでいった。

 車内はとても静かだった。
 光を遮断するように降り注ぐこの雨の暗さがそうさせるのか他の乗客も声を潜め、首を回してみなければ居るのか居ないのかも分からないような気配は、新幹線の走行音と雨垂れの音に阻まれてしまえば僕のもとへ届くまでもなく消える。
 持て余した時間への慰みにするにしても窓の外に目を向ける気にはどうしてもなれず、僕も周囲に倣って暗闇の中に身を落とした。

 景色を置き去りにして進む、どこか急いているようにも感じられるこの人工物の速度に募る不思議な寂寥感は、今まで何年ともない時代を為す術なく見送ってきた自分の生涯に重なるものがあるような気がして、やりきれない気持ちになるから好きじゃない。

 もう数十分もすれば神奈川に着くだろう。
 僕はこの葬列に身を置いたような静けさを、ただ目を閉じて堪え忍ぶ。

(潮騒が聞こえるような気がする)

 今までにも幾度となく訪れたはずの山里深い風魔の地を思おうとしてまず思い出されたのは、もの悲しくただ寄せては引いて行く、暗く冷たい鎌倉の海の情景だった。
 あの地の海はいつ訪れても不思議と雨か曇りで、明るい印象は僕にはない。
 それは当然、僕があの海に自分の過去を重ねる時に必ず思い出される普遍の想いがあるからに他ならなくて、季節、気候に関わらず僕の目に映る景色はいつだって今思い描いているものとそれ程変わりはしないだろう。
 生命を育むと言われる海原を想って、僕はいつもたった一つの死を思い起こす。
 星の見えない夜に、何処までが足場かも分からない断崖、うねりながら打ち付ける波、それから、明けの曇り空と凪いだ水平線、手に握った砂。
 その狭間に消えた、一つの命。

 それは多分、僕が殺した。






 僕が彼女に会ったのは、人の世が昭和という呼び名に変わって数年と間もない頃の、今のように整えられてはいない雑多な横浜市街の一角だった。
 森羅万象の破片として生を受けて約百年、この身に刻まれた秘術の呪いを解く手がかりを求めて風魔の里に身を置き、少しの時が経った頃のことだ。

 風魔に来た当時の僕は、秘術の戒めから解放されたいとは言いながら、不死がどういうものであるのか、それほどまでに深く理解出来ずにいたように思う。
 創造され、人の意識を得てからそれまで僕は、生死の境をさまよったり、自分が不死であるなどと実感するような出来事もなかったのだから当然といえば当然だろう。
 日常を生きる人間が君は死ねない身体だと言われても信じることが出来ないのと同じで、純粋な鳥から人の意識を植え付けられて覚醒した僕は、要は生を受けて間もない空っぽの人間がそこに在るのと同じようなものだったのだから、不死だの何だのと言われても理解できるはずがない。
 もしかしたら不死、それどころか森羅万象の存在すらも嘘なんじゃないか。
 放って置けば自然に成長していく自分の細胞に、安穏にそう言って笑っていられる余地さえ残されていた。

 それがいつしか自分の周囲を取り巻いていた者達が、人が元来持ち合わせている内蔵の時間を使い切って一人ずつ姿を消して行くようになっていった。
 鳥であった僕に餌を与えてくれていた少女がいつの間にかこの世を去り、人間の営みを何も知らなかった僕に父のように接して様々なことを教えてくれたある風魔忍が死に、友人と呼べる初めての存在が老いて病にかかり……そうやって自分の周りの全てが変わり始めたのを目の当たりにして、僕は初めて人の生に恐怖を覚えるようになった。
 周囲の限りある時間というものから置き去りにされることに、生まれて初めて焦燥を抱いたのだった。

 鳥としての生活を捨てて風魔の転変化を学び、人として隠の世に潜むこと。
 それが本当は自分にとって最も間違った選択をしてしまったのではないかとさえ思った。
 生まれてから百年、人の形を模すようになってからは数十年。
 その間に当然人と関わりを持つことを覚え、それを心地良いと知るための時間も十分に過ぎて、そうして知り合った知人たちが老いて朽ちる頃を迎える。
 そして僕はこれから、途切れることのないそれを絶えず見守っていかなければならない。

(死ぬよりも苦しい)

 そうして僕は、唯一の死の可能性である森羅万象を求めるようになった。
 けれど僕一人が躍起になったところで、秘術はこの国の一億数千のうちのどれか一つに隠れたまま、僅かにも姿を現そうとはしなかった。