(洗脳駆け引き続き)

『遠隔束縛』




(最低。絶対別れる。絶っっ対別れる)

頬に張り付く髪の毛を掻き上げながら、私は脱衣所の扉を閉めた。
べたつく髪。
洗顔だけでは済みそうになくて、髪も洗うのかとしぶしぶ私が服の裾に手をかけると、ヤツの匂いがふわりと身体を包んだ。
離れていても腕の中に居る感覚が続いて消えなくて。
香がなくなったとしても、解放された気になれずきっと落ちつかないに違いない。
とは言うものの…香すら感じられなくなったら、私は終わりだとも思う。
……自分もアイツと同じものをまとい始めた、そういう意味で。

「最悪……」

逃れられる気がしない。
今のこの状況からも、勝手に方向を決められているような気になるこの先の未来からも。
服を脱いでも彼の空気は完璧身体に染み付いたままでいる、そのくらい、雷光が残したのは酷い束縛だった。
向こうはどうなのだろう。
私と同じように、彼にも私の香が染みているのなら、多少の仕返しにはなるのだろうけれど。
磨りガラスの扉を開けて中に入り、シャワー用のタップをひねると、私は一目散に洗顔フォームを手に取った。
唾液の混ざったチョコレートはとっくに乾ききっていて、それをお湯で全部流して、一度シャワーを止めてから手の石鹸を泡立てていく。

「雷光、か……」

時折ちらつかせる憂いをおびた表情に締め付けられた胸の理由を、恋と呼ぶのか、同情と呼ぶのか分からなかった昔の私は、切ないから綺麗と感じさせるのではない、アンタにはもっといい笑顔があるだろうと思った、ただそれだけの事に背中を押されて彼に告白をした。
結果は――今の通りだ。
昔は常に悲しそうだった雷光も、最近はよく笑い、よく話す。

(……効き過ぎだし)

こうまでなった理由は私の存在のせいだけではないだろうけれど、とにかく、本当によく効果したものだ。
今の彼と言ったら
――と、部屋に居る雷光の事を思い出し、そこまで考えて私はふと我に返った。

「やば…!」

全裸の自分をしみじみ見つめて、自分の馬鹿さ加減にげんなりしてみた。
あんな目茶苦茶なキスをして、そのあとで、なんと言うか、身体を洗って、それに人が何を期待するかなんて、今時小学生でも分かりそうなものなのに。
私は自分の軽率さを心底呪った。

(で……出たくない!!)

とは言うものの、出ないわけにいかないわけで…。
しばらく手の泡と見つめ合った後、私は意を決して石鹸を顔に乗せた。
一生の内で今この時程、自分の身体を洗うのに勇気を要した事はない。
手探りで蛇口を探してお湯を出し、石鹸を洗い流そうと―――

―――キュ。

とてつもなく不吉な音が嫌な予感を誘った。
どう考えても人の手によってしか鳴らすことの出来ない、タップを回す甲高い音がお風呂場に共鳴したのを聴いて、めまいがした。
身体を温めていたシャワーがぴたりと止まって、でも瞼の上を石鹸が――とてもよく目に滲みそうな弱酸性の石鹸が瞼を流れて行く今は、目を開いて状況を確認することも出来ない。
そんな私の背後に、

「ふふ」

と笑う雷光の声を聴いた。

「きゃぁぁっ!?」

いきなり後ろから抱き着かれて思わず目を開けたが、
ヒリヒリなんて表現を遥かに越したすさまじい痛みが押し寄せて、瞼を緩ませることすら出来なくさせる。

「なんで!?ちょ!なんでっ!?」

雷光は上着だけは脱いだらしいものの、シャツを着たままでいて、私の身体が濡れていることもいとまずにがっちり私の行動を封じる。

「遅いから心配して見に来たのだけどね、はからず素敵な光景に出くわしてしまったから」

いつになく軽快に言葉を発した雷光は、視界を奪われたままでいる私の慌てふためく様子を楽しむように、中指を私の足をつうと伝わせた。

「鍵もかかっていなかったね」

「嘘!?」

「本当」

「……っ」

笑った雷光が僅かに身体を離すと、普段感じたことの無い自分の匂いが私の鼻を掠めた気がして、私の動揺を誘う。

(何でこんなときに…っ)

私に移りつつある彼の香よりも遥かに強い。
それは自分でも嗅ぎ取れる程に。

思い返せば――当然だろうか。
私が愛って言葉を理解するのに試行錯誤している内に、雷光はとっくにソレを見つけていたらしい。
私は未だ「好き」を越せていないというのに、彼は心も、身体も、私の全部を求めてやまない。
その差の中で彼は無意識に、そして焦るように無理矢理私の手を引こうとする。
そして時には空回ったりもする。
今みたいに。
いらだたしいような、切ないような、わけの分からない感情に胸が熱くなった。
付け込むようなタイミングで意思を持ったみたいに私の脚を這う雷光の指がそのうち、私のふとももを悪戯に撫で始めて。
分からなくもない。
ホシイと思う気持ち、分からなくもない。が。

「無い!さすがにこの状況は無いから!」

結局我慢の限界を越して、なんとか雷光の手を振りほどいた私はもう一度手探りでシャワーの蛇口探して、やっとの思いで触れたそれをひねった。
熱い雨が直撃しほんの一瞬だけ怯んだ雷光に加減なくエルボーを喰らわせ、彼が呼吸を無くしている間に顔を洗う。
そして雷光を無理矢理脱衣所に押し返した。

「寿…」

「分かった!よーく分かったから外で待ってなさい!」

と、彼を止める術も見つけられず結局ヤツの要望を聞き入れてしまう自分がいたりして。
悲しそうな顔から一転して、不敵に微笑む雷光。

「早くおしよ」

「分かってるっ」

なんと言っても、これ以上待たせたら私の身が危ない。

「殊勝な…」

私は雷光が言葉を言い終わらない内に扉を閉めて、今度こそしっかり鍵をかけた。
酷い彼氏だと、批難するより感服した。
結局私はヤツの術中にはまり、最後には自分から受け入れさせられてしまったのだから。

「……はあ」

馬鹿みたいに甘ったるく過ぎていく時の中で私が唯一雷光との別れを考える理由と言うのが、彼が私を好き過ぎることだなんて言ったら、世界中の恋人達に白い目で見られてしまいそうだけど。
まぁ世界なんて関係なく、どんな酷い彼氏だとしても、どんなに彼の悪戯のせいでやつれても、私が別れ話を口にすることはないのだろう。
そんなことをしても、別れ話の理由を知った雷光がまた調子に乗るだけだから。
それはなんか悔しいから。
私が好き以上の愛を見つけられるのが、もっとずっと先の未来だとしても。
未来があるのなら私からは離れない。
万が一挫折しそうになった時は、雷光の持ち前の独占欲で、向こうが私を束縛してくれるのでしょう。
だから私とアイツは一生一緒に居るしかないわけだ。
……とりわけ今は、逃げる方法を必死に探していたりするのだけれど。
私は躊躇いながらボディーソ−プを手にとって、身体に乗せた。
石鹸の匂いに紛れながらも私の身体に纏わり付くヤツの香は、未だ消えない。




fin



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