『洗脳駆け引き』




「寿、帰ったよ」

「お帰り」

仕事を終えて家に戻り部屋の戸を開けるとくぐもった返事が私を迎え入れた。
いつもみたいに声が響かないわけを寿の顔を見て直ぐに理解して、私は思わずくすりと笑った。

「よくほうばっているね?」

床に座り込んだ彼女の横に、いかにも寿が好きそうなかわいらしい包装が置かれていて、甘い香りがその手を引いて寿をそこから放さない。
チョコレートを口に放った寿は照れたようにこちらを見ただけで、普段のように私に駆け寄っては来なかった。
若干苦味を含んだ濃厚な甘い香。
菓子に嫉妬する程子供でもないから、私はあえてそのチョコを利用する。

「私も一つ頂いていいかい?」

寿が袋をそのままこちらに向けることを見越して、

「手が汚れているんだ」

と付け加えることを私は忘れない。

「あ、ごめ、ちょっと待って」

そう言って触れかけた手を引っ込めたとこまでは私の想像通り。
でもあまり動揺を見せてくれなかったのは予想外だった。
少し前までなら、ふざけて“食べさせておくれ”と要求する私に「馬鹿じゃないの!?」や「恥ずかしい奴!」の慌てふためいた大声を浴びせることの一つや二つ、当たり前だったというのに。

「なんだか……」

張り合いがないとでも言えば良いか。
人間の順応力とはなかなか手強いもので、私もそろそろ手を変えなければならない時期らしい。
甘い言葉を説いて反応を楽しむのではなくて、もっと別の方法を…。
謀り過ぎて逆に不意打ちを喰らってしまったのは、私がそんな風に今後を考え始めた時のことだ。
自分の手も汚れているからと熔けて指についたチョコレートをペロリと慌てて舐め取った寿。
例の如くそのまま袋の中へとのびて行く手を私は掴んで止めた。

「……その指で私に菓子を与えるつもりかい?」

「え?あ、ごめん」

寿は意味を取り違えて謝った。
乾ききらず指に残る光沢が、なまめかしいと言うか何と言うか。

「……自覚がないというのは恐ろしいことだね。それはお前特有の強みであり、でも同時に両刃でもある」

「は?雷光何言って」

「そしてとても罪深い」

私は彼女に唇を重ね、口内に残るチョコレートもろともこの口に含んだ。

「ん……」

私が口づけをしたまま背後のソファに浅く腰を掛ければ、寿は床に膝立ちになってついてくる。
菓子に勝るなど、私には簡単だ。
ただ――いつもより十倍は増したこの甘い感覚に侵されているのは寿はもちろん、私もしかりだ。

「は…っ…」

ついつい長くなる口づけ。
上手く息継ぎが出来ず荒くなる息を寿は私の頬に吐きかける。
それすら飲み込んでしまうように、私はより深く唇を重ねた。
苦しさに私の肩を押し返そうとしても、そのうち諦めたように力無い手が首に回る。
そして最後に私の頭を包み、必死に指を髪の毛に絡ませてくるまでの経過を堪能するのが私の愉しみだ。
時々不意に彼女の指が耳の裏をくすぐり、本能的に力む私の腕、それに刺激され息を漏らす寿が眉をひそめてやめろと訴えてくるが……。
そもそもそれが誰のせいかなんて気付いてもいないらしい。
そしてまた耳を指がくすぐり、悪循環を招き。
まあそれを悪循環と言って良いのかはわからない。
なぜならこの状況を互いに楽しんでなくもないのだから。
少なくとも私はそう思う。
元は背中に固定されるだけだった寿の手。
つまらないよと散々私が文句を言った結果であることを思い出すと、私が満足出来るよう、自分色に染めたと言えばそういう事になるのだろうか。
かと言って、どちらが主導権を握っているわけでもない。
彼女が上に乗りやすいようにと膝の位置をいつもの場所に整えた自分を笑った。
決して誘導しているわけではなくて、私たちがこんな関係になったばかりの頃は、上に乗りたがるくせにすぐに崩れる寿のことを何度も支えてやった、それが、今では彼女が足を乗せる順番、重心の位置まで、覚えたところで何のメリットもない部分まで熟知して……
いや、させられているわけだ。
そう、私も充分寿に染められている。
突然顔を見たい衝動にかられ、でも自分から離れるのはどうしても忍びなくて。
思い付いたように口の中に寿の舌を誘い込み、軽く噛んでやると、彼女は慌てて唇を離した。

「い…た…っ!」

反射的に口元を覆った寿。
唇から頬にかけて張り付く茶色く熔けてぬめったそれが隠れきらずに指の隙間から覗いているのを見て、私は声を抑えて笑った。

「べたべただ」

「だ、誰のせいだと…!」

覆った手の甲でチョコを軽く拭き取って、思いの外量が多いと知ると空いた手で私の肩をひたすら叩く。
反面被害をこうむらないよう計らっていた私の顔は綺麗なものだ。
見比べた寿は叩く力を一層に強めた。
舐め取ってあげるよともう一度顔を寄せる私に寿は逃げずに応じたが、瞬間飛び出て来た言葉は全く私の腑に落ちないものだった。

「だぁぁもうしばらく雪見の顔見らんない!」

「……何で先輩の名が出て来るんだい?」

思わず口をついて言ってしまったのだろうが、それはとてつもない失態だ。
寿は早く顔を拭かせろと、我慢できないとでも言うように身体をよじって私の腕から逃れようとするが……
長い口づけで蒸気した頬、ほてった顔の熱が増させる甘い香、我慢できないのは私の方だ。
笑顔を保ちながら、さっさと答えろと思った。

「そのチョコ雪見がくれたのよ。貰い物だけど甘いの食べないからって」

「…雪見先輩が?甘いものを?初耳だ」

「知らないけど別にやましいわけじゃないから!やましかったら言わないし!そこまで頭悪くないし!」

寿のことはそこまで心配していない。
そもそも二股をかけられる程器用ではないことは、誰よりも私が一番よく知っている。
問題があるとするなら――向こうの方。
そうそう簡単に奪われる気はないけれど、先輩後輩の関係に溝が出来るのも私としては好ましくない。
向こうもそう思っているのだろうから、どうせ私達を引っ掻き回して愉しみたいだけなのだろうけれど……。
分かっていながら私は苛立ったように寿を引き寄せた。
舐め取ってあげると言った言葉を完璧嘘に変えて、私は舌で拭き取るふりをして彼女の顔を荒らしてゆく。

「ふふ、もっとベタベタだ」

「だーかーらー!あーもう恥ずかしくてチョコも雪見の顔もまともに見らんない……!」

寿は相当ご立腹だ。
そして私は楽しくてたまらない。

「私の口づけを思い出すから?」

「他に何か理由でも!?」

「殊勝な心掛けだ。期待して良いのだろうね」

そう、寿はそうやって、私のこと意外考えられなくなってしまえばいい。
見るもの全て、私に結び付けてしまう程、深く刻みつけて。
そうなれば雪見先輩の悪戯ですら私にとっては感謝の対象となる。
それはとても――素敵だ。

膝を滑り降り半分泣き顔で洗面所に駆け込む寿の後ろ姿を、私はうっとりと見送った。




→後編に続く








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