『降り注ぐ桃色』


飽きた……。
数学のノートに「飽きた」と三回書いて、また飽きた。
雷光が出掛けた後のこの部屋は当たり前のように閑散とした印象を漂わせるから、そういった時ばかりは、彼の香りを漂わせるクローゼットだとか、置きっぱなしのマグカップなどといった物の存在を、
少し…憎く思う。
たった一人人間がいないだけで、こうも室内の様子が変わってしまうなんて。

「連れてってくれたっていいのに…」

てもちぶさたの指でペンを回した。

『寿…テストは?』

出掛けに交わされたやり取りが、幻聴のように耳元で繰り返される。

『勉強は手伝ってあげられるけれど、留年は私の手には負えないよ』

「手伝ってくれるなら早く帰って来ればいいのに」

壁に掛かった時計に目を走らせれば、雷光が戻るまで後ゆうに数時間ある。

つまらない…

孤独を紛らわせるようにペンを走らせれば筆記の音は虚しく室内に響くし、掻き消そうと音楽をかければ偽りの人の気配がまた寂しさを煽った。

「うーん…」

なによりも、自分の内の感情である飽きをごまかすことは出来そうもなかった。

「……休憩!」

思い切り背筋を伸ばすと、逸れてギシと音を立てた回転椅子の背もたれ同様、私の凝り固まった背骨も急に動かされ軋んでいるかのようだった。

「んーっ」

倒れんばかりに背もたれを押して、言葉にもならない声を独り言のように発し白い天井を仰ぐ。
自分で自分に与えた開放感を素直に満喫する、そんな私のささやかな楽しみを、刹那、影が奪う。

(わっ!)

一瞬何かが落ちて来たのかと思った。
目をつむって避けようとすると、自由なはずの身体が動かない。
目を開けたそこに見た、降り注ぐ桃色の雨…。
何かに支配されるという恐怖から一転して、意外にも淡く優しい色彩に見合ったほのかな感覚に包まれた。
視界に写るのは、逆さまに私の唇に触れる雷光の喉に、髪だけ。
不意に絡まった唾液を飲み込む喉元の生々しいうごめきを目にしてしまった私は、行き場のない目をやはり閉じるしかなさそうだった。
呼吸器が狭まって上手く息が出来ず、荒くなっていく息がまるで喘ぎ声のように聞こえる。
私を見下ろす雷光の、私の頬を包んだ手の平と、その腕に立てた私の爪とのギャップ。
こっちは必死だというのに…。
キスをしたまま喉の奥で笑った雷光の息が鼻から喉を撫でて、反射的に体を反らした私はバランスを崩し、見事に椅子から転げ落ちた。


「い…たぁ」

私と一緒に倒れた椅子の音を立てて空回るキャスターを人差し指で止めた雷光は、

「ごちそうさま」

と未だ床に転がったままでいる私を見下ろし起こす事もせずに、外出帰りのままの手を洗うべく洗面所へと向かった。
起こされたところで立てそうにもない……。
私はくらつく頭を抱えた。

「いただきますを言うのが先だと思う…」

それ以前にただいまも言ってないのに。

「ただいまは言ったよ?」

洗面所から顔を覗かせた雷光が声をはる。

「“誰か”との会話の真っ最中だったようだけれど」

笑った調子の声に、私は顔が紅潮するのを感じた。

「だ、だいたい帰って来るの早いよ!嘘つき!」

独り言を聞かれた恥ずかしさをごまかそうと口が悪くなる私の言葉に、側へと戻って来た彼は、心外だと顔をしかめた。

「人聞き悪いことを言うのはおやめよ。寂しがり屋の寿のため、仕事の合間を縫ってせっかく様子を見に来たのにね?」

「何でまた…」

「“早く帰って来い”って言葉は、嘘なのかな?」

それは……

睨み返した私の視線は、あまりにも説得力のないものだった。

「さて、私が仕事に戻る前に残りの問題を終わらせようか」

「……戻るの?」

「戻るよ。なにぶん仲間に残して来た帰宅の理由が…」

「理由が?」

「“ペットにご飯やるの忘れたから”だからね」



「……むぅ」

あながち間違ってもいなそうな言い訳にぐうの音を飲み込んだ私は、開き直って彼の身体に手を回す。
それなら勉強なんかよりも先に…ご飯のお代わりを

「頂いてもいいですか」

その時雷光が口にした

「留年しても知らないよ?」

の言葉は、“召し上がれ”と言ったようにしか、私の耳には響かなかった。



fin.

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