雑居ビルの隙間に挟まれたダストボックスの脇に小さく身を屈めて姿を隠し、もう何時間になるだろう。

 冬の冷気に息が白くのぼらないようマフラーに半分顔をうずめ、ターゲットと呼ばれる暗殺目標が現れるのをただ待ち続けるのは気が滅入るような時間だった。

 ひたすら寒さに耐えることと、頭に叩き込まれた計画の算段を繰り返す以上にすることはない。

 退屈な作業だ、そう思いながらもひたすらに同じ思考をめぐらし続けるのは、背中を向き合わせた直ぐ先に居る雪見の気配を意識の外に追いやるためだった。

 表通りの様子を直接伺うことが出来ないため、あらかじめビルの壁やら玄関口やらに備え付けておいた鏡から反射して映る光景を手元の鏡の中に見つめる雪見は、常に私に背を向けた状態でいる。

 それは私の退屈を煽るよりも、少しの距離とその人の体温と存在をより強く感じさせる余計な一因となっていた。

(心臓が破裂しそう……)

 突き刺さるように痛む寒さと、それとは違う胸の奥の方の疼きを掻き消すよう、これ以上ないくらいに力を込めて自分の膝を抱えた。

 雪見に体を寄せては心音が伝わってしまいそうだから、私と彼の隙間は微妙に数センチと言ったところだ。

 それでももしかしたらすでに、冬の沈鬱とした空気を震わせた振動は、わずかにはもう伝わってしまっているのかもしれない。

 雪見がその意味に気づいているとは、今は到底思えなかったが。

「緊張してんのか」

 排気口のファンの音にまぎれて聞こえた声はやはりどこか的外れな調子だった。

「少し」と答えて、私は緊張してるだけなのだからと自分に言い聞かせ、遠慮がちに自分の背中を雪見に預ける。

 少し寒さが薄らいだが、余計に泣きたい気になったのが不思議だった。

 夜になれば寒いと感じるし、人を好きになれば涙も零れる。

 忍と言えどただの人間だという証なのかもしれない。



「――おい、来たぞ」

 肘の後ろで身体をつつかれたけれど、とくに興味は起こらなかった。

 目標の顔は写真で見て確認してあるし、雪見が本人と認めたならその人で間違いはないだろう。

 そもそもこれから命を奪おうとしている人間の生きている姿なんて、目に留めている時間は少ない方が自分のためだ。

 失敗さえしなければ、別に問題も無い。

 任務開始の号令はターゲット到着から10分00秒後丁度に発せられることになっていて、この地獄のように幸せな時間があと10分続くのかと、それだけを思った。

「雪見」
「なんだよ」
「寒い」

体を半転させて、雪見の胸に腕を回した。

 この形の定まらない分厚いジャンバーにゆるく阻まれたもどかしさから、どれくらい力を込めたら雪見は私の存在に気づくのだろう。

「寒いのは分かったから集中しろ」

 抑え気味にも叱責を含んだ声を上手に聞き流して、お互いこれ以上大きく動けないのをいいことに私は静かに駄々をこねる子供のように雪見にすがる。

 背中から聞いた心音の速さは、いわゆる“私と同じ”というやつで、私は少しだけその意味を考えてしまった。

「緊張してるの?」

 聞いたら雪見は少しの間黙ってから、やはり抑え気味に「少し」とだけ言った。

(何それ)

 雪見のジャンパーに、大きく口を開いて噛みつくように唇を抑えつけ、暖かな息を吐きつけた最後に、肺の底から息だけで聞こえるはずのない「雪見が好き」の言葉を告げた。

 その時一瞬、身体に不整脈が走るように不規則に脈を打ったのは、雪見の方だったような気もするけれど、もしかしたら自分だったかもしれない。

 身体を離した私は、あまりに深刻そうな声色で発っせられた雪見の言葉をその広い背中越しに聞く。

「分かったから後にしてくれ」

 腕の時計の短針と秒針は、気がつけばすでに9分を回っていた。

 言葉の意味を考えるには短すぎる、任務開始時刻前、空白の残り数十秒。

 雪見は私に、いったい何を思って過ごせと言うのだろう。


fin.


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