『幸福論』






 人間にとって最高の幸せって何だ。
 僕は人の浮かべた笑顔を頭に描いて思い馳せる。

 思えば生まれてこの方、僕が自身の幸せについて感じたことなど一瞬たりともなかったような気がする。

 あったとしてもそれは僕が僕を確立するよりもずっと前の話だから、きっと手にしたものが幸せという名前であることすらも気付かないで時を過ごしてきたはずだ。

 幼いころに感じた想い、それは感情というよりも断片的な記憶でしかない。
 人の気持ちを類別するならそう言うこと。

 ご飯を食べるとか、好きなことをするとか、人との関係を築くだとか、人間が何かに対し何かを感じているからこそ生まれるであろう表情を無理にも作ることが出来ないのは、多分僕の中に幸せのかけらを育む要素が多少にも無いからなんだろうなと思って、少しだけ泣きそうになった。

「宵風」

 背中にぴったりとくっついた寿の温もりが、着込んだ黒い外套とセーターを通して肌に伝わってくる。

 僕はお腹に回された手にそっと触れるけれど、そこに寿の指の温かさを感じることは出来なかった。

 ごわついた手袋の凹凸が寿と僕を阻んでいるからじゃない。
 心臓から離れた身体の末端の感覚はもうとっくに無くなっていて、体調が良い時でもそれが戻ってくることは二度と望めなかった。

 ふいに僕の手が動かなくなったと思うと寿に手のひらを包まれていた。
 そうか、僕に触覚がなくても寿にはあるんだなと思って、僕は手袋を外して彼女の手を両手で握り返した。

 僕が泣きそうな顔をすると寿はいつでも傍にやって来て、こうして抱きついて何もせずにただそこにいる。

 言葉無く笑ったり、泣いたりして、やりきれない僕の哀しみを吸い取ってくれているようにひっついて、また身代わりをするように離れないで、そう、数え切れてしまうほどにしか残されていない僕の生きる時間を、惜しむかのように。

 君は僕の幸せを願う。
 僕が、居なくなる未来を望んでいると知りながら。

 君は多分、僕のことが好きだ。
 そして僕も多分、そんな君のことが好きなんだと思う。

 それでも僕が悲しまず、迷わずに消えることを望めるのは、それはいつか別れる日が来たその時に、君が笑顔で「良かったね」と言ってくれると知っているから。

 僕は寿の手を握って、少しだけ泣いた。

 最高の幸福っていうのがよくわからないで今まで生きていたけれど、ああ、こうして涙がこぼれるのもきっと幸せの証なんだろう。

 溢れたものを、感覚の失った手で受ける。

 掴み切れずにこぼれ落ちるそれを、君がもう一度すくい取る。

 いつか消えてなくなると知りながら、それでも僕らは支え合うことを無意味だと捨ててしまうことは出来なかった。

 最高の幸せなんて僕は知らない。

 でもこれはきっと、泣きたくなるほどに、最悪な幸せ。





fin.






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