机に向かう俄雨というのは、まさに仕事人間そのものだ。

 集中すると、場所、時間、状況、周囲全てを忘れてしまう。

 あまり根気を詰め過ぎるのもよくないと俄雨の身を案じて、私がその背中に声をかけたのは、時計の針がピッタリ二時を指した時だった。

「休憩しようよ」

「ええ」

と言う会話がなされてから、早四十五秒。

 俄雨は明らかに私の話の内容を理解していない。

 秒針が後少しで一周する。

 一分経ったらまた声をかけよう、そう決めていたけれど、唇が疼いて二秒くらいフライングしてしまった。

 ちなみに、一時五十九分調度にも話し掛けてみたが、それは綺麗に無視された。

「俄雨、お茶を」

「いりま」

「いれてよ」

 ずっと机に向かいっぱなしだった俄雨の気をまぎらせようとの試みだったものの、一度こちらを見たまでは成功したが、その後はいつも通り、失敗だ。

 俄雨はぐっと手に力を入れて、迷惑そうに何かを堪え、再び資料作成に向き直った。

「…冗談なのに」

 俄雨の私に対するそっけなさは、いつものことだ。

 唯一、雷光の話題を持ち出した一瞬だけは話に食いつくが、私の顔を見ると萎えたように話題を流す。

 そこまで私が嫌いか、とむきになって以来、私はそれまでに増して俄雨にちょっかいをかけるようになった。

 俄雨の気を引こうと試行錯誤し尽くし、一度、あまりに手に困ったもので、実験的に雷光のことを馬鹿にしたことがある。

 話題の一つとして、もちろん冗談のつもりで持ち出した話だったけど、その後本気で喧嘩になったので、この手段は間違いだったと学んだ。

 最初からうるさがられてる気配はあったものの、あれをさかいにより空気が険悪さを増した(特に俄雨の側に。私は前と変わらない)


 どうしたものかな。

 諦めのつくものでもなくて、いつも通りあれこれ思考を巡らせていると、ふと爪先に何かがぶつかった。

 見ると俄雨の消しゴムが小指の辺りにこっそり寄り掛かっていた。

 ドキッと胸が高鳴る。

 何故か一度勢いよく左右確認をした私は、消しゴムを拾い上げて、それはもうさりげなく俄雨のそばに寄った。

「……何ですか」

「け、けけし消しゴム!」

「……あ、ありがとうございます」

「――っ!」


 お礼を言った。

 俄雨が私に、お礼を言った。

 嬉しすぎる。

 嬉しすぎる、本当に。

 握り締めた手に残る、掠る程度に触れた俄雨の熱が私を浮かれさせ、じわりと勇気に代わっててのひらに染み込んで来る。

 今なら……今なら……

「あたし、空も飛べるはず!」

「どこかに頭打ったんですね、かわいそうに」

 微塵にも心配してるとは思えない俄雨の冷たい声が即行返って来て私はそのまま撃沈した。

 冷たすぎる…。

 そして後半部分にだけ若干気持ちがこもっていたようにも思われるあたりが非常にやる瀬ない。

 雷光相手にだったら、「飛べます!雷光さんなら絶対に!」とか、即答するくせに。

 突っ込んでやろうと口を開いたが、またひどい喧嘩になりそう、または当然ですなんて返されそうだと思ったから(わかってはいるけれど実際に言われたら立ち直れないかもしれない)、私は結論だけをこっそりぼやいてみた。

「俄雨の方がよっぽどかわいそう…」

「何の話ですか! 頭の中で勝手に話を進めないで下さい!」

「は、そうか、かわいそう同士仲良くすれば良いじゃない!」

 さも名案と如くに俄雨の手を取ろうとすると、俄雨は私の手を振り払い、両手で力いっぱいに机を叩きつけた。

 乗っていたものが盛大に踊る。

 転がって再び落ちそうになった消しゴムを止めようとすると、触るなと言わんばかりに俄雨が先に引ったくった。

 さすがにショックだった。

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