コートも脱がずに床に腰を据える宵風の唇を、ただ物欲しげに眺めていた。
キスしたいかも。
たまに前触れ無く、そんな衝動に襲われる。
彼とはただの同僚か、または友達の友達くらいの距離があるが、顔だけはよく合わせていたので、馴れ合いはなくも親しみはあった。
色恋沙汰にはいたって消極的な宵風とは、もちろん恋人同士になるようなきっかけがあるわけも無く、また友達と言って良いかも怪しいくらいの関係だが、私にとってはそれは些細な問題だった。
綺麗な顔とキスしたい。
欲求と言うより気晴らしに近い、怠惰な本能。
誰でも良いやといういい加減な思いの中に、意識が漂っているような不安定な感情。
それは、全てにおいてちゃらんぽらんを気取るも、一端にこの歳になるまで一人で生きて来た私の、自己流の人恋しさの現れであるらしかった。
誰でも良かった。
一時、私の脳内が満足するのであれば、誰でも。
「チューしよ、チュー」
宵風は極めて迷惑そうに顔をしかめて、どう頑張っても相入れることのない、全く別の生き物を見ているような目をこちらに向けたが、思いもよらず、頬っぺたがほんのり蒸気していることに私は気付いた。
苛立ち以外の心の動きを彼が見せるのは、非常に珍しい。
これは。
それなりの得を得た気分に浸って、初めの目的を忘れ満足しかけていた私に、宵風は突然声色を変え、声変わりが定着して何年だろうという若い低音に怒気を含ませて言った。
「どうでも良さそうに言うな」
かなり本気だった。
いつだったか、安っぽい正義をかざしまくった俄雨を黙らせた宵風も、こんな風に凄んだような気がする。
口笛一吹きで緊迫した空気を冗談に変え、「あっそ」の一言で、速まった心音を抑えた。
自由奔放に生き、好きな時に好きなことをし、好きな時に好きに人を求めて来た私は、他人に諌められることを大の苦手としていた。
人に諭され、「成る程」と素直に納得出来るような賢い頭も持ってはいない。
何せ、直感で物事を見、本能で言動を決めるという単細胞を自慢にしてきたような脳みそだ、育む以前に、水をやる要素がない。
素質云々以前の問題だ。
頭が痛くなりそうになったら、考えることを諦めてしまえばいい。
そうすれば、それで終わりに出来るのだから。
つまり、真面目にやる気がないとも言う。
「じゃ、雷光のとこ行ってこよっと」
私の適当加減を責める宵風の言葉をさらにいい加減に素通りし、私は腰を上げた。
当然宵風は私を睨み付け、私はおどけたように微笑み返した。
人恋しさには勝てず、ふらふら他人の熱を求め漂う私を宵風は軽蔑するかなと思ったが、彼は変わらず鋭利な怒気を纏っているだけだった。
やっぱり綺麗だと、以前よりいくらか骨張った輪郭を見、色の悪い唇に目を移す。
あの唇を味わう権利は私には無いらしい。
触るだけで噛み付かれそうだったから、勿体ないなと思いながらも私は手を振るだけに留まって、横を通り過ぎた。
「綺麗っていう意味では宵風の顔の方が好きだけど、雷光も相当美形だし、何より文句なしに構ってくれそうだし。またね、真面目過ぎて人生損してる宵風く」
手首を掴まれてがくんと身体に衝撃が走り、気付けばおもいっきり唇を塞がれていた。
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