寿が月を見る度に俺が落ち着かなくなるだなんて、こいつが気付いたら、なんと言うだろう。

 照れるんだろうか。

 それとも、結構男勝りなとこがある寿の事だ、“変なこと言うな”なんて喧嘩にでもなるかもしれない。

 あんまり笑うなと言えばどうしてと返って来るだろうし、どうしてと言われても寿に向かい正直に答えられるような綺麗な言葉は、生憎俺の中には初めから存在していない。

 シたくなるから、など言うに言えず、でも健全ではあるなと自分の中では納得している。

 まるでガキだ。

 気持ちを落ち着ける手段として顔を背けてやることくらいしか思い付かず、随分大切にしてんじゃないかとらしくない自分を賞賛しながら、少々気持ち悪い気もした。

 月のせいだ。

 月さえ無ければ寿は空を見上げて笑ったりしないし、髪をなびかせたりもしない。

 俺を酷く掻き立てることもなく、俺自身、自分から彼女を守ってやりたいとも思わないだろう。

 ただ普通でいられるのに。

 髪を結び首筋が見える、それだけで唾を飲み込む仕種がぎくしゃくしてしまうなんて、男ってのはどうしてこうも不便に作られてるのか。

 逆に、結っていたのをほどけば乱れた髪が気になるし、隠されたら見たくなる首筋だとかも面倒臭い。

 相手が例えねちっこい女でなくても、面倒だ面倒だと繰り返したくなるのは、無意識の誘惑にしっかり囚われている証拠だ。

 溜息を吐きつつも誘われれば拒むつもりは毛頭無くて、むしろそれを待っている。

 受け身のようで度胸座ったずるい部分は、今までの女が俺のところに落として行った男女の在り方。

 まぁ、「先が見えねェ」などと不毛な愚痴を零しながら、顎から鎖骨に下りるまでのなまめかしい線を見せつけられたところで、結局キス以上に踏み切れずにぐずっているだけだろうと表現すれば、それはとても男らしい心境だと言い変えることも出来る。

 踏み出すことへの勇気が足りていないと言うよりも、その後の処理を躊躇っているに近い。

 奪った後で泣かれても迷惑なだけだし、冷静に後悔されてもたまったもんじゃない。

 向こうが熱を上げたんだ、俺じゃない。

 そう言い切れるくらい、確信出来る何か、形が欲しかった。

 そうでなければせめて、お前もまんざらじゃなかっただろう、と、責任を半分に出来る、何かが。

 無くしたくないから、変に臆病になるのか。

 盲目的なガキではいられない、俺の年齢がそうさせるのか、相手が寿だからそう思うのかは知れないが。

 強く風が通り抜け、寿が身震いをした。

 着ていた上着を投げるようにして肩に引っ掛けてやれば、寿は大切そうにその温度を抱きしめる。

 お陰で俺は少し体温が上がって、寒さを感じずに済んだ。

「中入れよ」

「外……がいいな」

「あ、オイこら!」

 寿が強引に腕をひっぱるものだから、俺はバランスを崩し、裸足のままでベランダに足をついた。

「お前なぁ」

 上着を取られたあげく、履くものも与えられずに夜空の下へと放り出された憐れな俺のことなど知らぬ顔で、寿は俺の上着に包まれたまま、間接的な月の光を浴びていた。

 決して熱を持った明かりではないのに、寿はやはり、何故か暖かそうだった。

 ため息混じりに肩を寄せ、見上げた空に、星は無く、それでも俺らはただベランダに佇んだ。

 意味のないものに意味を見いだそうとする、それは寿の生き方で、また、付き合ってやっている俺の在り方だった。

 突然、寿がくっくと喉を鳴らして笑った。

「……雪見月」

 月なんか見えてもいないのに、寿は、これが言いたかったんだと如くに、ボソリと呟く。

「シャレか?」

「かっこいいね」

「……シャレか」

 照れて微笑む寿が、何故か妙に愛しかった。

 いつもの八割増しくらいに綺麗に見えるのは、やっぱり夜だからか。

 あの間接的に照す妖しい光だからこそ、俺でも手をのばして良いような気になる、そんな――。

(違う、だろうな)

 結局は俺自身のせいだ。

 昨日よりも、綺麗に見える寿、それは、俺が彼女を昨日よりも好きだと思うから。

 ありきたりな言い回し、他人から生まれたその台詞を見つけるたびに“言葉足らずだ”などと吐き付けていたが、しかし今はその気持ちがムカつくくらいによくわかる。

「綺麗、だな」

 昨日よりも、確実に。

 しみじみ眺める俺の視線に気付いた寿が不思議そうにこちらを見るから、俺は代わりに、空を仰ぐ。

「……月が」

 やはり、月は見えなかった。

 寿は気付いていただろうか。

 同じように空を見上げて、何故か少し、泣き出しそうだ。

「雪見のためだよ」

「……」

“大事にするんだろ”と制止をかける俺はそこにはいなくて、もういいやと投げやりに、そのまま寿を抱きしめた。

「雪見……」

「和彦」

 髪を撫でれば、微かに震える手が俺の胸に触れる。

 俺はそれを強く握って隠してやった。

「和、彦」

「……なんで泣くんだよ、扱いにくいヤツだな」

「幸せ、だから?」

「俺に聞くな」

 鎖骨に舌を這わせても、服に手をかけても、抵抗は無かった。

 ただ強く俺の肩に腕を回し、少し背中を反らして目をつむる。

 柔らかく緩やかな肌を撫でる俺の指を堪えるだけの寿の様子に、特に待つ必要なんかなかったんじゃないかと馬鹿を見た気になったが、耳を甘噛みした時漏れた彼女の吐息がその分余計に甘く聞こえたから、俺はそれを、いくらか余分に時を待ち続けた自分へのご褒美にした。





fin.


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