『雪月花』



 ゆるい夜風が、読み掛けた雑誌のページを持ち上げた。

 薄っぺらな紙すらさらうにいたらない弱々しい空気の流れが、俺の手の甲をなでる。

 ああ、またか。

 開け放たれたベランダの窓が背後にある。

 その向こうに彼女の後ろ姿を探して顔を上げると、先手を打って声がした。

「雪見!」

 ソファベッドの背もたれ越し、名前を呼ばれて振り向いた形になったことが、なんだか少し悔しかった。

「何だよ」

「こっち」

 寿が笑って、髪が揺れる。

 あれは今さっき俺が感じたものとは少し違う、彼女が纏った別の空気だ。

 雑誌を閉じて立ち上がると、今度はその空気が寿の香を乗せて、俺の頬をくすぐって行った。

 銀色の桟に縁取られた向こうには、向かいのマンションの壁と、下方に排気ガスで濁ったヘッドライトの川があるくらいで、さして面白みのあるものでもなかったが、それが寿を際立たせる背景色だと思えば、まあ悪いものでもない。

 俺は外の風と部屋の温度が上手く交わる額縁に手をかけ、室内からぎりぎりのところまで身を乗り出して空を見上げた。

 寿は手摺りに手をついて、俺の方はもう見てない。

 寿が身を乗り出した重みで、ベランダ全体がギシと鳴った。

「また月探しか」

「そう」

 それなりの都会暮らしだ、隣もマンション、逆隣もマンション、正面しかり、後面しかり。

 一直線にその姿を捕らえることは割合難しい。

 時間帯が合わなければ光さえ遮られて、どこに浮いているかもわからない。

 寿のように、探すことを一興と思う人間には楽しい時かもしれないが、月なんてのは不意に目に入ってくるぐらいが調度良いんだと思うような俺には、ただ時間を無駄にしてるだけのように思えてならなかった。

 見える時間帯を調べておけばいいだろと呟いても、そっちの方が余計手間だと笑われたら、返す言葉も無し。

「夢の無い人ね」

と笑われ、

「現実的って言え」

 そう返せば、凹凸が埋まるように調和が取れていてるような気がしないわけでもなく、思ったよりも心地いい。


 何事にも文句を言いたくなるのは俺の性分だ。

 大したことでもないのに、癖のように口をついて出てしまうが、もちろん俺だって、余計な手間が悪いことばかりではないことくらい知っている。

 身をのりだして、立ち並ぶビルの隙間に月を探す寿が、「見えた」と叫んで、笑う時のあの顔が、俺はとても好きだ。

 まつげが揺らめいて見える程の、留まらない人の表情。

 あれは寿がむきになって月を探そうとするから現れるもので、見たときは、少し得をした気分になる。

 純粋に綺麗だと思った後は、キスをする時触れそうで触れないあのもどかしい距離を思い出して少しだけ変な気になるから、多少厄介にも思うが。

 同棲とか言いながら、未だ手を出せていないことが、衝動に拍車をかけるのかもしれない。

(ちなみに宵風の存在は関係ない。最近あいつ、ここに帰って来ないから)


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