「雷光、あたし――」
「どうだろう。私は今のお前が望むような存在になれないと思う」
まるで抑揚の無い声が私の心に容赦なく突き刺さった。
私はまだ何も言ってないのに。
雷光が私をどう思っていようが関係ないと思っていたのに。
内容に反し甘ったるい声が私の何かを掻き立てて―――。
『darkness』
カチつく陶器の音がうるさくて、私は持ち上げた紅茶のカップをもう一度台の上に戻した。
私達以外誰も居ない狭い空間。
雪見も和穂も、俄雨も宵風すら交ぜて
「寿は雷光が好きだ」
なんて浮いた話で盛り上がっていた連中が消えて、清閑とした部屋。
状況をわきまえていながら一人退室を渋っていた俄雨も、雪見が雷光のように一発殴って外へと無理矢理連れ出した。
奴らが何を目論んで私達二人を置き去りにして行ったかなんて自明も自明だけれど、そこに残るのはムードなんてとても言うことの出来ない、純粋な緊張だ。
音は消えても、揺れ続けるカップの中の液体、そして震えの止まない私の手。
期待なんかしていなかった。
好き勝手言うだけ言って居なくなったあいつらが何を思ってるかは知らないけれど、私だからこそ分かること。
雷光は私の事など、僅かにも気に留めてなんかいない……。
でも正面切ってふられてしまっては、動揺だって自然に生まれる。
関係を進展させるよりも私が心から望んでいた『変わらない間柄』というのが、たったこれだけの事で簡単に崩れてしまいそうに思えて。
私は奴等の余計な気遣いを心底恨んだ。
「そ…っか、うんそうだよね。なんかごめんね、私はそういうつもりじゃなかったんだけどさ、ほら、みんながさ」
途端に居場所を無くした私は、震えが全身に廻る前になんとか部屋を出ようと、腕で身体を抑えながら一直線に玄関へと向かった。
部屋と廊下を繋ぐ扉の傍らに雷光が立っていることに対し、心のどこかで警鐘なんかが鳴り響いてたとしても、気付かないふりをしなければ私はこのいたたまれない感覚から逃れる事は出来ない。
雷光の、とても澄んでいるのに何も映さない瞳を見て背筋に戦慄が駆けるが、それは恐怖というのか、又は別の何かからくるものなのか……。
私が恐ろしいと思うとするなら、動き出してしまったその何物かが表面化してきたような感覚がする、その事だけだ。
後者であるなら、それは――。
一度は通り過ぎた雷光の肩。
唐突に身体に衝撃が走って、部屋の風景が戻って行くのを見る。
「い……たっ」
腕を強く捕まれ引き戻された私は、食い込む雷光の指が与える痛みに動くことが出来ない。
全く姿勢を崩すことない雷光に見下ろされて、思わず睨み上げた後で、しまったと思った。
雷光は嬉しそうに笑った。
「“今のお前”ではなくて、私はもっと汚い寿が見たい」
「……っ」
背中にじっとり嫌な汗が滲む。
それは、微笑む雷光の顔があまりに綺麗だったからだ。
そして、それにほじくり返された自分の暗い部分を、抑え切れそうになかったから。
「何を」とありきたりな言葉を返そうと試みた私の口は、催眠術をかけられたかのように、自然にべつの音を紡ぎ出す。
「――どうでもいい」
雷光の手は、私の腕を変わらず掴み上げて弛まない。
「本当はどうだっていい。雷光が私を好きじゃなくったってそんなのどうでもいい」
引き出された本音は一か八かの賭みたいなもの。
言葉通り、向こうが私をどう思っていようがこちらの気持ち影響はないのだけれど、雷光がどう出るかは私の本性のあり方にかかっているわけだ。
「見たい」と言った雷光、でもその真意を探る事は私には出来なかったから、彼が求めるものを演じることは不可能だった。
私はただ彼の手の力がそのまま弛まないでいてくれる事を願った。
「私が死ぬ時、涙なんて流してくれなくても結構」
そんな私を“脆い”と笑い飛ばしてくれても結構。
死体に唾を吐き捨てられても構わない。
「どんなことをされてもそれを本望だと思う。アタシはそれくらいアンタが好き」
「……私は……」
奥歯を噛みしめた雷光の眉間に皺が寄り、同時に私の腕がさらに痛んだ。
「お前のそういうところが大好きだ」
音を立てて歪んだシーツの衣擦れを耳元に聴く。
スプリングの音を耳にして、雷光の腕におさえつけられた自分の身体が軋んだのかと思った。
瞬間の出来事に三半規管が狂って、自分が立っているのか寝ているのかも分からない。
あるのは正面、そしてそこに見える雷光の顔だけ。
それは、つまりは私の世界全て――。
ほどいた雷光の髪の毛から妖しい香が漂って、私の脳内を侵していく。
不気味なまでに整った輪郭でかたどった笑みに、憎しみにも似た感情を見つけた気がしたのは何故だったのだろう。
それに噛みつかれるように唇を奪われて、私はなけなしの理性を迷う事なく手放した。
初めからありはしない自我。
いや、この身や心がバラバラに裂けたとしても構わないと思うのは、むしろ私が自我の固まりである証拠なのか……。
触れ合う肌は快感と言うよりも境界線である違和感しかなく、厚いその隔たりをとても気持ち悪いと思った。
雷光は……気付いているのだろうか。
言葉にするより、私はもっと汚い人間だ。
綺麗に死ぬだけ、それが本望だなんて、私にとっては夢物語りの主人公の台詞。
ただでは死なない。
絶対にただでなんか死んでやらない。
その身体にナイフを突き立てて、えぐった傷が痕になるのを見てやっと逝くことを選ぶような。
私はもっと、汚い人間。
それでも貴方は、私を好きだと言える?
「寿…、好きだ、好きだよ……っ」
「雷光…」
まるで噛み合わない心の隙間。
私は何が悲しいのかもわからずにただ涙を落とした。
それは私が最後に触れた、『理性』なんて名の付くものだったのかもしれない。
恋愛感情なんて生易しいものは要らない。
今は、「そんなお前が好きだ」と言った雷光が、嘘つきな私も含めて私の全てを
見透かしてくれていることを祈るだけ――。
「寿、私は……っ」
「アタシは……っ」
あなたに溺れてる。
自分を陥れてくれたこと、呪ってしまいたくなるくらいに。
「もっと見せてごらんよ…! 私が後ろめたいと思わなくて良いくらいに、お前の汚いところを、全部……!」
私たちが居るのは同じ場所。
それはとても、深い闇の中。
そう思った瞬間。
頬を伝う私の涙は、喜びという名に変わっていた。
fin.