森羅万象。

 アレが私たちの中にあった何かを消去し、代わりに残したものは意外にも単純で。
 胸にぽっかりと空いて塞ぐすべもない、それはただの“穴”だった。
 変な喪失感が心を支配するけれど、特に生きて行く上での日常生活に支障をきたしているわけでもないあたり、もしかしたらさほど大事なものを無くしたのでもない、そんな気もしてくる。
 雪見の部屋で異質な存在感を放つ汚れたキャスケットを指で弄びながら、まあどうでもいいかとテーブルに投げ置いたあとで、崩れた形を整え直してみた。
 誰のものかもわからない、けれど決して誰も捨てようとはしない帽子。
 私が知らないだけで、きっと誰かの大切な物なのだろう。
 まあただの推測に過ぎないのだけれど。





『輪廻 side-A』






 寒々しい空は私の肌によく合う。
 濃過ぎる青は目に染みるし、高揚を誘う太陽の光は自分を自分でなくしてしまう魔力を持っていて怖いから嫌い。
 また雨の日なんて言ったら、泣くためにあるようなものとしか思えないし。
 萬天の少年が力を使ったことで、首領は二度目の森羅万象のもたらした影響の内容に感嘆しながらも、反面、焦燥感を抱いているのが目に見える。
 研究班は仕事が増えててんてこ舞いで、遊んでくれる雰囲気ではないし、何やら一番被害を被っているらしい雪見にいたっては、側に居るだけでその苛々が移りそうだから、よどんだ空気に嫌気がさすと私は決まって街へと逃げ出す。
 こんな気持ちになった時、今まで自分がどう過ごしてきたか思い出せないなんて点では、私もしっかり被害を受けてるわけ。
 人の記憶を消せるなんて便利な道具も、“何かがあった”という既成事実を残してしまう欠落部を考えると決して万能ではない、そんな風に鼻で笑ってやりたくなった。
 以前もこうして誰かと街を歩いたことがあると、私はしっかり覚えてる。
 雪見の部屋では“三人”で喧嘩をしたし、いつも一人分多い食事を用意していた。
 それが誰だか考えたところで森羅万象には逆らえないのだから、深く追求する事は止めておいたけれど。
 だって、なんだか哀しくなりそうだったから。

 上に向かった意識をふと人込みに戻せば、運悪く見知った顔に出くわしてしまって、空の色から離れたことを内心後悔した。

(萬天の…)

 森羅万象をその背に背負った少年。
 人と人との間にちらつく彼がこちらに気付き、私は自動的に目を逸らした。
 入れ違いで私に注がれる少年の意識。
“やらないの?”と僅かに首を傾げたようだったけれど、やはり気力も興らず、知らん顔でその場をやり過ごした。
 ただ気分じゃない、それだけの理由。
 彼は私の隣を通り過ぎた。
 彼の無表情は今に始まったことではないけど、この時程そのポーカーフェイスに感謝したこともない。
 去る者を追わない趣向は面倒でなくていい。
 それにしても、

(いったい私たちは…)

 何を失ったのだろう。
 肩がすれ違った時、一度は捨てたはずの疑問が再び頭をもたげた。
 答えをもっているのは、彼ではないその中にある森羅万象。
 でも、彼と共にあるからこそ手を伸ばせば呼び止められる、そんな距離にソレはいるのに、疑問を抱きながらも私はそうすることを躊躇した。
 胸の虚無の側面辺りに引っ付いた私の記憶が、彼を肯定しているような気がした。

『彼の選択は間違いではなかった』

 それは私たちが何かを失うことで、救われた存在があるということ。
 例えばそれがどんな形であったとしても。
 すれ違った少年を追い、正面から人が駆けて来るのが目に入った。

(知らない顔…)

 私を越したその向こうを見る無垢な瞳。
 辛いことなど何も知らない、生まれたての赤ん坊みたいな表情がやたら気にくわないと思った。
 今日は関わらないと決めたはずの、感情が欠落したみたいな顔しかしない萬天の少年に、何故か裏切られた思いをした。
 私には追い掛けようと思う人は居ないし、追い掛けてくれる人も居ない。
 まるで私を求めて人を掻き分けてるような、そんな錯覚、起こさせないで。
 避ける気も失って、中途半端に半歩を斜め前に踏み出すけれど、案の定肩がぶつかって、足を取られバランスを崩した。
 相手も同じようにふらりと力なく体制を崩して、男のくせにと思いながら謝りもせずに通り過ぎた。

(あ……)

 何事もなかったかのように背を向ける彼から私の知っている香りが漂う。
 通り過ぎたはずの彼が、三歩進んだ人込みの中で立ち止まった。
 瞬間、抑える間もなく涙が溢れたのは、なぜ?




fin.




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