『偏愛主義者の純愛』








「遅刻だよーっ」

「誰のせいだ!」

 電車の扉が開いて、寿と俺は競馬ウマさながら走り出した。
 取材用の資料と機具を肩にかけた寿は階段を下りるにも一苦労だが、それを気にしている余裕も、今の俺には無い。
 一応の社会人としては、仕事の時間に遅れるなど言語道断なわけで。

「だいたいお前が電車で行くとか言うからだ!」

 ラッシュの時間にはまった揚句、電車は見事に遅れるわで俺の苛立ちも最高頂。
 普段は車移動なのに、突然寿が駄々をこねるから…。

「だからガキは嫌いなんだよ!」

 ガキじゃないと後ろから響く声を耳に入れながら、俺は階段を駆け降りた。
……精神年齢の問題だ。
 夢見がちな寿の我が儘、付き合い切れないといつもは放って置くことにしていたのに、俺の気を引こうと試行錯誤を繰り返す彼女に同情して答えを曖昧にしてしまったのが運のつき。
 そして強気に攻めてくる寿に転機を翻され、最終的にわざとらしい上目使いにも息を呑んでしまった時点で俺の惨敗。

「だって一回経験してみたかったんだもん!満員電車!雪見と!」

 恥ずかしい台詞を上がった息に乗せて叫ぶ寿を当たり前のように無視して、ずり落ちそうになった鞄を肩にかけ直した。
 夢しか見てない女の言うことなんて知ったこっちゃない。
 今はもっと目の前の現実を見るべきで、そう、仕事に遅れるとか、遅れないとか、そういうこと。

「まえ読んだ小説の一節でねっ、“ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車内で密着する二人の身体、さりげなく彼女を庇う彼はそんなそぶりも見せずににこりと笑い『大丈夫か?』と”って」

「意味わかんねー事言ってねェで早くしろ!」

 走りながらも楽しそうに語る寿の言葉を遮って、俺は目の前の改札を駆け抜けた。
 寿の息切れが遠くに聞こえて、流石に振り返った俺が彼女を視界に入れるのが早いか、寿が俺を呼び止めるのが早いか。

「待って!」

 瞬間、口を開いた俺の言葉を奪ったのは、改札機から発せられた場にそぐわない奇妙で機械的な女の声。

『精算して下さい』

「…雪見ぃ」

「いいからさっさと精算して来やがれ!」

 改札越に荷物を全部俺に押し付けて、精算機へと全力疾走する寿を見送って頭を抱えた。
 時が止まったかと思う刹那の時間、立ち止まった彼女を目にしてひやりと冷たい何かが背筋を駆けた。
 たかが一瞬置いて行かれそうになっただけで、なんて顔するんだか…
 手にした切符を振りながら戻って来る寿の姿に、何故か俺は胸を撫で下ろしたい気持ちにかられた。
 諦めて携帯を取り出し、待ち合わせ時間を一時間遅らせようと電話を鳴らすが、相手が出ないのでメールを送った。
 今度は余裕ありすぎる待ち合わせなのは重々承知で、でもあいつが次に何を仕出かしても、もう絶対に遅れない。

「行ってきた!」

 寿に反省の色は、まるで見られない。
 初めから期待もしていない。
 元気そうに笑ったものの呼吸を整えるのも追い付かず、咳込みながらよろめく寿の腕を掴んで支えた。
 苦しいなら苦しいと、さっさと言えば良いのに。
 妙な我が儘は吐いて捨てる程出て来るのに、肝心なところで肝心なことを表に出さないその性格は厄介以外の何物でもない。
 そして無駄に取り繕うから、後々俺に面倒が回って来るんだ。
 気に留めてやろうともしない自分を棚に上げて、それを薄情だと微塵にも感じない俺自身に苦笑が込み上げた。
 いつか、寿が思ったことを自分から口に出すようになればいい。
 俺は気付いてないわけではないのだから、壊れてしまわないよう見ているだけ。
 少し乱暴に腕を掴んでやったこの手と同じだ。

「……ごめんね?」

 黙り込んだ俺に何を勘違いしたのか、顔を上げた寿が見せるのは冗談を全部抜きにした深刻な顔。
 返事を返さなかったのは、ちょっとした仕返しの代わりだ。
 滅多に見られない一面を目にし、そんな目前の光景に内心喜んでいる俺は、薄情ではないにしても不謹慎ではあるらしかった。
 この貴重な瞬間を覚えておくのも悪くないともう一度視線を寿に落とすと、目につく口の緩みは普段彼女が妄想にふける時の癖そのまま。
 どうやら彼女にしても不謹慎であることに代わりはないらしく、これでチャラだと喉の奥で呟いた。
 遅れたのは自分のせい。
 でも、雪見はかばってくれるんだろうなぁって思ったら、なんて、万遍の笑みに見合った寿らしい、ささやかでくだらない妄想の話。

「さ、急ぐよー!」

 メールの内容を知らない寿は、俺から荷物を奪うと出口へと勇み足で進む。
 そんな後ろ姿に込み上げた笑いを耐えて、俺が「とっくにフォローは済んでんだよ」と呟いたのは、やはり胸中でのことだった。
 意味のない謙虚さは治してやることが出来たとしても、この妄想僻とポジティブ過ぎて人を巻き込むだけの思考回路は一生治ることはないのだろうと思う。
 恐らく、振り回される事を心地良いと思ってしまう、俺の悪い癖も。






fin




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