れる


 鬱陶しい程の白。
 鮮やかなまでの白。
 表現のしようなんていくらでもある、積雪の色。
 雪の降り積もる夜は都会の真ん中でさえ深閑として、人間のぬくもりさえも奪い遠ざけてしまう何かがある。
 僅かに風が吹けば粉雪は立ち並ぶビルに行く手を阻まれ、力なく躊躇いがちに脇へと進路を変えて舞い積もる。
 陰となり、掬えば地が見えるほどに薄く雪が敷かれたこの場所は、世界に平等なんてあり得ないんだと僕に暗に語りかけてさえいるようだった。
 いつもだったら心静かにその様子を受け入れただ見つめているだけであっただろう僕も、今夜ばかりは敢えてその積雪を乱すことを決めていた。
 僕のかけがえのない唯一であり、同時に全てであった母という存在を奪ったその男を探し、追い続け、見つけた時、僕は唇を噛み締めながらも躊躇わずその肩に掴んでかかった。

「あ? 誰だテメェ」

「……目黒、目黒俄雨という名前に覚えはありませんか」

「目黒……がう? 知らねーよ」

 覚えがないと心底不機嫌そうに僕を覗き込む男の顔、気付けばただわけもわからずに殴り掛かっていた。
 非力な僕一人では勝ち目ないことなどわかりきっていた。
 それでも立ち向かわずにはいられなかったんだ。
 平凡だけど何よりも大切だった僕の幸せな時間を悲しい想い出に変え、未来さえももぎ取って行ったこの男に、せめて僕が胸に抱えた痛みの何億分の一かでも与えることが出来たなら。
 そう心から願っていたんだ――。



「ぐっ……」

 アスファルトのざらつきが頬を削り、僕は思わずくぐもった悲鳴をあげた。
 先に手を出した僕に仇は返り討ちだと喚きながら、何度となくこの身体を殴り飛ばしては笑った。
 露わになった灰色のアスファルトに僕を叩き付けて、さらに泥とかき混ぜ楽しむ目の前の相手を僕は必死に睨み上げた。
 どんなに腹を蹴られようが顔を殴られようが、初めは威勢良く働いていた口もいつしか言葉を紡ぐことさえ止めた。
 鉄の臭いがじわりと口内に広がる。
 塩辛い涙の味と混ざればそれは、あの日に刻みつけた憎しみという感情と同じ味わいをしていた。

 脳裡に焼き付いて離れない、母を失ったあの日の光景が僕の足を支え、諦めることを選択肢から消した。
 例え力及ばなくとも、この命果てようが奴の指一本でも食いちぎって冥土の土産と出来るなら、それは本望だ。

「はっ、くだらねぇ」

 はいつくばった僕が一度動かなくなったのを見、でもそこで「勘弁してやるよ」と、呆気なく背を向けてしまうそいつは、とても浅はかだと思った。

(こんな奴に……っ)

 手の中で儚く熔ける淡雪などではない黒い現実を握り締めて僕は立ち上がり、手を振り上げたが、余る力を持て余して膝が崩れた。
 てのひらから転げた石つぶてに気付き激怒した男が同じように転がったままでいる僕のところまで引き返して、そして再び脇腹を蹴り上げる。
 体温と共に身体から抜け落ち雪に点々と滴る液体は、濁るわけない鮮血のはずなのに、僕にはそれが赤いのか黒いのかも判別付かなかった。

(意識、が……)

 悔しさで滲む視界を通して見た世界は、とても不安定だった。
 僕一人消え失せたところで、歪みに生じたビルの隙間にただ呑み込まれて行くだけ――。

 狂っているとしか思えない男の表情。
 憎悪は感じるのに、どんなに四肢を踏みつけられようが、凍る空気にかじかんだ身体は痛みさえ認識出来ない。

 悔しかった。
 とても、悔しかった。
 僕は、まだ何もしていない。
 誓った復讐も、奴の胸倉を掴むことすら出来ていないのに。

(終わる……?)

 仰向けに空を見上げ、一点から舞い落ち降り注ぐ雪に吸い込まれそうになりながら、閉じかけたまぶたのその先に、闇を切り裂く一瞬の煌めきを感じた。
 瞬間、目を見開くと、倒れこんで来た男の顔に眼前を支配された。
 男の絶叫は声にはならずに、でも顔面いっぱいに広がる苦しみの表情からは酷い叫びが聞こえて来るようだった。
 ポタポタと男の胸から僕に滴っていた赤い滴は、突き刺さっていたそれが抜かれると、濁流が量を増すようにして噴き出して、飛び散ってあたりの雪を溶かした。
 男が倒れてひらけた視界のその先に、見知らぬ別の人影が日本刀を一振りし、まとわりつく血液を振り払う姿を見た。

 例えばそれが、僕から家族を奪ったのと同じ、忌むべき力だったとしても。
 目の前を流れた一筋の光は、儚くもあたたかい――救いだ。

「愚かだ」

 まるで面識のないその人は、どうしてか懐かしむように僕のことを見下ろした。

「とても愚かだ。己をわきまえないその男も、命を軽んじるお前も……行動を省みない私も」

 彼は血を拭き取った懐紙をその場に置き捨て、命を説きながらも、自分が切り捨てた体に足元の紙を見るのと同じような矛盾した一瞥を向けた。
 朦朧とする意識の中で呆然とその人を見上げ、

「お前は家にお帰り。待つ者の所へ」

 そう言った彼が背を向けた時やっと僕は喉を震わす術というのを思い出した。
 自分と男の血臭が入り交じり、呼吸の度に不快感が生まれ、むせながらやっとの思いで言葉を発する。

「帰る……場所なんて……」

「……無いのかい?」

 上体を起こして座ったまま僕は動くことが出来なかった。
 僕の復讐は終わったのか?
 こんなにも呆気なく簡単に?
 憎悪という感情が行き場を無くし、消えた反動か、思い出したように押し寄せてくる悲しみに涙が……涙が溢れて止まらない。
「来るかい」と言いかけたまま僕を見てその人は止まり、長い空白の後言葉を換えてもう一度言った。

「――おいで」

 差し伸べられたのは、その細身の身体に似合わない、皮膚の分厚くなった苦悩と時間とを感じさせる大人の手だった。
 僕は迷子の子供みたいに戸惑いながら、でも、導かれるままその手に自分のそれを重ねた。
 その時掴んだぬくもりを僕は今でも覚えている。
 それは、あの日失いかけた命に代わり、流れる血潮となって今もこの身体を巡り続けている――