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彼が姿を消してからどれほどの日々が過ぎたのか知れない、工藤新一は相変わらず小さな少年、江戸川コナンの姿で毛利家で生活している。
たとえ事情や素性を説明していないにせよ、結果的に頼ったのが自分でなかったことが少し、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは自分が彼の一番でありたかったという願望のせいなのだろうと、やけに冷静な目で自分の心理を分析している自分がいることに名前は静かに苦笑した。
そして同時に再認識する。
彼に相応しいのは彼女、毛利蘭なのだと
美人であり、スタイルも良い
加えて家事が得意で勉強も出来る。
そんな優良物件、お買い得商品が身近にいて、しかも幼馴染みだなんて恋をしない方が嘘だ。
* * *
名前は大きく伸びをした。
本日は晴天、桜の木に残る花弁は僅かになり春の終わりを感じさせていた。
そんな昼下がり、部屋の冷蔵庫の中身が空なことに小さな絶望を感じた名前は財布を片手に玄関を出た。
さあ今日のランチは何にしようかと、スーパーへの道をゆっくりと歩きだす。
そう遠くもない近所のスーパーは徒歩5分程度の距離、名前はデニムにカットソーというなんともラフな出で立ちで、町並みを眺めながらぼんやりとしていると、路地の曲がり角から人影が顔を出した。
「よお」
ぎこちなく作った様な笑顔でフランクに声をかけてきた人物の姿を見て名前は足を止めた。
それは高校生から小学生へとその姿を小さくした友人、けれどその姿は見慣れた高校生のもので、名前は"まさか"と不安を過らせた。
解毒剤の試作品、それをあまり服用したら身体に免疫抗体が出来てしまうのではなかっただろうかと
けれど、そんな名前の心配など知るよしもない工藤は路地から出て名前の真正面に向かいあって立つと「なんだよ、その顔は」と顔をしかめた。
「幽霊でも見たみてーな顔しやがって」
「……誰も死んでるだなんて思ってないよ」
苦笑混じりにそう答えれば工藤はほんの少し表情を柔らかくした。
コナンの姿であれ、新一の姿であれ必死に気付かれまいとひた隠す様子には何とも困らされる。
ばれないよう、気付かれないようにと隠す人相手に知っているよ何どと簡単に言える訳もなく、話を合わせて名前は「久しぶりだね」と嘘を交えた言葉を口にした。
「おお、だな」
頷く裏で、工藤は"俺にとっては久しぶりでもねーんだけどな"と苦笑う
けれど真実を知らせる訳にはいかない、それはつまり危険なことに巻き込むという事だからだ。
まさか名前に気付かれている等と夢にも思っていない工藤は、名前の顔を覗き込んだ。
「相変わらず、ぼーっと歩いてるなオメーは」
「久しぶり会ったと思ったらそれ?」
失礼なと憤慨してみせれば、工藤は悪戯っこの様に笑った。
やはり好きだと実感させる笑顔に胸が小さな痛みを運んできた。
それを何とか堪えながら名前は何でもない風な顔で訊ねた。
それはある種、自身の傷を抉る行為に近い
けれどそれは仕方ないことだと名前は諦めの言葉を胸の奥で呟いた。
「…これから行くの?」
主語のない問い、なんのことだと工藤は首を傾げた。
「別になんの予定もねーけど?」
なにが言いたいんだと眉根を寄せる工藤
「またまた、そんなこと言って」と名前は笑った。
完璧な作り笑顔、工藤はそれに気付いただろうか?
「待ってるんだから、そんなこと言ったら駄目だよ」
そう、彼女は待っている。
不安と寂しさにうち震えながら、必ず戻ってくると信じている。
コナンの姿を見て工藤の安全を確認出来、元気な姿を見れば安心出来るような、そんな自分とは訳が違うのだ。
だからこそ、少しの間だとしても元の姿になれている今の内に会うべきだ。
名前はもう少し、もう少しだけとわがままにも一緒にいる時間を欲しがる自分を叱咤して工藤の肩をとんと叩いた。
「ほら、早く未来のお嫁さんに会いに行きなよ」
それは最大限の強がり、自虐を孕んだ言葉
「はあ?誰の事言ってるんだよ」
「誰って、そんなの蘭に決まってるじゃない」何を今更と名前は笑った。
その瞬間だった。
視界に暗い影が落ち、それが工藤が距離をつめたせいで生まれたものだと認識するのに数秒、真正面に彼の胸板が有ることを理解するのに数秒
時にしたら極めて短い、ほんの瞬きの様な一瞬
名前の肩は近くのブロック塀に押し付けられた。
どんと鈍い音が骨に響く
今までにない乱暴なそれに名前は押し黙り静かに動揺した。
「そんなんじゃねえよ」
低く静かな否定の声音に名前は聞き間違いだろうかと目を見開き、顔をあげた。
そこには逆光の中、こちらを見下ろす大きな双眼
「し、新一?」
不安げな声で名を呼べば、溜め息に似た吐息が吐き出された。
「……つーか、オメーにだけはそれ言われたくなかった」
傷ついた様な表情で瞼を伏せる工藤、何故か胸がきつく締め上げられる思いがして名前は自身の衣服の裾をきつく握った。
胸が痛い、ぎりぎりと締め上げられる痛みに言葉が思うように繋げられない
「新一、あの…さ」
しどろもどろな声音が容易く工藤に名前の心情を筒抜けにさせ、汲み取らせる。
「今日はオメーに話があって来たんだ」
なんの話だと声に出す間もなく工藤は瞳に力強い色を宿して続けた。
「……なあ、俺の推理聞いてくれるか?」
強気な態度に押し負けそうで、寄せられる顔から逃れようと顔を伏せ、名前は両肩をがっちりと掴む工藤の腕を振り払った。
「ちょ、ちょっと」
振り払った勢いそのままに名前は距離を取ろうと工藤の脇を抜け道路へと駆け出した。
その瞬間、大きな車のクラクション音が駆け抜けた。
「名前っ!」
今しがた振り払ったばかりの腕が貴女の名前の二の腕を掴み、引き寄せた。
すると先程まで名前の立っていた位置に孟スピードの車が走り抜けていった。
「あっぶねぇな…」
ほっと息をつく工藤の吐息が首筋にかかり、あまりの距離の近さに思わず息を止め、直接触れる髪を整える素振りをしながら吐息のかかった首筋に髪を被せた。
直接触れる吐息の暖かさは目眩を起こしてしまいそうな程甘く、戸惑ってしまう
「いきなり道路に飛び出すなよな、危ねーだろうが」
それは、アンタがいきなり顔を寄せてくるからじゃないかと反論しようにも、車のクラクションが鼓膜にこびりつき上手く口を動かせない
けれど、それに気付かれてなるものと名前はぽつりと呟いた。
「……放っておいて良いよ、平気だから」
友人なのだ、彼は
そう何度言い聞かせても至近距離に顔があれば戸惑うし、胸は切なく震える。
分かっている。
この痛みを何と呼ぶのかくらい知っている。
けれど気付かないふりをしていたいのだ、今の居心地の良い環境を壊したくないのだ。
「バーロー放っておけるかよ」
そういって工藤は名前を抱き締めた。
眉根を寄せ、苦しげな吐息を吐きながら「んなこと出来るわけねーだろ」と呟く
心から絞り出された様な言葉、それを名前は顔を背け可愛いげの欠片もない言葉で打ち返した。
「どうせ傍にいない癖に」
「……それを今言うなよな、相変わらず痛いとこつくなオメーは」
顔をしかめる工藤に名前は吹き出した。
こんなにも居心地の良い関係だというのに、これ以上を欲しがってはバチが当たるというものだ。
だから、これで良いのだと自分に言い聞かす。
「けど、オメーがピンチの時は俺が絶対助けに行くから」
紡がれる言葉には優しさと思いやりが溢れている、そこに特別なものが混じっているのではと期待しそうな程
名前は俯いた。
真っ直ぐ瞳は人を射殺せる、そんな気がしてならなかった。
「だから」と工藤は言葉を続けるが、直ぐに口を閉ざした。
「なんつーか、その、あれだ」俺を好きなままでいてくれ、なんて身勝手で推測を出ない願望的な言葉を言える訳もなく、工藤はこう言い換えた。
「……全部片付くまで待っててくれるか?」
問いの答えなど名前の中では既に決まりきっていて、きっとそんなこと名探偵工藤新一にはお見通しに決まっている。
だというのに敢えて問う工藤の心理が読み取れず、名前は無理矢理にっこりと笑顔を浮かべて恐らく彼が想定しているであろう答えとはやや違う、可愛いげの欠片もない回答をわざと口にした。
「新一より素敵な人が現れない限りは待ってるよ」
「……んだよそれ」
不服げに唇を尖らせる工藤
「浮気したら許さないからね、なんて」そう冗談を装って付け足せば工藤は眉を寄せて溜め息を一つ吐いた。
「バーロー」
彼特有のその単語、それに名前は懐かしさと愛しさを感じ表情を崩した。
それはどこか悲しげで、穏やかな苦笑
そんな名前の額に工藤は自身の額をこつんと宛がい、小さく少しばかり照れ臭そうに続けた。
「それは俺の台詞だ」
額と額を合わせて、笑いあう二人は端からみたら一体どんな風に見えているのか、幸運にも辺りに人の気配はない
例えいたとしても今の二人には周囲の事よりも、視界を埋め尽くす程の至近距離にある体温と表情が全てだった。
(ねえ新一、本当は知ってるよ)
今どんな状況にいるかとか何をしてるのかとか、それを教えてくれないことが優しさなのだとも知ってる。
だからその優しさを私は沈黙という形で受け入れる。
「……どうだか」
小さく笑って呟いた悪態、工藤は触れていた額を離して不適に微笑んだ。
「俺を信じろよ」
短く簡潔なその言葉には全てが含まれている様な気がした。
* * *
本来ならコナンとしての生きているという事実を教える訳に行かないのなら、さよならと一言伝えればきっと彼女を楽に出来るのだろう
いつ戻れるか分からない、そんな不確かな状態で、ただ自分を信じて待っていてくれと言うのはあまりに酷ではないだろうか、あまりに虫が良すぎる言い分ではないだろうか
……俺を待たなくて良い
短く簡潔なその単語を言う勇気も度胸もない
待っていてくれ、いつか必ず戻るから、そう声になりそうな自分の本心を必死に押さえつけようとしても、本能とも言い換えられるその叫びは簡単に収まる訳がない
嫌なのだ、どうしようもなく
元に戻った時、一番に会いに行きたいと思うのも迎えてくれるのも君であって欲しいと身勝手にも思ってしまうのだ。
そこで浮かぶ1つの疑問
「……名前、お前」
知っているのではないだろうか、工藤の脳裏に一つの予感が走る。
江戸川コナンと工藤新一が同一人物だと気付いているのではないだろうか
確かに今までもそう思わせる言動や態度があった。
工藤は名前の瞳を見つめ返した。
そこには苦笑とも微笑とも受け取れる何とも曖昧な表情を浮かべる名前がいた。
工藤は思わず息を飲んだ。
間近にある名前の顔に改めて自分のした行動の大胆さに気が付いた。
けれど今さら身体を引いて離れるのも男が廃るというものだ。
名前がぽつりと言った。
「……いくらでも待つよ」
顔を伏せ少し恥ずかしそうに唇をすぼめて紡がれた言葉、工藤は目を見開いた。
「待ってて、くれんのか?」
「……らしくないよ?いつもの新一なら、良いから待ってろってこっちの意見なんて無視して言うよ」
あははと笑う名前の眼差しがすっと細められた。
「弱気なこと言わないで」
それは強がりなのだと、優しい嘘なのだと工藤は直感した。
長い間見ていた女だ。
表情一つ、動き一つに見せる嘘の癖に思考するより早くもたらされる。
工藤は自嘲した。
追い詰めていたのは真実を話せない事ではなく、弱気な自分なのだ。
なんと情けない事だろうと、工藤は自身を叱咤した。
彼女は待つといったらその約束を違えるような人物でない、そんなこと今更だ。
そんな不器用な程の真っ直ぐさに恋をしたというのに
工藤は大きく「よし」と頷き、名前を抱き締めていた腕を離すと後ろに半歩下がり少しばかりの距離を取った。
「じゃあ言い直すから良く聞けよ」
えへんと態とらしく咳払いをしてから、自信に満ち溢れた真っ直ぐな瞳で名前を見つめた。
「待ってろよ、俺は必ず……名前、お前のところに戻ってくっから」
風も息を潜めた様な静かな時間、見つめ合っていた時間がどれ程の長さだったのか、工藤の言葉を聞いた名前は口角を持ち上げて微笑んだ。
「嘘ついたら許さないからね」
人差し指と親指で簡易的な拳銃の動作を起こしながら、名前は銃弾を放つ真似事をして見せた。
バンと控えめな声で撃ち抜く音を声にした。
工藤は名前の手首を掴んで強く、はっきりと頷いた。
「おー任せとけ」
にかりと歯を見せて笑ったその顔は眩しい太陽の様で、名前は嬉しそうに表情をふにゃりと柔らかく崩した。
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bkm