小説 | ナノ

◇ 口を開けるは

 それはさながら底なしの沼のようであった。
 どこまでも深く深く続いていくようであって、しかしながら狭苦しく身動きの取れない空間のようでもあった。暗闇の中に床の上で口を開いた、彼のスタンドにのみ許されるその空間は、宵闇の中で僅かに月の光を受け止め静かに金属の縁を光らせる。規則正しい金属の凹凸は開かれたままのむき出しの牙を彷彿とさせ、身動ぎ一つしない佇まいは、悪意など微塵もなく生きる本能で全てを捕える、入念に狩りの準備を終えた獣の気配を湛えていた。

――ごくり。

 思わず喉が鳴った。からからに乾いたそこに唾液が絡みついて、ひどく不快だ。背中を冷や汗がじとりと濡らす。何か言わなくては、と思うのに、声が出ない。
 彼はすうっと目を細め、腰を低く落とした姿勢のままで、闇の中白く浮かび上がる、それでいて輪郭のはっきりしない指でその縁をなぞった。

――ああ、彼が食べられてしまう!

 そう思ってもしゃがみこんだ足は動かず、彼の愛おしげな手つきから数秒足らずで手慣れた猛獣使いへの見当違いな心配をしたと知る。その理解は、己の浅慮さからくる恥ずかしさよりも安堵を強く感じさせた。
 張り詰めた空気を、彼の涼やかな声が揺らす。感情の読めない、爽やかな、風の心地よい夏の夜のような声。

「何処につながっているのか、どこまで広がっているのか。誰にも分からない。無論、オレにも」

 澱んだ闇に溶けきらない艷やかな黒髪をさらりと揺らして彼は唇の端を吊り上げる。夜闇に濡れた唇が弧を描いて光る。見慣れた筈の笑みが、何故か背筋を震わせた。

「別に、恐ろしいのはおまえのスタンドだけじゃあないって話さ」

 そう、ぼくの脇腹には、先ほど自身のスタンド――正確にはその攻撃手段である凶悪なウイルス――に食い荒らされた皮膚を切り離してくれた、同じような金属の縁が光っていた。ぼくはこれから、自分に溶かされてしまう恐怖、自分を消し去ってしまう恐怖と共に生きていくのだろう。
 彼に寄り添う、彼によく似た寡黙で理性的なスタンド、まさしく側に寄り添うものとしてぼくの目に写ったスティッキィ・フィンガーズでさえも、彼を脅かすような恐怖を与えることがあるというのだろうか。
 力は、決して代償なしでは手に入らない、のだろう。はじめから大きな力を持っているようにみえる人間は、おそらく誰かが代替わりして支払っているのだ。
 スタンドという、この超能力を行使するにあたり、代価として差し出しているのは恐怖や覚悟、なのだろうか。紫の分身と出会って日の浅いぼくにはまだ、この想像がどの程度真実に近いのか、あるいは笑ってしまうほどかけ離れているのかさえわからない。
 
――飲み込まれてしまいそうだろう?

 そう呟いて静かに微笑む彼の瞳がほんの少し陰りを帯びたことだけが、今のところ理解の及ぶ真実だった。




お題『暗闇に包まれし床』
制限時間:15分(+なんやかんやで一時間)


[ back ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -