アシンメトリー・ラブ
冬の冷たいツン、とした空気が鼻に付く。微かな痛みを覚えた鼻をズッと短く啜って、赤也は「あー…」と気怠そうな声を洩らした。
1限目の中庭。遠くから聞こえてくる先生の授業に何となく耳を傾けて、空でも見上げようかと顔を上げると、視界にふと現れたニヤリと意地悪そうにほほ笑む、口元のほくろが特徴である先輩によって阻まれてしまう。
「…何か用っすか」
「別に。サボろうとここへ来たら先客が居ただけの話じゃ」
「へぇ」
よいしょ、と赤也の隣に腰をかけた仁王は「おー…、さむ。おまん、よくこんな所でじっとしてられるな」と苦笑を浮かべた。そんな彼に「寒いなら教室戻ったらいいんじゃないっすか」と素っ気なく返し、身体ごと仰け反らせて今度こそ空を見上げた。
雲一つない一面水色の澄んだ空。
つい、何か月か前の全国大会の時の暑さが嘘だったかのような感覚に襲われ、小さく芽生えた違和感に赤也は一気に飲み込まれた。
「先輩もあと少しで卒業なんすね」
「いきなりどうしたんじゃ?」
「べっつに。仁王先輩にはいろいろ嘘吐かれて振り回されたな〜ってふと思っただけっす」
「ほう…」
グッと腕を振り上げた赤也は空気を押し上げるように腕を伸ばした。自然と吐き出される声と息の後に「あー…ねむ…」と小さく零して、目を擦った。
「そんなに眠いなら肩貸してやるぜよ」
「別にいらねーっす」
「…つれないのぅ」
自分にもたれ掛るようにと促そうと赤也の肩に回した手を呆気なく振り払われ、仁王は口を噤んだ。
「先輩が卒業したら、俺たちの関係もきっと終わるんすよね」
「そうとは限らんぜよ」
「終わるんすよ」
仁王はいつになく真剣な声色の赤也に自分の手元へと落としてた視線を彼へと移す。相変わらず空を見上げている赤也の表情からは何一つとして彼の考えている事は読み取れなかった。
コイツは何でもすぐに顔に出す、自分の恋人であり後輩の切原赤也なのか。ぽつりと浮かんだ疑問は解決することもなく、仁王へ更なる衝撃を与えた。
「だって、俺…先輩が卒業してもこの関係を続ける気無いっすから」
ガンッ、と頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。言葉にならない声さえも洩らせず仁王は開きかけた口をぐっと噤んだ。
「なんつー顔してんですか、先輩。らしくねーっすよ」
「いや…」
「まさか、俺がこんな事言い出すと思わなかった?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる赤也に少し安心して、ふっ、と笑い声をこぼす。そして、「そういう冗談は面白くないぜよ」と続けようと口を開きかけたところで赤也が先に口を開いた。
「冗談じゃないっすよ。先輩が卒業してまで俺はこの関係を続ける気は無いっす」
ぐっと仁王に詰め寄って、あと数センチで唇が触れそうな距離でじっと見つめ合う。瞳の奥を覗こうとしても赤也の瞳からはやはり何も見ることが出来なかった。
「でも…」
にっと口端を釣り上げた赤也が言葉の続きを紡ぐ。次に出てくる一言にここまでも振り回されることになるとは、詐欺師の異名が付いている仁王としては信じられない事であった。 赤也との恋人という関係の上で、いつでも赤也より優位に立ち、自分は赤也に愛されていると確認しては満たされていた仁王。 いつでも、「好きだ」と気持ちを伝えていたのは赤也の方。自分はそんな赤也に「俺もダニ」と冗談っぽく返事を返すだけであった。誰よりも自分が一番赤也を好きだったというのに。
確かに、もうすぐ自分は卒業する。しかし、いつでも素直に自分へ好きだと伝えてくれる赤也とのこの関係に終止符が打たれることになるとは予想もしていなかった。
「でも、何じゃ…」
「仁王先輩が…俺のことを好きだって態度で示してくれるなら、少し考えてやってもいいっすよ」
耳元に寄せられた唇が吐息交じりにそう囁く。赤也が仁王から離れると、不意に冷たい空気が赤也の触れていた部分を彼の痕跡を掻き消すかのように撫でる。
「…例えば、どうやってそれを示すんじゃ」
「んー、それは先輩に任せるっす。…じゃあ、次は俺授業出るんで戻りますね」
仁王に背を向けてひらひらと手を振る赤也。そんな彼の背中をぼんやりと眺めながら、仁王は苦い笑いを零した。実際、こうして1人になってみると寂しさが身に染みるな、と胸にぽっかりと空いた穴にどうしようもなくなって俯いていると、不意に自分に影が重なった。
「あか、や…っんん」
「諦めるとかは無しっすよ、先輩?」
顎を持ち上げられて強引に重ねられた唇。大きく目を開いた仁王の表情に満足げに笑うと赤也は再度、先程の道を再び歩き出した。
関係を終わりにするなんていうのは嘘。
本当はいつまでも仁王を繋いでおきたいのだ。
しかし、あと数か月で自分と彼を繋いでいた一つである先輩と後輩という関係が終わってしまう。
そしたら、いくら仁王が自分を愛してくれてたとしても、少しだけ自分から離れて行ってしまいそうで怖いのだ。
それならば―、
自分から仁王を突き放してみればいいんじゃないか。
そう思った。
「赤也…!」
案の定、数歩歩いたところで後ろから自分を呼ぶ仁王の声が耳に届く。
授業間の休み時間に差し掛かった為、仁王の声は辺りの生徒の視線を集めるには充分すぎた。ゆっくりと、赤也が背後を振り返ったと同時に唇にぬくもりを感じた。
「俺は何を言われようとも、おまんを手放す気はないぜよ」
得意げに笑ったいつもの仁王に、にやけそうなのを堪えながら、
「そりゃどーも」
と赤也は言う。