しあわせになる魔法のことば


―影山。なぁ影山!どうかしたか、影山。
確かに俺の名字は影山である。しかし、飛雄という下の名前もちゃんと存在している。だが、俺の周りにいる人間はこぞって俺の事を「影山」と呼ぶ。

「影山!おい!聞いてんのかよ!」
「うっせぇボゲ、ちゃんと聞いてる!」

人が疎らになった教室で頬杖なんかをつきながら窓の外をぼんやりと眺めていたら、不意に耳に届いた大きな声に現実へと引き戻された。ピョコン、と揺れるオレンジ色の髪が眩しい。やんややんやと騒ぐ彼を尻目にバッグを手に取った俺は足早に教室を出た。後ろから日向が俺を引き留めるような声が聞こえたが、気付かぬ振りをして。
春と言えど、3月の風はまだまだ冷たい。頬を撫でる柔らかくも強い風に俺は肩を竦めた。部活のない午後は何故こんなにもつまらないのだろうか、帰ったら何をしようか、バレーがしたい。そんな事を考えながら歩みを進めていると、前方に見知った姿を発見した。

「お、影山じゃん」
「こんなところで何してるの」
「帰り道だ、分かんだろボゲが」

声をかけるべきか否か、悩んでいるうちに向こうに気付かれた。青城へと進学したかつてのチームメイト、金田一と国見の間に挟まれて特に意味もない会話を交えながら、2人との分かれ道に差し掛かる。じゃあ、と何気なく別れて1人きりの静かな道を歩く。

「飛雄ちゃーん!」

玄関先の門を開け、鍵はどこにしまったかとバッグの中に手を入れ探っていれば背後から聞き慣れた嫌な声が耳に届いた。小さく溜め息を吐いて、ゆっくりと振り返れば案の定たった今、声を聞いた瞬間に脳裏に浮かんだ笑顔そのものを浮かべた及川さんが俺に向かって手を振っていた。

「何か用ですか?」
「いーや、別に?部屋の窓から外見てたら飛雄がちょうど見えてさ」

―飛雄。俺の周りの人があまり口にしない俺だけの名前を及川さんはこうも簡単に口にする。

「暇なんですか」
「だって俺、今春休みだし」

俺の断りもなくズカズカと家の敷居を跨いだ彼は長く細いその腕で俺の肩を抱いた。

「飛雄も今、部活ないしどうせ暇でしょ?」

指先に引っ掛けたバッグの中からようやく探し出した鍵を自然に掬い上げた及川さんが鍵穴にそれを差す。ガチャガチャと開錠する音が聞こえて、自分の手の中に鍵が戻ってきた頃には何故か彼と共に家の中。

「あの、暇だからって勝手に家に上がり込まないでくれませんか」
「勝手にじゃないでしょ、飛雄が誘ったんでしょ」

キュッと鼻を抓まれたかと思えば、次にはもう及川さんは靴を脱いで俺の部屋へと向かっていく。そんな自由気ままな彼の背中を追って自室に入れば、手首を掴まれ身体は彼の腕の中へと引き寄せられた。

「飛雄」
「なんですか」
「飛雄」
「はい」
「好きだよ」
「…そうですか」

何度も名前を呼ばれ、好きだと繰り返す及川さん。至近距離で紡がれる言葉が耳元を擽る。

「飛雄は好きって言われる時よりも名前を呼ばれる時の方が嬉しそうな顔をするね」
「そうですか…?」

ふにゃりと笑った及川さんが俺の視界を奪う。鼻を掠める彼の匂いと共に唇に訪れた柔らかい感触。

「他の奴にそんな可愛い顔見せたくないな」
「俺のこと名前で呼ぶ人なんて家族以外に及川さんくらいしかいないです」
「そっか…それは安心だ」

頬を撫でられ、愛しいものを見る目で見つめられると何だか恥ずかしくなって俺は視線を下に向けた。近くに感じる気配を意識しないように他のことに思いを巡らせてみても上昇していく体温は止まらず。

「と、…徹、」

震えた唇から出された掠れ声が羞恥心に拍車をかける。高鳴る鼓動にもうどうにでもなってしまえと及川さんの胸に顔を埋めれば、彼の胸からも自分と同じ速度の鼓動が聞こえた。控えめに顔を上げれば、頬を真っ赤に染めた及川さんが見えた。

「飛雄、それはちょっと反則だと思うんだけど」
「なにがですか…?」
「え、徹って呼んだじゃん、今」
「呼びましたけど…」
「女子には徹くん〜とか呼ばれてるけど、徹って呼ぶのはおかあちゃんくらいだし飛雄に呼ばれるとなんていうか、あー…その…「徹、さん」…ときめくね」

あー、だのうー、だの言葉にならない声を洩らし、彼らしくない動揺した様子を見せる及川さんが少しだけ面白くて俺はもう一度、彼の下の名前を呼んだ。今度は「さん」付けで。すると、大きく目を見開き動きを止めた後、恥ずかしそうな笑みを浮かべて短くそう言った。

「好きだって言ってもらうより何倍も嬉しいかも、これ」
「俺もそう思います」
「ねぇ、飛雄」
「なんですか」
「もう一回、呼んでくれない?」
「……徹さん」
「もう一回!」
「…徹さん」
「もう一回!」
「もう呼びません!」

何度も名前で呼んでくれと強請る及川さんを突き飛ばし、恥ずかしくなった俺はベッドへとダイブする。布団を頭まで被ってギュッと目を瞑れば、ベッドの端に腰を掛けたらしい及川さんが俺の背を揺する。何か言っているが聞こえない振りをして、またいつか及川さんがこの事を忘れた頃に呼んでやろうと心の中で決めた。
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