曇りガラスでは見えない





『先生、きのう出したしゅくだいは集めないんですか?』
優等生の言った一言は、宿題をやってこなかった切原に大打撃を与えた。授業の終了を知らせるチャイムがなり、先生もこれで終わりと言って教材を片付け始めていたのにも係わらずに、だ。その優等生はわざわざ忘れていることを思い出させたのだから、切原は勿論他の宿題をやっていなかった生徒からも反感を買った。当の本人は良いことをしましたとばかりの満足顔を浮かべており、なお腹が立った。
放課後、いちゃもんをつけ、「がり勉」と罵り泣かせて先生から拳骨を食らったのも、当時小学生だった切原には不服でしかなかった。
優等生は自分に取って不利益しか生まない存在であり、同類である学級委員、委員長も例外なく嫌悪の対象であった。できれば関わりを持ちたくないし自分からは近付かないと思っていたのだが、そうもいかなくなったのが前代未聞の合同学園祭だ。強制的に参加を義務付けられ、出店までやらされて真面目にやれというのも無理な注文であり、第一回目の集まりはそれを物語っていた。
テニス馬鹿といっても過言ではないくらいにレギュラー全員は、ひたむきにテニスへの努力を重ねる。王者立海大のプライドもあるため、どれだけ真面目に取り組んでいるように見せても内心は複雑なのは間違いないと切原は確信していた。
唯一やる気を見せていたのは、部外者である運営委員の広瀬静という人間だけであった。テニス部員でもなく、テニス部を積極的に応援していたというわけでもない。だからこそ、こんなふざけた行事に意欲的になれるのだとなるべく関わりをもとうとはしなかった。それを悪いことだとも思ってはいなかった。



「切原くん、準備はどう?」
「うぉっ!」
日差しが照りつける中での作業は勉強並みにつまらなく、叱る先輩も出払っているためすぐに集中の切れとともに木陰へと避難していた。トレーニングなら文句をたれつつもこなすことはできたが、無駄だと思っている作業についてはやる気なんてものは湧かなかった。
そんな様子をよりにもよって運営委員の広瀬静に見られるのは不運でしかなかった。作業道具は出しっぱで放置されているため、見るものが見ればすぐに状況を理解することができるだろう。
サボっているのを注意されるかと身構えたが、予想を反して広瀬はにこにこと笑顔で手提げカバンから何かを取り出した。
「よかったらどうぞ。作業お疲れ様です」
差し出されたのは缶のスポーツ飲料だった。条件反射で思わず受け取ると、冷えた感触が手から伝わってきた。
「冷てぇ……」
「保冷仕様のカバンに入れてたんだ。せっかくの差し入れなのにぬるかったら嫌でしょ? ちょうど家にあったから持ってきたの」
「……へぇ」
広瀬はいつもこうだった。気配り上手で機転が利き、笑顔を絶やさない。それが普段そっけなく接している切原に対してでもだ。平等に親切を施すその姿は、普通だったら「いい子」と思うかもしれないが、切原からすれば「胡散臭い」の一言に尽きた。
何もかも出来すぎているのだ。まるで完璧なマネージャーのような文句の付け所のない仕事ぶりは、部内一――もしかしたら学校で一番かもしれない――真面目な真田をも感心させるほどであった。他の先輩もはじめは距離をとっいたものの、今では笑顔を見せるくらいの好意は見せている。その姿はもう赤の他人とは呼べるものではなかった。それがますます面白くなかった。
その気持ちを思い出し、受け取った缶のプルタブを開けられないまま持て余してしまっていた。このまま立ち上がって逃げられたらよかったのだが、なぜだか腰を上げる気になれなかった。あとで何かを言われるのが嫌なのかもしれない。その場で言わず、あとになって影で文句を言う女が経験上多かったせいだ。
視線を明後日の方向に向ける。視界には準備中の模擬店しか映らない。昼の時間に近いせいか他校生もまばらであった。それでも適度に雑音がするので、この空間だけに流れる無言の空気にも耐えることができた。
真っ先に避けたのはその視線だ。同学年というのが大きいのか、切原を見る広瀬の目には親しげなものが強く込められていた。それも当然で、他の部員は全員3年生だ。揃って人懐っこさとは無縁の――よく言えば大人な――先輩たちだった。初対面での慣れない共同作業の中で、自分が一番仲良くできるかもしれないと思うことも分かる。
だが、ここまでのことを頭で理解していても感情がすんなりと入ってこないのだ。邪魔をする苦手意識が確かに存在する。
慣れない感情の揺らぎにうめき声を上げそうになるも、気配が動くのを感じて視線がそちらへ動いた。見ると、広瀬が並ぶ形で地面に腰を掛けていた。適度な距離は保たれてはいたものの、その行動は予想外だったため声が出なかった。
「今日も一段と暑いね。他の先輩たちも休憩中?」
「真田先輩とジャッカル先輩は足りない道具やらを取りに行って、仁王先輩はサ…、ふ、ふらっとどこかいった……」
サボりという言葉は今最も言っては言けない単語であった。それは自身にも当てはまる。
「そっか。仁王先輩って不思議な人だよね。はじめは怖い人なのかなって思ったけど全然違って、この前なんて手品まで見せてくれたんだよ。先輩って奇術師って呼ばれてるんだよね?」
「きじゅつしじゃなくて詐欺師」
奇術師が何を指しているのかがいまいち分からず、発音が少しだけ悪くなる。他の相手ならすぐに訊くのだが、彼女に尋ねるのはどこか気後れした。
「あ、そうだったね」
ふふっと笑いを漏らす。その顔を見て、嫌なものが心に広がった。
なぜ近づくのだろう? なぜこうして無駄話ができるのであろう? どうしてそうやって笑えるのだろう。
喉を何かが上ってくる。吐いてしまえたら楽になれるのだろうか。
「そういえば、切原くんは宿題やった?」
「アンタには関係ねぇだろ」
周りの音が消えた気がした。頭にしまったという文字が浮かぶ。呼吸が少しだけ不規則になった。
「あ、うん、ごめんね……」
明るい日差しが広瀬の申し訳なさそうな顔を照らし出す。ここで初めて彼女が切原のいる木陰ではなく、真夏の日光が注ぐ日の下にいることに気づいた。距離を空けていたため、その分外に出てしまっていたのだ。そうさせた原因はすぐに分かった。
脳裏にスローモーションで蘇る。広瀬が一瞬酷く傷付いた顔をしたのを切原は見逃さなかった。彼女はこちらの気持ちに気づいている。
そこで自分が彼女に何をしたのか気付いた。口が悪いとか、気遣いが足りないなど周りの人間に散々言われてきたが、今初めて自覚をした。罪悪感が波のように押し寄せてくる。さすがにこの状況での非はこちらにあった。
眉尻が下がって顔が俯いてしまったのを見て焦りだけが加速していき、両手で広瀬の顔を包み込むと、柔らかい頬をみょーんと引っ張った。
「ふぇ!?」
「わ、笑えよ……」
泣き顔を見るよりは、と起こした咄嗟の判断は自分でも無理やりだとは思ったが、これ以上悲しげな表情を見るほうがもっと嫌だった。
「……悪かった」
普段言い慣れない言葉を口にするのは中々に勇気がいった。顔を横に背けたまま、呟いた言葉は戻ってきた雑音の中にまぎれてしまった。
手に何かが触る。驚いて真正面を向くと、軽く添えられたのが広瀬の手だと分かった。
「ひいりはらふん、ひたひ」
その言葉でバッと勢いよくつまんでいた手を離した。なぜかそれは背中の後ろに回される。触られた部分をさすっていると急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「私のほうこそごめんね? 突然部外者が入ってきたら嫌に感じるよね」
部外者。彼女の謝罪は今までの自分の態度に対するものだった。
心の内で渦巻くもやもやの正体に名前をつけられた気がした。苦手意識は優等生からくるものだったが、それなら近づかなければいいだけの話だ。それなのに目で追っていちいち腹を立てていた。これは部外者がテニス部レギュラーの中に入り込んできたことが癇に障ったのだ。
感情の説明がついて少しだけ落ち着きが取り戻せた。
「なんであんたが謝んだよ。悪いのは俺だろ。……ジュースのお礼も言わなかったし」
罪悪感を覚えたのは、広瀬が記憶の奥底にいた優等生の委員長とは違い、嫌な性格をしていなかったからだ。積極的に仕事をし気配りすることを忘れない姿は、どんな人間なのかを物語っていた。切原の偏見が全てを歪ませていた。
「それに、あんたちゃんと役に立ってるから謝る必要はない。何も悪くねぇよ」
「ううん、そんなことないよ。私がいる時、切原くんがいつも視線をどこかにやってるのに気づいてた。それなのに踏み込んでいっちゃって切原くんの気持ちを無視していたの。……本当にごめんなさい」
頭を下げる姿を見て度肝を抜かれた。大声を上げて手を振り回す。
「わぁっやめろって! 違うっ悪いの俺! 俺だから!!」
埒が明かないやり取りにあたふたし、この状況を抜け出せるすべがないか周りを見回す。真面目な人間というのはいろいろな意味で厄介だと実感した。
首を振って打開策を探している中、ふと、やり場のない手にはプルタブの開けられていない缶が目に入る。それにピンとくると、それを広瀬の頬にくっつけた。
「頭冷やせって。そんで、俺の顔を見ろ」
上げられた顔には驚きが浮かんでいた。冷えたそれは冷静になるスイッチをきちんと押してくれたようだ。
「きりがないから、もうこれで最後にする。悪いのは俺で、あんたは悪くない。だから聞いとけよ」
すぅと息を吸い込み、今度はしっかりとその瞳を見つめる。
「俺が悪かった。ごめんなさい」
瞬きもせず、広瀬は切原を見返した。目は口ほどにものを言うと聞くが、今その瞳に何が浮かんでいるのかさっぱり分からない。思えば、自ら進んで謝ったのはほとんどない気がする。拳骨をくらいながらもあの優等生には最後まで謝らなかった。お陰でクラスの女子を全員を敵に回した結果となった。
なのでごめんなさいを口にして、女子がどんな反応を見せるのかを知らなかった。相手が答えなければこちらからは動きようもない。待つ。それだけのことだ。
だが、気まずさに耐えられず、思わず尋ねてしまった。心臓が急かす音に耐えられなかった。
「へ、返事は……」
口がゆっくりと開かれる。
「はい」
唇が柔らかな曲線を描き、広瀬は答えた。いつもの柔らかな笑みに息を撫で下ろした。
「なんか『ごめんなさい』って言われたの、小学生以来かも。……ごめんなさい、か」
「何度も言うなって。恥ずかしいだろ」
「ごめん、ごめん。なんか久々だったから新鮮に思えて。悪い意味じゃないから心配しないで」
その言葉通り、表情にいつもの明るさがあった。人当たりのいい雰囲気は、今ならいいと思うことができた。
流れた冷や汗もどこかへ消えて、乱れていた呼吸も元通りになった。ほっと胸を撫で下ろすと、広瀬が言いにくそうに「あのね」と呟いた。なぜだかもじもししている。
「これからは、仲良くできるかな……?」
「は?」
心の底からの驚きを込めて問い返すと、広瀬は怯みを見せた。慌てて口を塞ぐも、脳内では言葉のリピートがされていた。
仲良くできるかなというのは、お友達になってくださいと言っているようなものだ。自分が言ったわけではないのに恥ずかしさが込み上げてくる。そんな告白は今まで一度だって受けたことがない。
広瀬は切原の言葉を待つつもりなのか、その口は引き結ばれて閉じられている。不安そうに揺れる瞳だが、真剣だという気配が伝わってきた。なんて返答しようか迷いはしたものの、その真っ直ぐな目は嫌いじゃなかった
「あーうん、いいぜ」
そう言うと、広瀬の顔が明るく輝いた。前のめりになって距離を縮めてくる。
「ありがとう!」
「あ、でも」
頭の中にかつての嫌な思い出が再生される。優等生が嫌いになった原因はそもそもここにある。
「さっきサボってたことは他の先輩――特に真田先輩に告げ口はすんな……いや、しないでください」
「分かった。それじゃあ、後ろから来る真田先輩には、作業の打ち合わせを休憩しながらやっていましたとって言っておくね」
切原が振り向く前に、真田の叱責する声が耳に飛んできた。いつの間にか真昼の時間になっていた。
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