「カズホ、一緒ニ帰ロウ」

"豚"が俺の名前を呼んで、近づいてくる。

「…………ああ」

俺は間をおいて、俯いたまま返事をした。急いで学生鞄を持って、豚の顔を見ようともせず席を立つ。
豚にはこの席の近くに寄ってきて欲しくないのだ。垂れ流す唾液で机を汚されるのが嫌だったし、獣臭さを俺の周囲に撒き散らさないで欲しい。

この本心を知る者ならきっと『豚と一緒に下校なんてしなければいい』と思うことだろうが、そうできれば苦労はしない。
豚──いや、"彼"のことは無下にできない理由がある。

「カズホ、最近元気ナイな。何かアッタのカ」
「…………いや」

嫌悪感を胸に押し込めながら豚と共に通学路を歩く俺は、必要最低限の受け答えだけを徹底する。
会話をする時に吸う空気のあまりの獣臭さに、嘔吐いてしまいそうになるからだ。

「お前ハ俺の親友ダ。何か気ニなルコトがあッタら、正直に言エヨ」
「……ありがとう」

俺はとりあえずの笑みを浮かべて礼を述べる。が、それは愛想笑いなんて可愛いものではない。もはや蔑笑だ。
俺の中の豚への嫌悪感は積もりに積もって限界が近く、愛想笑いすらも上手くできなくなっていた。

この豚はかつて俺の親友だった男だ。しかし数ヶ月前に突然、親友は豚になってしまった。
友人があまりいなかった俺によくしてくれて、俺も彼を信用していて。彼は大切な親友だったのだ。……親友、だったのだ……。

「お前サ、俺ノことウザイと思っテル? 最近、俺のこト避ケてルヨな?」
「……そんなことは」
「嘘ダな」

豚は一度だけ汚らしく鼻を鳴らすと、俺の方を向いて腕を掴む。

「ひっ……」

俺は思わず小さな悲鳴を上げてしまう。久しぶりだったのだ、豚に触れられたのは。蹄が腕に食い込んで、青痣が出来そうなほどに肌が痛む。

「ナ、ナんダってンダよ……? そンなにあかラさマに避ケなくッテもイイだロ……」
「ご、ごめ……そんなつもりじゃ……」

もう潮時かな、と思う。彼と親友として接することにそろそろ限界を感じているのだ。いっそのこと嫌われてしまえば楽になれるだろうか。

豚がゲホンと唾を飛ばして咳をした。腐敗臭にも似た臭いをまとう唾液が俺の顔に飛んで、ねっとりと垂れ落ちる。

彼が人間であったなら、これはほんの少しの唾液だったかもしれない。
彼が人間であったなら、嫌悪感もほんの少ししか感じなかったかもしれない。

だが俺の豚への心理的抵抗がそれらを誇張させていた。汚らしくて、生理的な涙が溢れ出しそうになる。

「俺サ、お前ニ言おウと思ッテたコトがアッたンダ……」
「い、痛いから……もう腕、離して……」
「嫌ダ。そうシタらお前は逃ゲルだロ」
「逃げない……逃げないから……」
「デモ、離サなイ」
「……いッ──!」

豚が鼻を鳴らしながら、その汚い顔を寄せてくる。近寄るとなおさら獣臭が強まって、俺の顔は青ざめるばかりだった。

豚は唾液を垂らすだけでなく全身からダラダラと汗を噴出し始め、ベったりと粘ついた腕で俺の体を抱き寄せようとする。
俺は必死になって豚を拒絶するが、とうとうその脂光りした小汚い豚の胸に抱き締められてしまった。

「お前ノコトが好キなンダ」

地獄のようだった。俺の瞳孔は開ききって、息は荒く、大量の冷や汗を流す。体温は下がり、震える体は抑えることができず、全身に鳥肌が立つ。豚がモゴモゴと何か言っているが、俺はそれどころではない。

離してほしい。離して。お願いだから。何でもするから。ずっと堪えていた涙が滝のように溢れる。

「ずット好キダッタ」

──ほら、足開いて。いい子だね、ご褒美に気持ちいいところ舐めてあげるよ

──気持ちいいでしょ? 素直に気持ちいいって言えば、おじさんがもっとイイことしてあげるよ

──おじさんと和穂は仲良しだからこんなことをしてるんだよ

──おじさんはね、和穂のことが

「愛シてルんダ」
「うっ、あが──ぐ、うぇぇえ……!!」

俺はとうとう我慢ならずに豚の胸へ吐瀉物を撒き散らした。昼食に摂ったものすべてを嘔吐して、それでも吐き足りないとばかりに酸い胃液が喉を突き上げてくる。

「ナッ……カズホ、大丈夫カ……ッ!?」
「もう……はぁっ……俺に近寄るな……ッ!!」

俺を心配そうに抱く豚を力いっぱい突き放す。誰のせいでこうなったと思っているのだ。白々しい。
もう俺に構わないでくれ。お前が豚になった瞬間、すでにお前は俺の親友ではなくなったのだ!!

「俺はお前が嫌いだ! 吐き気がするくらい嫌いだッ……!」

そうだ。豚は豚であって、決して人間ではない。
人間ではない家畜の豚が俺の親友だって? ──馬鹿馬鹿しい。

「もう俺に近づかないでくれ! 話しかけないでくれ……!!」
「……ッ!?」

豚は一度大きく鼻を鳴らすと、わなわなと震え出す。俺の言葉が相当ショックだったらしい。豚は放心したまま、言葉を継げないでいた。

俺はそんな豚を冷めた目で一瞥し、その場からふらりと立ち去る。
豚の体へ盛大に吐瀉物を撒き散らしてしまったが、あの豚の方こそ俺に汚い唾液を飛ばしてきたし、凶器にもなる硬い蹄で痛いくらいに腕を掴んできた。

ならばお互い様だろう。あの豚が汚物に塗れた格好で外を歩き、人間から穢らわしいと避けられることを思うと気分が高揚して、これまでの意趣返しにもなった。


帰宅してすぐ、俺は風呂に入って全身を痛いくらいに擦って洗う。豚に触れられたところが気持ち悪くて仕方がなかったのだ。
長時間の風呂から上がった俺は身も心も疲れ果て、髪も満足に乾かぬうちに下着姿のままベッドの上に寝転がり、天井を見上げる。

「……」

俺は幼い頃のトラウマから、俺に対して愛欲や情欲といった感情を抱いた人間が男女共例外なく"豚"に見えてしまうようになった。

親友は数ヶ月前に突然豚になった。恐らくその時期に俺への恋愛感情を自覚し始めたのだろう。

俺は親友に愛されていた。でもだからといって、あんな風に元親友を拒絶してしまったことに罪悪感は湧かない。
豚になった瞬間、そいつはもう人間ではない。俺にとって、豚という存在は最も忌避すべき存在だからだ。

俺は一生誰とも愛し合うことはできない。寂しくないと言えば嘘になるが、だからといって豚と生涯添い遂げるなんてそれこそ御免蒙りたい。

今まで例外なんてなかったのだ。男だろうが女だろうが、年齢がいくつであろうが、俺に好意を持ってくれた人間は皆すべて豚になってしまった。

俺は人間が豚になってしまうからくりを理解した時、人と関わるのをやめた。
どんどん根暗になった。どんどん友人が減った。そして今日、唯一と言っていい親友を失った。

無条件で愛を注いでくれる父も母も、もうこの世にはいない。
俺は孤独だ。どこで俺の人生の歯車は狂ったのだろうか。

事故に遭ったとき? 叔父に性的虐待を受けたとき? ──それとも生まれたその瞬間から?

そんな孤独な俺がただ一つ願うのは、『人間に愛されたい』ということだけ。
俺も普通に生きている人たちと同じように、豚ではなく、人間に愛されたいのだ──。



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