僕は獲物 |
身体に力が入らない。
さっきから僕に食い込んでいる牙の所から血が流れて、意識が朦朧としてきた。
ちょっと離れたところに、長い毛を逆立たせて僕をくわえている猫を威嚇しているタマが見えた。
―僕は獲物―
僕をくわえている黒猫も喉の奥から低いうなり声をあげて、タマを威嚇している。
たぶん、僕からは見えないけどこの猫も背中の毛を逆立てているんだろう。
「飼いネコさん、悪いことは言わないからあったかいお家に戻んな」
「分かってると思うが、ここは俺のなわばりだ。飼い猫だって縄張りを汚い野良猫に犯されたら黙っちゃいられねーんだよ」
黒猫に負けないくらい低いうなり声を上げて、タマは黒猫に詰め寄った。
「それは俺の獲物だ、そこに置いてさっさと帰るんだな」
獲物。タマの言葉に僕は落胆した。
食べられてしまう命の危機から、僕はタマが助けてくれるんだと思ってしまってたんだ。
頭の中にさっき見たタマがネズミを食べている姿がよみがえって身震いした。
黒猫はタマが引かないと分かったからか、僕を後ろに投げてタマに向き直った。
地面に叩きつけられて、今まで牙が食い込んでいたところから鋭い痛みが走る。
「つぅ……」
黒猫から自由になったチャンスに逃げようと身体を動かそうとしたけど、痛みと血が抜けて朦朧とした身体は動いてくれなかった。
僕が動けないと分かってあの黒猫は放したんだろう。
黒猫は、タマと勝負するつもりなんだ。
僕は、それでもなんとか動こうと身体に力を入れた。
「チュウタ、そこでじっとしてろ!」
タマの僕に向けられた声が聞こえて、そちらを向く。
タマの瞳が一瞬僕に向けられて、すぐに黒猫に戻った。
それだけで僕は悟った。
タマは、僕を助けてくれる。
直感でそう感じて、僕は身体の力を抜いた。
傷はジクジク痛むけど、タマを信じてその場にうずくまる。
雪がちらちらと降っては、積もらずに地面に落ちて消えた。
僕の上にも雪が降って、傷を慰めるように雪が包んだ。
黒猫がタマに向かって低く響くうなり声を一際大きく上げたのを最後に、僕の意識は途切れた。
温かい。
タマのお腹で眠った時みたいだ。
ゆらゆらと僕の身体は揺れて、温かいものが何度もなでていく。
その心地よさにうっとりと身をまかせていると、小さな声が聞こえた。
「……ウタ」
「ん……タマ……?」
目を開ければ、屋根裏の天井と心配そうに覗き込むタマの顔が見えた。
「おい、大丈夫か」
そこで、僕はさっきまでの出来事を思い出して起き上がろうとした。
けど激痛で起き上がるどころではなくて、うずくまる。
慌てたようなタマが僕の傷をペロリと舐めた。
「い……つッ」
「動くんじゃねぇよ。やっと血が止まったんだ」
「う、ん。ごめん」
僕は助かったんだ。タマが助けてくれた。
そう思うと、嬉しくて涙が流れた。
「おい、大丈夫か、まだ痛むのか」
慌てたタマがおかしくて、僕はクスクスと笑った。
泣きながら笑うなんて、変な感じだ。
「痛くないよ。うれしくって。……ありがとう、タマ」
タマを見上げてお礼を言うと、フイと顔を背けられてしまった。
「俺はただ、なわばりに侵入してきた猫を追い払っただけだ」
照れてる。
そんなタマがかわいくて、僕はさらに笑う。もう涙も止まった。
「なんだ、笑うんじゃねぇ!」
タマが僕の尻尾をパシンと叩いた。
そこで、あることを思い出して、僕は聞いた。
「タマは、僕を食べるの?」
「あぁ? 食わないって言っただろ」
「でも、さっき……ネズミを食べてた」
「……あー」
そう言ったきり、タマは何かを考えるみたいに黙り込んだ。
暫くの沈黙の後、タマはボソボソと喋りだした。
「俺だって、ネズミは食う。けどな、お前は獲物に見えねぇんだよ」
「え、でも。ご飯は足りてるからって……」
「知らねぇよ! 俺だって。お前と会った時は、なんつーか、とにかく食う気になれなかったんだよ!」
そっか、と思った。
タマは獲物として見えない僕の前で、仲間のネズミを食べるなんて言えなかったんだろう。
「お前が猫だったら食ってるところだ」
「え……、今食べないって行ったじゃないか」
「だー! そういう意味じゃねぇよ!」
「ご、ごめん。じゃあどういう意味なの?」
タマの言ってる意味が分からなくて、聞き返すと、困ったような顔になったタマは突然また僕を舐め始めた。
さっきとは違う乱暴な舐め方で、猫の舌特有のザラザラとした感触が痛い。
「痛いよ」と講義すれば、「わ、悪い」とやけにバツが悪そうなタマの声。
頭を下げたタマの耳が見えて、僕は驚いた。
タマの右耳が、欠けている。
さきっぽの部分がちぎれて、血が滲んでいた。
「た、タマ。その耳どうしたの? さっきの黒猫? 大丈夫?」
「これくらいどうってことねーよ。すぐ治る」
少し力の戻ってきた身体を慌てて起こして、タマの頭によじ登る。
そうして、欠けた部分を丁寧に舐めた。
この部分はタマも自分で舐められないから、代わりということと、ごめんね、という気持ちで。
「なっ、チュウタ!」
「ごめんね、タマ。僕なんかのために」
くすぐったいのか染みるのか、タマは耳を伏せた。
怪我をしてる僕を乗せてるからか、タマは大人しく頭を伏せている。
「フン、いいよ。これくらい。お前がいなくなるくらいだったら安いもんだ」
「ん……」
「チュウタ、もう引越しはするなよ。ここにずっと住め」
「うん……」
「お前が他の猫に食われないように守ってやるからよ」
「うん……」
タマの傷ついた耳を舐めながら、思った。
僕も、タマがいなくなるくらいだったら死んじゃうかも。
それくらい、タマが好きだ。
それから、僕は毎晩、タマのふわふわの毛に包まれて眠った。
タマも僕に頭をぎゅっと押し付けて自分の匂いをつけると、安心したように僕を抱いて眠った。
その幸せな空間は、もう他のネズミにも、猫にも邪魔されることはなかった。