狐憑き 2 |
「……し、……し?」
声が聞こえる。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「……もし?」
英聡は一気に覚醒し、声の主から距離を取った。
小さな悲鳴が聞こえる。外はすっかり日も落ちて、家の中には頼りない月の光が入ってくるのみだった。相手の姿が見えず、英聡は気配を探る。
確かに誰かいる。気配はするのだが、どこにいるのかまでは分からなかった。相手がどこにいるのか分からず、微かに焦る。
「『狐憑き』か?!」
強い声でそう叫ぶと、闇の中からクスクスと笑い声が聞こえた気がした。瞬間ゾワリと背中を悪寒が駆け抜けて、ともすれば膝の力が抜けてしまいそうになる。
――人ではない。
力が抜けないようにギリリと奥歯を噛み締めて、気配を探る。
その時、何かが動いた。一瞬で抜刀した刀がそちらの方に振られる。
確実に捕らえたかと思えたがしかし、何も手応えは無く宙を切った。
直後、ひっという小さな悲鳴が聞こえた。先ほど聞こえたものと同じようだ。
英聡は暗闇に慣れてきた目を凝らし、声のしたほうを見つめる。
薄っすらと人影のようなものが見え、英聡は刀を構えなおした。意識して見ると、その人影が着ている白い着物が暗闇の中仄かに光って見える。よく見ると、その人影は膝を抱えて小刻みに震えている様子で、どうも子供のように見えた。
――油断してはいけない、『狐憑き』だ。
そう頭の中で警戒する。
「おい」
低く声をかける。子供は大げさなほどびくりと身体を震わせて、顔を上げた。
「お前は『狐憑き』か」
英聡の問いかけに、子供はブンブンと首を振る。長い髪が振られて音を立てた。
「ち、違います」
今にも泣き出しそうな少女の声。必死に見上げた顔が、月明かりに照らされる。
その顔を見て、英聡は息を呑んだ。
月明かりに照らされた白い肌は透けるようで、大きなくりくりとした瞳には今にも溢れそうなくらい涙を湛えている。ぷっくりとした少女らしい桜色の唇が小刻みに震えていた。
綺麗に切りそろえられた黒髪が額を隠しており、触ればサラリと音を立てそうな髪に月明かりが金輪をかけていた。
「名は」
思わず見とれてしまい、我に返って質問する。少女は『狐憑き』ではないと言ったが、こんな場所に一人でいるのは怪しすぎた。
「やち、と申します」
桜色の唇が動いて雲雀のような声を紡ぐ。
「何故こんな所にいる」
また見とれそうになるのを、更に質問を重ねて誤魔化した。
やちは少し迷ったような気配の後、
「ここに住んでおります」
そう言った。
言葉は弱弱しいものであったが、少女が嘘をついているようには見えない。
「親御はどこへ行った」
すかさず切り返す。この年頃の少女ならば、両親と暮らしているはずだ。
「親はおりません」
少女の返事に英聡は軽く瞠目した。こんな廃墟で一人で暮らしているというのか。
水瓶の水は確かに新鮮なもののように見えたが、どうも少女が暮らしているようには見えない。
だとすると、やはりこの少女が『狐憑き』なのか。英聡はそう考え、刀を握りなおす。チッという音に、少女はビクリと肩をはねさせた。
少女を斬るか、一瞬の逡巡。その時、クスクスと笑い声がした。少女からではない。先程聞こえたものと同じ声だ。
「誰だ!」
周りの気配を探る。しかし、先程と同じで何も感じない。
「やちは『狐憑き』じゃないよ」
突然後ろから聞こえた声に、英聡は瞬時に振り返った。何故気付かなかったのか、今まで英聡が立っていたすぐ後ろに、すらりとした長身の男が月光に照らされて立っていた。
少女と同じ様な白い着物に白い肌、そして何より、長く美しい白い髪が月光を反射し、まるで後光のように輝いている。
「僕が『狐憑き』だよ」
男はそう言うと、
「いらっしゃいませ、英俊殿」
と優雅な仕草で軽く頭を下げた。
いつの間にそこに、何故自分の名を知っている、などと混乱しながらも、英聡は男を見返した。
――この男が父の仇。
そう頭で分かっていても、男の妙な威圧感に押され、刀を振ることが出来ない。
「お父上の仇として僕を殺しに来たんでしょう。それ誤解だからさ、取り合えず刀しまってよ」
言い当てられ、得体の知れない怖気が英聡を襲う。心を読んだのか、この男には英聡の目的が分かっているようだ。
誤解と言われても、自らを『狐憑き』と言い英聡の心を読むような男の前で丸腰になる訳には行かなかった。
「そんな事どうして信じることが出来る」
搾り出すように反論する。男はまたしてもクスクスと笑うと「そうだよね」と手を上げた。
「証明出来ないけど、僕には噂になってるような呪詛は使えないから、人を呪い殺すなんて出来ないよ。なぜか勝手に呪い殺せるとか変な噂が広がっちゃって、僕も迷惑してるんだよね」
男が足音もさせずにくるりと回る。ふわりと浮いたように見えて、英聡は目を見張った。
斬り込む絶好の機会だった。英俊は気付き軽く唇を噛んだ。
「ならば何故父は突然死んだというのだ」
「知らないよ」
「なに……?」
英俊の心を読めるくらいだ、父の死の原因も知っていてもよさそうなものだ。しかしあっさりと言い捨てられ、肩透かしをくらった気分だ。
「僕が分かるのは英俊殿の事だけ」
男がゆっくりと腰をかがめ、英聡と目線を合わせた。囁くような男の言葉が英聡の身体に響く。
頭にモヤがかかったようになり、身体の力が抜けていく。カシャンという大きな音を立てて、しっかり握っていたはずの刀が落ちた。
「……お前、何を、した」
かくりと膝をつきながらも、気を失うまいと必死の英聡は、辛うじてそれだけを言った。
男はクスクスと笑いながら英聡の頬を優しく撫で、触れるだけの口付けをする。
それに驚いて一瞬目を見開いたが、英聡にはもう抵抗する力も残っていなかった。
「かわいそうな英聡殿。もう大丈夫。ずっと僕たちと一緒だよ」
男の言葉を聞きながら、英聡は気を失った。
*
「矢智、いい加減その格好やめたら?」
気を失った英聡を軽々と抱き上げながら『狐憑き』の男が言う。
声を掛けられた少女は、クスリと笑い優雅に立ち上がった。
「この格好もなかなか気に入っているんですが」
幼いながらも美しい顔が残念そうにしかめられる。直後、少女の足元から真っ白な煙が立ち上り、またたくまに少女を包み込んでしまった。
煙が足元から段々と消えて行き、先程の少女とはとても思えないすらりとした長身が覗く。やがてすっかり煙がなくなってしまうと、そこには少女が着ていたものとは真逆の夜の闇に溶けてしまいそうな黒い着物を見に纏った男が立っていた。綺麗な長い黒髪と、とても男とは思えないような美しい顔立ちに辛うじて少女の面影が残っている。
その姿を見て、『狐憑き』の男がため息をつく。
「矢智ってさ、性格悪いよね」
それを聞いて、少女だった男……矢智は不快になるでもなく、ただクスリと笑った。
そのまま、『狐憑き』の男を置いてすべるような足取りで家から出て行く。
『狐憑き』の男もそれに続いて英聡を抱いたまま外へ出た。
村とは反対の、うっそうとした森の中へ足を向ける。
「子供の、それも女性の姿の方が人間を油断させやすいですからね」
「だからって英聡殿の時まで騙さなくてもいいんじゃない?」
英聡へ目をやれば、すやすやと寝息を立ててはいるが、目じりに涙を溜めている。
矢智はそれを見つけると、細い指先で優しく涙をすくってやった。
「あらら、何かいやな夢でもみているのかな」
「智那(ちな)に散々怖がらされましたからね……。きっと夢でも智那にいじめられているんでしょう」
「いじめだなんて失礼だなぁ。英聡殿には優しくしてやったじゃない」
智那と呼ばれた『狐憑き』の男は、矢智に嫌味を言われ頬を膨らませている。
「確かに今日は随分と優しかったですね。いつもの地那ならば、人間が正気を失うほど痛めつけるというのに」
「ま〜ね♪英聡殿は僕の大切なお嫁さんだからね」
いつの間にか、彼らは神社の前にいた。
眠っている英聡には、智那の言葉は届いていなかった。