「人魚姫3」




 リオワは嘗て、中央大陸全土を統一していた程の強国であった。
 それがこの数百年のうちに、まるで上流から流れ落ちた岩が波に殺がれて丸い小石に成り果てるように、併呑された部族達の抵抗によってその勢力を削られていった。今ではすっかり、昔の栄華など見る影も無い小国に成り下がっていた。
 それでも完全に滅んでしまわないのは、国主信秀が手段を選ばずに存続させようと奔走していたからである。
 時には別大陸の国に娘を嫁がせ、時には自ら頭を下げ、時には戦闘部族を籠絡し――――ありとあらゆる手を、臨機応変に使い分けた。
 彼の没後その跡目を継いだ正妻の子信長は、しかし、父のような姑息な手段を厭った。
 まどろっこしい手段を用いるより、嘗て支配下にあった大陸の部族約百三十、小国十七を以前のように武を以て下し征する方法を選んだ。
 その為に、まず己の身内の粛正を徹底し、遙か昔から使い古された過去の栄光に縋りつく自国の制度も大部分を改めた。
 軍備も大幅に入れ替えを行い、軍律にも信長自ら手を加えた。
 その結果、淘汰され尽くしたリオワの政治中枢、軍は過去よりも一層厳しく、統制が取れたものとなった。
 また、才あらば貧富に関係無く才に見合った職を与えるという法を定めて数年も経つと政治も昔とは大きく違う、上流階級ではなく民の生活に重点を置いた政策が取られるようになり、市場も法律は厳しいものの、庶民でも儲けに見合った税を収めれば誰でも商売に手を着けられるなどうんと自由になった。
 城下の活気はそのまま国の状態を表す。
 小国に成り下がったリオワは、小さいながらにも昔に匹敵するような賑わいを取り戻しつつあった。
 自国の淘汰はある程度は済んだが、まだまだ手を加えなければならない部分は多かった。
 それでも近隣諸国の侵略に手を着けたのは、隣国のガスルにて義元が急逝し不安定な状態にある為だ。信長はこの隙を突いてガスルを足掛かりにし、中央大陸を平定するつもりだった。
 義元生存時は大陸で最も栄えていたガルスを落とせば西の貴族も一時は黙るだろう。柱を失ったばかりで不安定でも、ガスルは強国であるのだから。
 勘十郎――――信行が西の貴族を抑えている間が勝負だ。
 早急にガスルを落とさんと、今は急ぎ軍を編成しているところなのであるのだが――――。
 多忙で寝る間も惜しいと言うのにどうしても、この岬を訪れてしまうのだった。
「……」
「吉坊……あんなぁ……」
 オレも暇じゃあないんだけどなぁ。
 訴えてくる親友兼忠臣を背後に、信長は眼下に広がる大海原を一望する。この眺望は小さな頃から気に入っていた。ここに来れば自由でいられる。城では感じない不快な圧迫感が無いのだ。
 勿論ここに来る事で命を狙われやすくなるなどは百も承知である。
 その上でこの年になってもこの岬に来るのは懐かしさと空しい開放感に浸りたいだけではない。
 少し前に聞いた、美しい歌声の主を捜す為でもあった。
 ほんの束の間の美声は、一度きり。何度岬を訪れても聞こえる事は無かった。
 偶然聞いてしまった歌声に心までをも魅了された彼は、この岬で聞いた事だけを頼りに、頻繁に岬を訪れる。
 足繁く通い詰めればまたあの歌声が聞けるのではないか、あわよくば歌声の主に会えるのではないか――――そんな期待を胸に秘めながら。
 風利も、それを知っているからこそ、ここに来る事を咎めたりはしない。ただ、時間の管理は厳しい上、周囲に怪しい動きがあれば必ず風利も同行する。
 先日、信長の実母に断崖から突き落とされた事があってから、外出自体厳しくなった。一人では絶対に外を歩けない。正直、非常にうざったかった。
「ミノーの動向はどうだ」
「恒興の報告だと同盟を破棄する気配は無ぇな。道三は余程お前の事を気に入っているらしい。まあ、それでも隙あらばリオワを手に入れるつもりではあるだろうけどな」
「あの男なら、くれてやらぬ事も無い」
「おいおい。冗談でもそういう発言は無しだろー」
 風利は警戒に咎めるが、隻眼だけは鋭利に尖っているだろう。
 痛い程の視線を感じながら、それでも信長は己の発言を撤回しようとはしなかった。事実、自分が死んだとして、リオワを他国の人間に渡すくらいならば、ミノーの道三の統治下に置かれた方がずっとましだ。
 風利も、それは分かっている筈。その上で視線で咎めてくるのは、道三にリオワを渡す即ち信長の死が前提であるからだ。信長が生きている以上、リオワはどの国の傘下にも入らない。
 信長は水平線を見つめながら、風利を肩越しに振り返った。
「風利。お前の見解を聞かせろ。ガスル攻略は容易か否か」
「容易とは言い難いが、さほど難しいってもんでもねえだろ。だからこそ義元の死を見計らっていたんだろ。わざわざオレを別大陸の国に派遣して同盟を結び、その国独自の暗殺機関に義元に毒を盛らせる。おまけに、一部を譲渡するという条件で中央大陸統一の協力、更にその後のあらゆる技術提供を求める。……なかなか骨が折れたんだからな、あれ」
「だが、別大陸にも通じたお前でなければ為せぬ事だ。あの国の浄水技術はこの大陸には必要不可欠。確実に協力を得ておきたい」
 視線を海へと戻す主の隣に並び、風利は彼の秀麗な顔を覗き込む。
「えらくこの海にご執心だよな、お前」
「産業排水の被害は中央大陸各地で報告されている。それによって魚人が怒り狂い人間を襲撃する事件も相次いでいるのだ。古より我が大陸は海の民と共存してきた。海の民は、他大陸にはない強固な防護壁だ。何としても味方に付けておかねばならぬ」
 海の民と中央大陸に暮らす人間達の関係の歴史は非常に古い。中には異種族であれど夫婦関係を築いた者もいる。勿論、その全てが種族が違う為に子供を成せなかったが。
 昔から海の民と中央大陸の人間は隣人として親しかった。
 それが、今や敵対関係とまで悪化したのは、凡そ二百年前の海城侵略がきっかけだ。
 愚かな国の王が、汚い欲を出して海の民の領域へ侵攻したのだ。無論容易く迎撃され国ごと滅ぼされてしまったが、以来海の民は人間との一切の交流を拒絶した。
 以前は海の民達に助けられていたのが無くなって、中央大陸の人間達――――特に海辺の人間達は困窮した。
 何せ海の民に見放された事で、漁獲量が大幅に低下したのだ。場所によっては網を引き裂かれ船を転覆させられた事もある。
 今でこそ互いに沈黙してはいるものの、このまま産業排水の流出によって海の民が大陸の侵略を始めたとなれば、人間達には為す術が無い。
 なるべくならば他大陸からの侵略に備える為に友好関係を取り戻したい。
 己の胸の内を開かす信長に、風利は後頭部を掻いた。
「まあ、海の民との関係が修復されるというのなら、諸手を挙げて歓迎するけどよ……」
「……お前は、人魚と会った事があるのだったな」
「ああ。小さい頃にな」
 苦虫を噛み潰したように言う彼を瞥見(べっけん)し、信長は目を細める。
 風利は、あまりこの事を他人に話したがらない。
 最愛の妹にもこれだけはと辞退するのだから、余程の事情があるのだろう。
「これだけは答えろ。海の民と陸の民の関係は、もう壊滅的か?」
 風利は沈黙した。暫く口を閉ざして水平線を見つめ、重そうに口を開いた。
「少なくとも、オレが会った人魚は、優しかったよ。そんで、良い女だった」
 慈しむような、しかし欲深い感情が隻眼をよぎる。
 ああ、惚れたのか。その人魚に。
 それは今でも続いているようだ。
 信長は親友のほんの少し弛んだ表情を見上げ、ただ「そうか」と短く相槌を打った。
「ならば、良い」
 まだそのような者が存在するのであれば、思う以上に難しくはないだろう。
 そう独白して、彼はきびすを返した。
「戻るぞ、風利」
「……ああ」
 風利は海を見下ろし、小さく首を左右に振った。






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