ほんとにびっくりするんだけど、灰谷蘭もお腹がすくの。


眠そうに大きなあくびをすることもあるし、寒い日は昼過ぎまで布団にくるまって縮こまっているし、好物のバターチキンカレーを作った日には決まってごはんをお代わりしてくれる。


蘭と暮らし始めてからそんな当たり前のことに驚いてばかりで、見つけるたびに嬉しくなって大事にしまって置きたくなる。

夕飯のあとシャワーを浴びてソファーで深夜の洋画を流し観ていた彼の頭がこくりこくりと船を漕いでいるのに気付いた。私は洗い物の手を止めて彼の元へ行く。
薄いけれど案外広いなで肩をゆさゆさ揺するとくぐもった声が聞こえた。


「蘭ちゃん、髪乾かさないと風邪ひくよ」

「んーーー」


「寝ちゃだめだって」

「うっせーな寝てねーよ……」


「もーお父さんみたいなこと言わないでよ」


こうしてソファーで寝落ちする癖ほんとどうにかしてほしい。眠いと不機嫌だし。
どうしたものかと考えあぐねて、とりあえず付けっぱなしのテレビを消そうと身を乗り出した。ソファーに沈む彼の膝元に転がるリモコン。ソファーの背後から眠る彼の上に私の影が落ちる。

と、そこでぱちりと混ざった視線。急に目を開けた蘭は私のエプロンを引っ張って無理やり顔を引き寄せた。



「ん、……ちょ、びっくりしたあ」



軽く唇を合わせるとリモコンを取って体を離した私に、なおも蘭はこちらを見上げてくる。


「なに、どしたの」


「髪やってよ」

「えーーー。まだ洗い物残ってんだけど」


「そんなん後でいいじゃん。なに、俺の言うこと聞けねーの。なんでそんな意地悪すんの」


「あーーー……ハイハイ。じゃああと10分だけ待っててね。そしたらやったげるから」


「………5分。」

「わかったわかった。その代わり寝ないでよね」


ふてくされたように私を見上げる蘭の眉尻が普段よりもずっと下がっていて、これを見るたびにしょうがないなあ、という気持ちになるから私ってダメだ。
何やら今日は甘えたい気分なようで、相手をしないと後々面倒。それは洗い物を明日に先送りするよりも面倒。そして何より普段、嬉々として人を傷めつけ、俺が一番だと無言の主張をするこの男が、縋るように私を求めるのは愛しくて、気分が良いものだ。




シンクにたまった洗い物だけ済ませるとエプロンを外してドライヤーを持ってきた。コンセントを差して、相変わらずうつらうつらしているけど何とか言付け通り起きていた蘭の頭をポンポンと撫でる。


「はーーーい頭かわかしますよーーー起きてくださいお客さーーん」


「………ハーーーイ……」


蘭のわかってるのかどうなのか謎な返事を聞いてドライヤーのスイッチを入れる。けっこう髪の量が多いからクリップで纏めつつ少しずつ下から乾かしていく。
案外硬い彼の髪だけれど、うなじの辺りはやわらかい。繰り返し脱色された色素の薄い髪にさらさらと指を通していく。時折顔を見せる真っ白なうなじはするりと長くてスウェットの中へ伸びる首筋へと続いてゆく。



「………(あ、ホクロ)」



ふとスウェットの襟ぐりに見え隠れする小さなホクロに気づいた。前はなかったよなあ。何とはなしにその部分をくすぐってみる。蘭はすっかり寝落ちしてしまったようで項垂れた頭のせいで余計に白い首筋が強調される。

私は構わず少しずつ髪を解いては束ねを繰り返していった。
何度も乾かしているからわかる、彼の後頭部の形も、耳の形も、たぶん目をつむっていてもわかる。そして私はそんな彼の無防備な部分を、手で触れて、記憶して、自分のものにしていくのが好きなんだと思った。



「ハイ終わりーー。もーー結局寝てたじゃん」



乾かし終わって、小言を言いながらドライヤーのコードをまとめる。なおも彼の首はこくりと傾げられていて、広い背中は穏やかに上下している。


人に髪乾かせとか命令しといて寝落ちとはほんとにいいご身分だ。こっちは洗い物も残っているというのに。そんな気持ちと相変わらず彼の明るい髪の間から顔を見せる白いうなじを見て、少し意地悪な気持ちになった。


「…………」


健やかに眠る蘭のスウェットの襟ぐりを少し引っ張ると先ほど見つけたばかりのホクロが顔を出した。顔を近づけると私と同じシャンプーのにおいがする。次は同じシリーズの別の香りを買ってみようかな、なんて考えながらそこにそっと口づけた。舌を出してぺろりと舐める。すべやかな肌の感触。そしてそのまま噛み付いてやった。


するとまあ当然、勘の良い蘭だったら起きるよねえ。



「なにしてんの、変態」



心地よい微睡を壊された蘭はそれはもうご立腹で。私はしてやったりな気持ちになる。そしてそのままケラケラと笑う私をソファーに引きずり込んであっという間に組み伏せてしまうと、際限ないくすぐり地獄の始まりだ。



「あーーーダメダメダメご近所迷惑に………ギャハハハハ!!!!」


「構ってほしんだろ存分に相手してやるよホレホレホレホレ………」


完全に私の弱いポイントを把握してる蘭は無慈悲にそこばかり責めてくる。私は明日ご近所さんから苦情が来やしないかなんてことを自業自得にも関わらず考えていた。



ほんとにほんとにびっくりするんだけど、私の大好きな人は嬉々として人を殴り殺すし、人の骨の折れる音を聞いて興奮できる変態だけど、それでもやっぱり重い荷物は何も言わず持ってくれるし、夏には必ずクロゼットの奥から出してきた風鈴を飾る。私が好きな花の名前を覚えていてくれるし、何より、そんな彼が心底いとしい。



笑い疲れて流れた涙をそっと彼の唇が食む。私が乾かしたばかりの、長い髪が落ちてきて首筋をくすぐった。私はそんな彼の首に手を回して何度も、何度もこの手で形を覚えてきた後頭部を優しく撫でた。



「……あーあ、洗い物明日になっちゃった」

「誘ってきたくせになに言ってんの」



そうして蘭の顔が私の首筋に沈む。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸せは何ら特別なことではない。人殺しの彼も、そんな彼を愛しいと思う私も、すべて正しい訳でも、間違いでもない。ただの一人の、普通の人間だ。



「……明日は朝寝坊して、お昼にバターチキンカレーを食べて、花を買いに行こう。夜は二人で映画を選んで、ラストシーンを知る前にソファーで眠ろう」


「なんだそれ」

「………いや?」

「………べつにいんじゃね?」



不安そうに訊ねた私に、蘭は少し笑って肯定の返事をくれた。蘭の本当の笑顔は案外優しくなくて、むしろ少し意地の悪さが見え隠れする。そんなこと知ってるの私だけだといいなあ。そんな馬鹿なことを考える。


夜はどんどん更けてゆく。何度も繰り返そう。この平穏で、異常な生活を。私は幸せを噛みしめながらもう一度彼と口づけを交わすのだった。



15112020

BGM :恋 / 星野源



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