※ 単行本7巻のネタバレを含みます。
『コーンポタージュの、飲み口の下を潰すとキレーに最後まで飲めるらしーぞ』
少し肌寒い季節になるとコンビニのホットドリンクのコーナーや自販機に顔を出すカフェオレ、おしるこ、コーンポタージュ。ちょっと味に不安を覚える胡散臭い飲み物が俺は結構好きで、冬になるとよく買って飲んでた。
コーンポタージュの、粒を最後までどうやって飲み切るかは人生の課題だと思う。夏が終わって少しして学校の自販機に姿を現したそれを買って飲んでいた時のこと。その日は秋晴れと言う名に相応しくよく晴れ渡った青空が頭上に広がっていた。俺はそれを仰いでひたすら缶の底を叩いた。うまく食べ切れない。この光景って側から見るとかなりマヌケだ。
そんな時、不意に無防備な喉に衝撃を食らった。思わずむせて咳き込むと目の前にはよく見知った意地悪な顔。哀れな缶はまだっぷりとへばりついたコーンを残して屋上の床に転がっていった。
「ひでー何すんすか場地さん」
「スゲーマヌケな絵面だったから」
「コンポタの醍醐味つったらこれでしょ」
「意味わかんねー」
殊に食に関して面倒くさいことが大嫌いなこの人は(カップ麺でも五分待つものは耐えられないらしい)、いつも俺が自販機でコンポタだのおしるこだのナタデココゼリーだのを買うと奇異なものを見る目で見てきた。そんな場地さんの右手にはホットのボスのブラックコーヒー。なんすか。場地さんだって大人ぶってっけど結構イチゴミルクとか好きなの知ってますからね。
「なんだこれなんで今日こんな晴れてんの」
「なんですかね。昨日は急に冬来たと思ったのに」
「また夏が戻ってきたのかね」
秋晴れの空の下、ホットコーヒーのプルトップを開ける音が響く。急に冬が来ることもなければ夏に戻ることもない。肌を撫でる風はやはり乾いていて冷たく、俺たちは何かを取り戻すこともなかったことにすることもできないのだと感じる。日が沈めば時間の短さを感じ、息を吐き出せば白く染まり、心と体の温度の違いを示すように曇った窓ガラスに書いた言葉もいつか忘れ去られてしまうのだろう。
「来年の夏は、ザリガニ釣りに行きましょーよ」
「……食うの?それ」
「いや、リリースします」
「ぶっ、何がおもしれーんだよ」
「蝉採りとザリガニ釣りは男のロマンっすよ!!」
「キメーーー」
そんで、優勝者には駄菓子屋ののしいか箱ごと贈呈っす、と言うとそれオメーが食いたいだけじゃんと突っ込まれた。その通りである。
十月に入って少しした頃のこと、一日だけ思い出したように夏の青空が広がり、すぐ側に佇む冬の風を感じた日のこと。その日から月の終わりまで、淀んだ鈍色の空が続いた。次に青空を見たのは十一月に入ってからだった。その頃にはもうツーリングに出かけようものならMA-1のジャケットが欠かせなかった、セーターも、ブーツも。
よく晴れた日の夜は空が澄んでいて星が綺麗だ。ビルの明かりに邪魔されてその存在を見失いがちだが、見上げると当然のようにそこにある星々に何故気付かなかったのかと思う。
吐き出せば白む息。隣を通り過ぎた車のヘッドライトが照らした新しい相棒のボディは毎日丹精込めて手入れしているだけあって黒く濡れたように輝いていた。シートに跨ってブレーキペダルを踏む。クラッチと前輪ブレーキを握り、キーを回してセルボタンを長押しする。すると間もなく気化したガソリンが点火して車体が温まってくるのを感じる。きっとこいつはこの先の寒さだって耐えて誰よりも早く俺の望む場所へ連れて行ってくれる。
そこまで考えて、俺はこれ以上のことを言葉で表現する必要はないと感じた。思考を振り切るようにチェンジペダルを踏み込み、アクセルを回す。体を揺さぶるような一定の鼓動が、排気音に変わる。
俺の望む場所は、昨日はあったかもしれないが、明日にはない。だからこの澄んだ冬のはじまりの夜を、あの日の続きとしてあなたと走りたいのだ。
☆
ここが何処なのか忘れた。名前も知らない街。東京なのか、はたまた埼玉か、神奈川あたりか。そんなことはどうでもよかった。知らない道を無心でひた走って、気づけば高速を降りてとあるガソリンスタンドへたどり着いていた。一度給油しようと思ったのもあるが、無性に何かあたたかい飲み物が飲みたくなった。
二十四時間営業らしいガソリンスタンドを高速沿いに見つけたのは幸運だった。ふと携帯のサブ画面を確認すると時刻は日付を跨いでいた。いかにも田舎の、だだっ広いガソリンスタンド。周囲には田畑やちょっとした喫茶店、回転寿司チェーン店などがあった。それでも店の隅に佇む一台の自動販売機には俺の本命であるコンポタが鎮座していたのには感動した。中々やるなこのガソスタ、と思った。
適当な給油スペースの前にバイクを止めて降り、フルフェイスのヘルメットを脱ぐ。側の国道を通る車もまばらで、この分だと客が来ることもないだろう、と給油はあとにして先に休憩することにした。ふと自販機に目をやると、先ほどは気づかなかったがそこには一人の女の子が佇んでいた。
てっぺんに毛糸の玉がくっついたニット帽に、厚手のカーキのコート。ブーツをはいて、カラフルな水玉のマフラーをぐるぐる巻いて口元まで覆っている。いかにも寒いです、を体現した姿にそれなら家帰ってろよお前、とちょっと思った。向こうも俺の姿を視認してぺこりとひとつお辞儀をした。ので俺も一応返す。
女は自販機の取り出し口からボスのカフェオレを取り出して、手のひらで一、二回転がしてからベンチに座った。
帰んねーのか。つーかこんな真夜中になんだって女一人でこんなとこいるんだ。見たところ車やバイクはおろか自転車も見当たらないところから徒歩で来たようだ。地元の人間だろうが危険極まりない。
そんなことを考えつつまあ俺が説教する義理もねーし、それに、この女にもこの女の背景があるだろうと思った。俺たちはただ、深夜のガソスタにカフェオレと、コンポタを飲みに来ただけだ。
自販機に金を入れて、ボタンを押すといつもの調子で転がり落ちてくるスチール缶。そいつを拾って、カイロ代りに手を温めながら俺もベンチへ向かった。
「隣、いいすか」
「どうぞ」
問いかけた俺にまるでその質問を知っていたように静かに肯定の返事を寄越した女は、それ以上何を言うこともなく、こちらに視線を向けることもせずに淡々とカフェオレを飲んでいた。
俺はその少し長めのベンチの、右端に座った。女は左端にいる。俺たちの間には人一人と半分くらいの距離が横たわっていた。背後からは事務所の仄あたたかい明かりと何かの動画の音声や音楽が控えめなBGMのように流れていた。
手袋をしていたにも関わらず、冷え切った指先でプルトップを開く。小気味良い音の後でいつものように口をつけたら、何だか最後に飲んだのがずいぶんと昔のことのように感じた。ひとつ喉を鳴らして、ふたつ喉を鳴らして。見た目は少し味に不安を感じる胡散臭さ、でも飲んでみると結構ハマる。俺がこれを飲むたびにまたそれかよ千冬ぅ、と馬鹿にするように笑ってた顔を思い出す。
「コーンポタージュ、」
いつか聞いたあの声が、転がった。
ハッとしたように目を開いて、見上げると、カフェオレを飲み終わったらしい女が立ち上がり、少し得意げな笑みで俺に言った。
「飲み口の下を少し潰すとキレイに最後まで飲み切れるみたいですよ」
俺はこの女を、ずっと昔から知っていた気がするし、今日初めて知った気もする。お前は何故今日、この夜、こんな辺鄙なクソ田舎のガソスタでカフェオレを飲んでいたのか。何故今俺にその言葉を紡いだのか。そんなことは、何の意味もなく、ただただ重なった偶然を、自分の都合の良いように解釈しただけのものだろう。
それでも俺は今夜、その言葉を聞くためにここへ来た気がする。
夏が終わって、秋が流れて冬が来る。時間は進みはするけれど決して戻ることはない。今手のひらにあるものはいつかこぼれ落ちて、振り向くと、自分が今まで辿ってきた道ができている。取りこぼしたものも、救えなかったものも、もう決して失くしたくないものも、すべて背負って明日を目指さなければならない。俺は今夜、あの最後の夏の日を終わりにして、新しい朝を迎える。
女が捨てた空のスチール缶が、プラスチックのゴミ箱の中で鈍く反響する音がする。俺はあの日のように、少し得意げなあの人の笑顔に対抗するように笑みを浮かべて言った。
「それは邪道っすわ」
わかってないすね、場地さん、そう続けたあの日の言葉を飲み込むように。女は少し笑って踵を返した。その背中が遠ざかって行くのを俺はコンポタが冷めるのも忘れて見送った。やがてその姿が見えなくなると、残りを胃に流し込んで、そうして缶の底にへばり付いた粒をいつものように叩いて食べた。全然うまく食べられない。畜生。なんだコレ。ムカツク。でもこのくだらねー時間が醍醐味なんだよな。
見上げたガソリンスタンドの天井の隅っこから、少しだけ夜空が顔を出していた。あの日見上げた青空の延長線上にあるかのような澄み切った星空。ああ、夜が終わる。夏が終わって秋が過ぎて冬の朝が訪れる。あなたの居ない朝。目指す場所のないバイク。それでも、雨でも、吹き荒ぶ風が荒く冷たく体を打ち付けても、戻らないのは俺の行く道があなたが残したもので続いていくから。
「………あーーーチクショーーー。ぜんぜんうまく食えねーーー。ムカツクーーーー」
ムカつきすぎてこぼれた涙を上着の袖でゴシゴシ乱暴に拭った。背後では相変わらずやる気のないガソスタ店員が動画サイトの巡回に精を出しているようだ。俺は意地でコーンの粒を全て食べ切って、バイクの給油をしてからここが何処であるかを調べて、家に帰る。書き置きはしてきたけど母ちゃんは心配しているかも知れない。それとも俺の心情を察して何も言わないかも知れない。
今日は平日だから明日の朝(というか今日)は普通に学校があるけど、たぶん行かない。昼過ぎまで寝たらカップラーメンを食べて、愛猫と遊んで近所の駄菓子屋でも行こうか。
来年の夏はタケミっちを連れてザリガニ釣りに行くのもいいかもしれない。たぶんタケミっちはド下手くそだろうから、賞品ののいしかは俺のものだ。
拭っても拭っても止まらない涙とともに様々な俺のこれからがあふれ出た。俺が場地さんと二度と会うことがないように、あの女とももう二度と会えない気がした。俺はこの場所が何処であるか調べてもきっと明日には忘れてしまうだろう。あの女がどんな背景を持ってここへ来たのか知る由もない。
それでも、あの女がどこか俺の知らない場所でまたあの得意げな笑みで笑っていたらいいと思う。今度はあの雪だるまみたいな格好じゃなく、真夜中のガソリンスタンドじゃなく。真夏の肌を焦がすような太陽の下で、半袖のTシャツを着て。
「ありがとう。」
誰に向けたでもない言葉は、二酸化炭素となって夜空に消えた。ずいぶんあたたまった体は内側からぽかぽかして、なんだかショボショボする目をまたゴシゴシと乱暴に拭ってひとつ大きく深呼吸をした。そして立ち上がり、宣言通りすべてキレイに飲み切ったコンポタの缶をゴミ箱に捨てる。爪先はもう迷わない。明日を向いてる。昇る朝日を目指してる。
さてそんじゃあ、ガソリンを満タンにして、俺の望む場所へ連れてってくれよ相棒。
夜に終わりはくるよ
06122020
title かたち 様
bgm ジュビリー / くるり