ただでさえ暑い八月の半ばに、何故わざわざ制服など着なくてはならないのだろう。

濃紺のスカートの下で内腿に一筋汗が流れるのを感じた。中庭に面した廊下を通ると仕切りの障子を取り去った二間続きの客間から叔父さんたちの笑い声が聞こえて来る。ああ、蝉の鳴き声の方がよっぽどましだなあと思う。声をかけられる前に急ぎ足で台所へ向かった。


中学三年生の夏休みはもう終盤に差し掛かっている。普段は目が合えば勉強をしろと口煩く言う母も、お盆の法事には率先して手伝いをしろと言う。女の子なんだから。どうやら彼女の中でお料理や叔父さんたちの相手をすることは勉強よりも重要なことらしい。

この夏が過ぎたら、私は高校を受験して家から自転車で四十分の学校に通うのだろう。教室には中学の時と代わり映えのしないクラスメイトたちが座っている。夏休みだというのにきっちりと結ばれた朱色のタイが煩わしい。汗でこめかみに張り付く髪も。校則で決められた膝下のスカートも、短い白の靴下も、全部、全部。



「……っ、あ、すみませ……」



早足で客間の隣を通り過ぎて、台所へ続く木製の扉を開けようとしたら、中から急に大きな男の人が出てきた。止まり切れなくてぶつかってしまった。男も驚いたのか小さく声を漏らしていたけど、その大きな体はびくともしなかった。その反面、衝撃でよろける私の体。まるでスローモーションのように廊下からガラス戸の開いた中庭へと私の体は傾いてゆく。普通、この状況ならば男は咄嗟に手を伸ばして私の腕を掴むだろう。けれど、倒れゆく最中、男の顔を見上げた私にその未来は見えなかった。



「ハ?何すっ転んでんの。ダリィ」



つーか暑ィのにスイカしか置いてないとかダルすぎ。チューペットくらい置いとけよ、そう言ってスイカを食べながら私を見下ろす大男は、忘れもしない小学生の私を恐怖のどん底へ陥れた半間修二その人だった。



「………あ。なんか見たことあンなと思ったらナマエチャンじゃん。元気してたーー?」



二メートル近い身長。髪の中央だけ金に染めたリーゼント。右耳の長いピアスに、両手の甲に刺青。雰囲気は随分変わったようだけど、人を人とも思わないようなその冷酷さと、私を見下ろす目はあの頃のままだった。見上げれば私たちを照らす刺すような太陽の光に目眩がする。けれど、次に私がすべき行動は、このままこの男を無視して台所へ向かうことでも、ましてや久しぶりだねと世間話をすることでもなく、擦りむいた手のひらと膝を物ともせず一刻も早くこの場から逃げ出すことだった。



「…………ハ?なんで無視とかしてくれちゃってんの。ダリィ女」




そんな半間修二の声は蝉の鳴き声にかき消されて届くことはなかった。










「なーーーナマエチャン。これ食ってみろよ。外国では食うらしいよーーー???」



首筋があつい。襟ぐりの大きく開いたワンピースの背中を太陽がじりじりと焦がす。そんな暑さを思い出す。毎年毎年、夏になると黒いスーツを着た親戚の叔父さんたちがうちの客間に集まる。叔母さんたちはどたどたと廊下や台所を走り回る。私たち子供は退屈で、親に暇だと駄々を捏ねたり、大して好きでもないスイカを食べたりと時間を潰すしかなかった。


そんな中でも、私は毎年この男に会うのが怖かった。修二くん。背は高いけれど体の線が細いからひょろりとして見える。それに相反して大きな手足がついている。そんなイメージ。一見、人当たり良さそうに話しかけてくるけれど、その実他人を自分の暇潰しの道具としか思っていない冷血な奴。へらりと浮かべられた笑顔からはその軽薄さが見て取れた。


「ひっ……!?い、いやだよ!!そんなの食べないよ!!きもちわるい!!」


足元に放り投げられたのは一匹の蝉。ひっくり返って羽根をジリジリと鳴らして身悶えている。けれど自分で起き上がる元気はないらしい。寿命だろうか。放り投げられて暫くすると蝉は鳴くのも動くのもやめた。まさかこの男の言う通り私が蝉を食べるはずもなく、私たちの間には生きているのか、死んでいるのかもわからない蝉が転がっているだけだ。

食えと無理やり口に突っ込まれるだろうか、それとも逆らった罰として殴られるだろうか、そんなことを怯えながら考え、身構えていると修二くんは静かにこちらに向かって歩いてきて、そしてその大きな靴の裏でひっくり返った蝉を踏んづけた。ぐしゃり、と羽だか体だかが砕ける音がする。そしてすい、と何事もなかったかのように足を退かすと、そこには呆気なく生命の終わりを告げた蝉が地面と同化していた。



「だーーり。つまんねーーー」



まるで他の蝉の鳴き声が仲間を殺した修二くんを責め立てているようだった。いや、本当は蝉はあの時すでに死んでいたのかもしれない。いや、そんなことは本当はどうだっていいのだ。たかが蝉だ。そんなことより私は。



ぺらぺらになった蝉を見下ろして思う。例えば私が蝉を食べたら修二くんは面白いって笑ったのだろうか?

親戚が集まる行事ごとにはいつも、嫉妬や羨望や、意地悪な気持ちが蠢いている。その矛は子供に向けられることも多い。なんたって子供は親の付加価値を上げる装飾品だからだ。女の子は真面目におしとやかにしていて、料理ができて顔が少し可愛ければ褒めてもらえる。少なくとも私の母親はその考えだった。


けれど修二くんは違った。小学生になった修二くんと会った時、彼はピアスをしていた。自分で穴を開けたらしい。そうしてまた数年後には髪を染め、そして今日、東京の高校へ行くと街を出て行った修二くんは両手の刺青と、あの頃より数段冷たい雰囲気を纏い帰ってきた。

親戚の人たちは修二くんを見るたびにこそこそと耳打ちをしたり、とある威厳のある叔父さんはわざわざ彼を呼び出し皆んなの前で説教をしたりした。何だその髪は、子供の癖にピアスなんかしやがって、この前も他校の生徒と喧嘩したらしいな、恥ずかしいと思わないのか、しっかりしろ!!、どこかで聞いたことのある台詞が湯水のように流れてきて、それを垂れ流して一人で高揚している叔父さんも、それを聞いている周りの大人たちも、全部、全部、気持ち悪かった。



「だりィ」



だから、たったその一言だけで、その叔父さんをぶん殴った修二くんが、怖くて、かっこよくて、私は目から鱗ならぬ星が飛び出た思いだった。










「なァ。無視することねーじゃん。昔一緒にプール入った仲じゃん。裸で」


「………きもい…」


「ばはっ、思春期??」



私は母の言いつけも無視して、大人たちに気づかれないよう二階の自室に戻っていた。井戸水で濡らしたタオルで擦りむいた手のひらを拭う。ぴりりとした鮮烈な痛みが走る。ちりん、と開けた窓から入る風に風鈴が揺れた。それを合図にしたように聞こえた今、一番聞きなくなかった男の声。振り向くと修二くんが私の部屋の敷居を狭そうにくぐってくるところだった。



「言うようになったねぇ。昔は俺に蝉投げられて泣いてたくせに」

「泣いてません……」

「つーか俺あのあと蝉食ってみたけどまじでうまかったんだけど。まじオススメ。」


「うう………きもちわるい……」


「ハ?気持ち悪いん?ダイジョブ?」



そう言って断りもなくずかずかと部屋の中に入ってきた修二くんは私の向かいに腰を下ろしてズボンのポケットから煙草の箱を取り出した。一本抜いて、やはり断りもなしにライターで火をつける。どうやら久しぶりに会った親戚のお兄ちゃんは罪と罰の刺青だけじゃなく煙草も吸うようになったらしい。当然未成年だけれど。



「うわーーーめっちゃ擦りむいてんじゃん。だりィ」



開けた大きな窓の向こうには夏の田舎の景色が広がる。何の代わり映えもしない。季節が変わるだけで一年中山と田んぼばかりだ。そんな窓の外に修二くんはひとつ煙を吐き出した。いつ嗅いでも慣れない苦い煙の匂い。でも、今下で叔父さんたちが吸う煙草の匂いよりはましかもしれないな、なんて思った。煙はくゆくゆと夏の青空高く吸い込まれていく。

そう言った修二くんは吸っていた煙草を咥えて私の左足をさらった。脹脛に添えられた指先からはほんのり煙草のにおいがする。持ち上げられたことで普段は膝下のスカートの裾が持ち上がって、擦りむいた膝小僧が大きく露出する。そこに修二くんは先程の濡らしたタオルをあてがった。じくりと痛みが広がる。その、予想外の手当をしてくれるという優しさの反面、拭う強さはかなり乱暴でそのたびに私は目尻を歪めた。そして、そもそもこの怪我の根源はこの男だということを思い出す。


この男が、何を面白いって思うんだろうといつも思ってた。だって、退屈で、退屈で、退屈すぎて、死にそうだった私がこの街で唯一面白いと思う奴に出会った。それが修二くんだったから。


反面、私のこのクソつまんなくて地獄みたいな平穏が壊れてしまいそうで怖かったのだ。だから、私はいつも修二くんの帰りを待っていたし、拒んでいた。




「ばはっ、そのカオオモロ」




咥え煙草を口から離すと煙を吹きかけられた。咽せる私を見て修二くんは意外にも楽しそうに笑う。ああ、崩壊の予感がする。東京ってどんなところだろう?修二くんはそこでどんな生活をしているんだろう?彼が望む面白さが、退屈じゃない世界が、そこにはあるのだろうか。




「………ねぇ、煙草ってどんな味がするの」




教えてよ、階下で叔父さんたちの笑い声がする。叔母さんたちは一向に手伝いに来ない私を探しているだろうか。むせ返るような夏の暑さと、降り注ぐ蝉時雨に思考が焼き切れそうだ。


ちりん、と涼やかに鳴った風鈴の音とともに、修二くんの唇の端が微かに歪んだのを見た。


20200815



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