「少しお話でもしようぜ…ミョウジナマエ」


気軽に肩に置かれただけの男の手は、しかし私の体を硬直させるに十分な効力を持っていた。虚無的な笑みを浮かべる男と、引きつった表情で曖昧に笑う私。そんな私たちの耳にある男たちの声が届いた。それは私にとって一縷の希望であり、男ーー尾形百之助にとっては迷惑極まりないものだった。



「いま出て行った兵士はほっといていいの?」

「この家が気になる。ナマエさんはまだこの中か…?」


その声の持ち主は他でもない、杉元佐一と白石由竹だった。何故二人が夕張に、と思ったがもしかすると二人ーーもとい彼らも刺青人皮の噂を追ってここへたどり着いたのかもしれない。ともかく、お話をしよう、などと宣う歩兵銃を持った髭面の男とのお茶会は御免被りたい。まだこちらの様子に気づいていないらしい二人になんとか助けを乞おうと名前を呼ぶため大きく息を吸い込んだ。しかしそんな私の行動よりも早く、ひとつ苦々しい舌打ちをした尾形が乱暴に私の口を押さえ奥へ引きずり込んだのだ。



「ーーッ、んーー!!ふ、ふふ!!、」


「……静かにしろ。騒ぐと頭をぶち抜く」



シ、と唇に人差し指を当ててジェスチャーをする尾形は、しかしその淡々とした口ぶりに似合わない恐ろしいことを耳元で囁く。彼の喉の奥で話すような低い声が耳殻に触れて、言葉を荒げるでもなく脅すでもない、ただ事実だけを伝えるその冷静さがひやりと私の肝を冷やした。奥の剥製部屋。無駄に部屋数の多いこの家は身を潜めるには最適で、誘うように僅かに開かれた扉の死角で尾形は獲物が掛かるのを待っているようだった。尾形へ預けた背中から彼の思いの外高い体温と緩やかな心臓の動きが伝わってくる。それは私の脈拍とは正反対でこの男が今のような死線を何度も潜ってきたことを感じさせた。


「……アンタは何故ここにいる?第七師団から逃げたいんじゃなかったのか?」


「……」


「不死身の杉元とはどういう関係だ。ここでアンタが助けを求めれば、奴はそれに応じるのか?」


「……」


「……鶴見中尉はここで偽の刺青人皮を作らせていたのだろう。それは幾つだ?その剥製師はどこにいる?……その、贋作の見分け方は……?」



なァ、オイ?、口を押さえる男の手のひらに力が込められる。この状況で答えられるわけがないのに質問攻めをしてくる男の意地の悪さは健在のようだ。背後で尾形がその口端を歪めた笑い方をしているのが安易に想像できた。しかしそれらの尾形の疑問は、月島軍曹と私を追ってきたであろう杉元たちから投げかけられるものでもあるだろう。
偽の刺青人皮はおそらく六枚。江渡貝くんの行方は皆目検討もつかない。贋作の見分け方はーー、鶴見中尉が江渡貝くんへ再三言っていたように、ただ刺青を彫った人間の皮を剥がすだけでは駄目なのだ、と。本物と区別がつかなければならない。だとすると何か方法は存在するのだろうが、果たして彼はそれについて言及していただろうか。


「見ろよ杉元!誰か死んでる!さっきの銃声はコイツと戦ってたのか?」

「……」

「あやしいぜ。例の本があったのはここなのかも」


どうやら白石が前山さんの遺体を見つけたようで、警戒しながらも屋敷の中を探り、その足音は徐々にこちらへ近づいてくる。私としては渡りに船だが、同時に部屋へ入った白石がこの男に殺されてしまうのではという不安も首をもたげる。ちらと首を回し背後の男を見遣れば尾形は少し目を開いてそしてその目尻を軽くゆるめた。「安心しろ。殺さない」、そうぼそぼそと告げた彼の吐息が髪にかかる。それは邪魔をされてはかなわない、という気持ちからの嘘なのか、はたまた本心か。食えない男の真意はわからないが、この状況で私はその言葉を信じるしかないのだ。


「え!?なんだこりゃ!?」

「ーー……シ


ナマエ……、私の名前を呼ぼうとした白石の声は尻すぼみに消えていった。開いた扉の隙間から白石が中の人間の剥製たちを目撃した時、すかさず彼の頭部に歩兵銃を突きつけた尾形が態とらしくその動揺を鎮めた。硬直した白石はそのまま自然に両手を上げると、降伏を示すポーズを確認した尾形は満足げにひとつ笑って白石に語りかける。



「お前が白石由竹だな?土方歳三から聞いてるぜ」



ーー土方歳三?
突然現れた歩兵銃を構えた軍人の出現に身を強張らせる白石を横目に、私は尾形の口から飛び出したその名前に目を見開いた。聞き間違いでなければ土方歳三、とはかの有名な新撰組鬼の副長の異名を持つ幕末の偉人だ。歴史に疎い私でも知っている、土方は明治維新の前後に佐幕派として新政府軍と戦い、そして函館の五稜郭でその生涯に幕を下ろした。

土方歳三から聞いている、とは遺言としてという意味だろうか?白石由竹について?そんなはずはない、と頭の中で自問自答が繰り返される。そんな考えあぐねる私をよそに、尾形は部屋の奥からあのお手製鶴見中尉の剥製を持ち出し、そして幾つかの贋作のサンプルを白石へ手渡すとにやりと悪い笑顔を浮かべた。









「ーー白クマ?」

「工房に飾られていた親子の白クマの剥製の一体が消えていた。俺が中を物色している間にソイツを被って逃げたんだろう」


「あ…!!あのおじいさんが言ってたあれか…!!」


白石に偽の刺青人皮のサンプルを渡した尾形は、それを使って杉元へ説明しろと脅した。内容は鶴見中尉はここで職人に偽の刺青人皮を作らせており、先ほどの兵士たちはそれを奪い合い殺し合いになったのだ、というもの。それを聞いた杉元は白石を連れてまんまと月島軍曹を探しに行ってしまい、江渡貝くんを捕まえるにあたって邪魔となる彼を杉元たちを使って排除しようという尾形の作戦は上手く事が運んだようだった。
そんな私は今は尾形に手綱を引かれ夕張の町で白クマを探している。ちょっとよくわからない状況だが、尾形が言うには江渡貝くんは白クマの剥製を被り屋敷を抜け出したようだった。そこで私もあの農夫のおじいさんの証言を思い出し、あれは真実を言っていたのか……、と心の中で詫びる。月島軍曹はおそらくその事実に気づきいち早く彼を探しに出たのだ。


「白クマ?ああ、見たよ見た!!おかしな格好をした物売りか何かかと思ったけど……。あっちの炭鉱の方へ走って行ったよ」


「…なるほどな」


老若男女様々な人へ聞き込みをし、やはり町中で白クマは目立つので少しずつ彼の居場所へ近づいていった。そしてついに彼の後ろ姿を発見する。夕張炭鉱。夕張といえばメロンと炭鉱、くらいの知識しかないが、たしか昭和のエネルギー革命の前後は最盛期で十万人以上がこの町に住んでいたらしい。そんな夕張を支え、同時にガス爆発により多くの人が命を落とした場所。



「江渡貝くーーーん!!!」



この男、こんな大きい声を出せたのかと思うほど尾形は上機嫌で彼を呼び留まらせた。多くの選炭婦たちが石炭を選り分けるその場所を抜け、ようやく白クマの剥製から頭を出したその男を見つけた。



「ナマエさん……」


「鶴見中尉という死神に関わったのが運の尽きだ」



そう言って歩兵銃を低く構えた尾形はおそらく殺すつもりはないのだろう。足かどこかを撃って身動きを封じ偽の刺青人皮について聞き出すつもりだ。かつてコイツが私にそうしようとしたように。
しかし銃を向けられる方はそんな事情は知るはずもない。すでに前山さんの遺体を目撃しているだろう彼が頭に浮かべるのは自分も殺されるという恐怖。目が合った私たちの意思の疎通を遮るように尾形は私の首輪から伸びる手綱を強く引いた。ーーと、そんな緊迫した空気の中、気にも留めなかったがどこからか滑車の回るような音がこちらへ近づいて来るのだ。それにようやく違和感を覚えた時には目の前の白クマの男は背後から現れたトロッコに拐われた後だった。


「!!」


「乗れ!!江渡貝ッ」


「月島軍曹…!!」


「いたッ」

「俺たちもトロッコで追いかけるぞッ!!」


この一瞬に私たち全員の声が交差した。トロッコで江渡貝くんを拐ったのは月島軍曹だった。そして少し先の炭鉱の中をすでに探していたのは杉元佐一と白石由竹。どうやら二人もトロッコで先を走る彼らを追いかけるらしい。となるとやはりこちらもーー……


「オイ、ボサッとするな早く乗れ!!」


「いや、だからなんで私!?いっつもこのやり取りしてるな!!」

「お前は何かあの坊やから手掛かりを得ているかもしれん!!逃げて応援を呼ばれても厄介だ!!」


「だーーから何も知らないって……ちょっ、ギャア!!!」


気を急くようにすでに走り出したトロッコの上で尾形が私の着物を掴むものだから強制的に引きずられる。段々と上がる速度にいや、このままだと今度はトロッコで引回しにされるんだけど!?と青ざめた私は消去法で尾形の腕を掴んだ。すると奴はそのまま私をトロッコの中へ引きずり込み、反動で前転した体は内壁にぶつかり足を投げ出す形でなんとか止まった。普通に痛い。しかし尾形はそんな私など意に介さずそのオールバックの前髪を風に靡かせ余裕の表情だ。


「連中が潰し合うのを待って刺青人皮をかすめ取るか」

「ズルいよ尾形!正々堂々と戦え!」

「黙れおたんこなす」

「おたんこなす!?」


大きく口を開けて佇む坑道の闇の中へ入るとほとんど閉鎖された空間故車輪の音がよく反響する。その予想外の速さと所々灯されたランプの灯りのようなものがちょっと某有名トレジャーハンティング映画を思い出させて胸が踊ったけど、今はそんなところではない。坑道の少し先からは「うおおおお!!!」という杉元や白石の声が聞こえてくる。カーブを曲がり直線距離となれば彼らの姿も見えてくるかもしれない。



「ーーで?アンタは何故鶴見中尉と行動してる」



ようやく体制を立て直したトロッコの中でおもむろに尾形がそう問いかけてきた。そうだ、尾形と顔を合わせるのはあの小樽の森以来。あの時私たちは共に軍病院を抜け出し密告を防ぐため谷垣源次郎と相対したのだ。今思えば浩平と私を襲ったあのヒグマは谷垣により仕掛けられた罠だったのだろう。あの牝鹿はヒグマの食べ残しで、まんまとそれに近づいた私が文字通り餌食となったのだ。



「……話せば長くなるけど……私は網走監獄へ行きたいんだ。金塊を追う鶴見中尉はいずれのっぺらぼうへ行き着く。私はそこでたしかめたいことがある」


「……成る程な。まんまと鶴見中尉の甘言につられた訳だ」

「……尾形上等兵こそよく生きてたね。てっきり谷垣一頭卒にやられたのかと思ってた」


「あまり俺を舐めてもらっちゃ困るな。部下の躾けくらいはできる」


「……ねえ、尾形上等兵は何か知ってる?二○三高地で旗手が背後から撃たれたこと、その犯人の身代わりにされた伊藤正一という一頭卒のこと」


「……」


「鶴見中尉は、のっぺらぼうはその伊藤正一だと言うんだ」


カーブを曲がる遠心力でトロッコの底に片手をついた。尾形上等兵は縁に手をかけて踏ん張っている。私がそう訊ねると先ほどまでどこか得意げだった彼は何かを考えるように遠くを見た。他にも宇佐美上等兵や月島軍曹、前山さんにも同じ質問をしたことはあるが、やはり内部から聞き出すのは難しく、加えてそれが秘密裏に行われていれば真実を知る者はそう多くないだろう。そこで造反者である尾形上等兵は適任なわけだが、それ以上口を噤んでしまった彼に私は疑問符を浮かべる。


「尾形上………ッッッダアアアア!?!?」


「避けろ避けろ。反射神経が悪い」


「ちょっ、絶対血ィ出てるこれ!!!」


彼の続く言葉を急かすように尾形上等兵の名前を呼ぼうとした私を、前方から飛んできた石炭が妨げた。それは見事に私の右こめかみに直撃し、少しの目眩と激痛とともに患部を触ってみれば思った通り血が滲み出ていた。いや、これ下手したら死ぬからな…!?
そんな犯人はどうやら先頭を走る月島軍曹たちのトロッコのようで、そこには迫る杉元たちを引き離そうと一心不乱に石炭を投げる江渡貝くんの姿があった。剥製職人らしからぬ中々の飛距離を出す彼の投石はトロッコのスピードも相まって当たりどころが悪ければ怪我じゃ済まない。私は慌てて体制を低くトロッコの中へ身を隠すも、尾形上等兵は器用に石を避け足場の悪いこの場所でも冷静に歩兵銃を構えていた。


「……ぅ、っちょ、尾形上等兵……これ以上トロッコ揺らさないで………吐く………」

「…チッ、どこまでも鈍臭い女だな。吐くなら外で吐けよミョウジナマエ」


体を屈めているとダイレクトに悪路とその振動が体に伝わって、加えてどうしてこうも湾曲してるのか、と文句を言いたくなるほどのカーブの多さに私の三半規管は限界を迎えていた。前方では銃声と怒号が鳴り響いている。加えて真面目に仕事をこなしていたはずの炭鉱夫たちの悲鳴も。そんな彼らに心の中で謝罪をしつつ、私は尾形上等兵の言う通りトロッコから身を乗り出して胃の内容物をぶちまけた。ほんとにごめん、炭鉱夫さんたち……。


吐いて多少楽になったかと思えば、前方では激しい攻防ののち白石の股が引き裂かれようとしていた。
というのも先の坑道は二股に分かれていて、何かの拍子にレールが切り替わったのか杉元たちのトロッコは左側へ、月島軍曹たちのものは右側へ進路を分けようとしていた。そんな二台のトロッコの上で立ち往生する白石。なんとか踏ん張り右足を蹴るとその反動と杉元の助けにより白石は生還したようだったが、このままでは私たちのトロッコも左へ流されてしまう。



「ーーー………、」



そんな状況の中。滑車の轟音も敵の怒声もどこか遠く、この男の周囲だけ空気がしんと静まり返るようだった。片眉を僅かにひそめ不安定なトロッコの上で歩兵銃を構える尾形上等兵は、その呼吸すら忘れるような刹那の中で弾丸が標的を射抜く弾道を見つけたのだ。
ドンッ、腹に響くような衝撃と重い銃声が響いて、その銃弾はたしかに分岐レバーを弾いた。途端にトロッコは進む方角を変えて私たちの体は一瞬置き去りにされるようにそのトロッコの上で揺れた。


「ははあッ、」


「すごい!!!尾形上等兵!!!」


「…どんなもんだい」


思わず手放しに褒めると彼も満更でもないようでその前髪を片手で撫でつけた。坑道の中は暫く静寂を取り戻していたが、カーブを曲がった先、ランプの灯りが暗がりの中に一人の軍人と白クマの姿を浮き彫りにしていた。向こうもまたこちらの姿を見つけたらしく反響した江渡貝くんの声が一層大きく耳に届いた。


「前山さんを殺した奴が追ってきてるッ!!」

「尾形だッ!!頭を下げてろ撃たれるぞ!!」

「でも、ナマエさんが人質に取られてるんです…ッ!!」

「……逃げろと言ったのにあの女、」

「ご、ごめんなさーーーい!!!」


完全に月島軍曹の非難の目がこちらへ向けられていることを悟り全力で謝った。しかし一介の女が銃を持った軍人に脅されれば従うしかないのだ。そんな二つのトロッコの距離が徐々に近づいていた時、不意に通り過ぎた炭鉱夫が何やら必死に叫んでいるのを耳にした。よく聞けばそれはマイトに火をつけた、発破に巻き込まれる、というものだった。マイトに火をつけた……というのは、まさか。


「ダイナマイト!?」


「いかん」


そう言って尾形は直ぐ様歩兵銃の床尾板をレールに噛ませトロッコを減速させた。しかし炭鉱夫たちの声が聞こえなかったのか、そのまま走り去ってしまった月島軍曹たちは一体どうなるのか。焦った私はトロッコから身を乗り出すと彼らを追うように不安定な地面の上へブーツのつま先を下ろした。


「オイッ、馬鹿か爆発に巻き込まれるぞ!!」

「でも二人が…!!」

「そもそも足で追いつくのは無理だ、声も届かんだろう」

「………」


冷静を欠いた私の腕を尾形上等兵が掴み、正論とともにその行動を押し止めた。するとややあって坑道の先の方で言葉通りダイナマイトが爆発する。その振動と火薬のにおいがこちらまで漂ってきて、二人の身を案じる私をよそに尾形は先へ進みたいならトロッコを押せ、と手伝いを要求してきた。一度動きを止めたトロッコは大人二人がかりでも重く骨が折れる作業だ。するとそこで不意に嫌なにおいが鼻を突く。隣の尾形もそれに気づいたらしく、眉をひそめ「クンクン」と鼻を鳴らした。


「……これって、まさか……」

「……なんてこった、」


「「 ガス突出」だ!!!発破がガス溜まりを当てちまったッ!!!」


「逃げろおッ!!!爆発するぞぉぉ!!!」


夕張炭鉱は度重なるガス爆発によりその歴史に幕を下ろした、とは聞いたことがあるが、まさか自分がその歴史の証人になるなんて。奥から急激な気圧の変化により膨張した空気が石炭の破片や粉塵を巻き込んで一気にこちらまで駆け上がってくるのを感じた。炭鉱夫たちの悲鳴と逃げ惑う足音の中、反射的に尾形がその外套の裾を翻し私たちを襲う砂塵からその身を隔てた。


瞬間、暗闇の坑道に花火でも打ち上げたかのような閃光が辺りを満たした。その後に遅れて爆発音が響いて、トロッコも、石炭も、炭鉱夫も、そして私たちも。全てのものは為す術もなくその衝撃に宙に投げ出された。そして未だ鼓膜の奥に残る耳鳴りに顔をしかめつつ、気がついた時には私は尾形上等兵の腹の上に覆い被さっていたのだ。


「いっ、……生きてる……?私たち……?」


「……オイ、起きろミョウジナマエ。さっさと出口を探すぞ、時間がない」


そう尾形上等兵に体を揺さぶられ、私は飛ばされた時に頭を打ったらしく軽い脳震盪と頭痛を感じながらもなんとか上体を起こした。体のあちこちは血と煤にまみれていたが、どうやら大きな怪我もなく骨も無事なようだった。尾形上等兵も同じく無傷なようで、そんな私たちの悪運の強さはあの小樽の森の時と同じだな、とこんな状況にも関わらず苦笑いをした。


「炭鉱火災の消化方法は坑道の密閉だ。ちんたらしてると閉じ込められてお陀仏だぞ」



そう言って出口を探し歩き出した尾形上等兵に私も続くが、途端に今度は前方から凄まじい勢いの風が吹き抜けてきた。思わずよろけた私は尾形の腕を掴むも、彼もまたトロッコの縁を掴んでなんとか耐えているようだった。それほどの強風。近くで炭鉱夫が「「 もどし」だ!!」と叫んでいた。おそらく先ほどの爆発で坑道の気流が乱れたのだろう。更に大きい爆発が来るかもしれないから外へ逃げろ!と避難を促す炭鉱夫たちの中にもすでに倒れて身動きのできない者もいる。その姿があの屋敷で事切れた前山さんの姿と重なり居た堪れなかった。そんな私たちを嘲笑うようにまたどこかで低い地響きとともに爆発が起きる。
その揺れと不安定な地面に足を取られ転んでしまった私に尾形は舌打ちをする。私も直ぐ様立ち上がろうとしたが唐突に激しい眠気と吐き気が襲ってきた。堪らずその場で嘔吐すると尾形はやはりもう一度舌打ちをして、そして今度こそ私を見捨てて行ってしまうかと思いきやーー意外にも、その男は自分の外套を破り私の鼻と口を押さえるとへばる私の腕を痛いほどに無理やり掴んで引っ張り上げた。



「ーーお前、たしかめることがあるんじゃないのか。鶴見中尉に一杯食わされたままでいいのか」



罪のない人間を脅し、前山さんを殺し、金塊争奪戦をかき乱すこの得体の知れない男は、しかし何かを得るために戦っているのだ。暗闇の坑道の中に鈍く光るその眼が気が遠くなるほどの回数小銃のスコープを覗く時、そこにはたしかにこの男の欲する獲物がいる。尾形の言葉は奇妙にも私にそんなことを感じさせた。そうして私は尾形に促されたように彼の外套で呼吸を防ぐと、無理やり掴まれたままのその腕を掴み返して立ち上がった。目眩と吐き気で気分は最悪だが、こんな百余年前の北の大地で、あんな男に利用されたままで、まだ女将に恩も返せていないのに。くたばって堪るか。尾形の言葉が私をそう奮い立たせて、覚束ない足取りながらなんとか先へ進む気力を得たのだ。そんな私に尾形は口元を押さえた外套の下であのいつもの笑みを浮かべている気がした。


「……絶対……生きて出てやる……ありがとう尾形上等兵………」


「助かる前から礼とはずいぶん余裕だな」



あとさっきからお前足踏んでる、と踏まれた方を持ち上げた尾形はそのまま私の尻に蹴りを入れた。満身創痍の私は当然そんな軽い衝撃にも耐えられるはずはなく、面白いほどに吹っ飛んだこちらを見て尾形は「ハハッ」と乾いた笑い声をもらした。いや、こんなことしてる場合じゃないんだけど。坑道の混乱の中、右も左もわからない私たちはしかし希望を捨てずに出口を目指してその重い足を前へ進めるのだ。



18062023



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