二階建ての立派な木造建築の一室で洋琴が奏でられていた。そのピアノを演奏する男は琺瑯製の額当てに外套、そして詰め襟の堅苦しい肋骨服に身を包んだ軍人で、繊細で時に情熱的な旋律は男の外見とのちぐはぐさに思わず誰もが聴き入った。部下の一人が男ーー鶴見中尉にこの曲はなんという曲か、と質問すればベートーヴェンの『情熱』という曲目だという。果たして現代っ子の私ですらあやふやなクラシックをこうも弾きこなしてしまうとは恐ろしい男だ。事実私の隣ではすっかり恋をする乙女のような眼差しをした男が惚れ惚れと彼の演奏に聴き入っているではないか。



「お上手ですな鶴見さん!この家には弾ける人間がおらん!その洋琴も喜ぶ」



どうやら第一楽章が終わったらしいタイミングでこの洋琴の持ち主である白髭を蓄えた恰幅の良い男が手を叩きながら満足げに言った。そんな男に鶴見中尉は自分の家も裕福だった時期があるためだ、と理由を添えて話の核心へ誘導してゆく。そんなやり取りを横目に私はいや、ピアノ弾ける奴いないなら買うなよ。と至極真っ当なことを思ったが、華やかな装飾や調度品は成功者の富と名声を手っ取り早く示すものなのだろう。この洋琴の持ち主、そしてこの立派な鰊御殿の家主はモッコ背負いから成り上がったいわゆる“鰊大臣”と呼ばれる大金持ちなのだそう。そんな御殿に本日私たちが出向いた理由は。



「ニシンの心は我々には読めないが、人の心は操れる。戦争なんて意図的に起こすことが出来るものなんですよ。ぜひ我々の兵器工場建設に投資してください」



年々漁獲高は減少の一途を辿るニシン漁など見切りをつけ、先を見据え自分たちへ投資しろ、と。先日より日本海沿岸に建ち並ぶ鰊御殿を転々と投資の相談を持ちかけてきた鶴見中尉だったが、他の御殿とは一線を画した面積のこの小樽の屋敷がどうやら本命だったようだ。なんだか口説き文句もこれまでより熱が入っている気がする。
それより何より、私は先日初めて兵器工場建設、などという物騒なワードを聞いたのだが、アイヌの金塊を集めて鶴見中尉が一体何をしたいのか、ほんの僅かだがその影を捉えたような気がした。戦争が儲かるとはやはりその通りのようで、鶴見中尉は意図的に戦争を起こしその物資を供給することで経済を動かす、もしくは富を得ようという考えのようだ。加えて人の心は操れる、とはこの男が口にするとあまりにも恐ろしい。


「きみもたしか洋琴が弾けると言っていたな?ミョウジナマエ」

「エッ!?い、イエ……私が弾けるのはねこふんじゃったくらいのものでソノ………」
 

「ネコフンジャッタ?初めて聞く曲名だな……」

「弾いてみたまえ、お嬢さん」


「イヤ!!鶴見中尉の弾けるレベルがこんなに高いと思わなくてソノ!!!」


「失礼いたします。奥様よりお茶とお菓子は如何かと」


思いの外レベルの高い鶴見中尉の演奏に「え?ピアノ?まあ少しは弾けますね〜」と現代人ぶった少し前の自分の見栄が仇となった。まさかあの演奏のあとに子供だましのねこふんじゃったを指一本で弾いたとあらばこの場が白けることは請け合いだ。そんな私の危機的状況を救ってくれたのはどうやらこの御殿の女中さんらしき女性だった。黒の漆喰のお盆に載せられた西洋風の繊細なお皿とティーカップはちぐはぐで、しかしそれらが改めて私に明治末期を思い起こさせてくれる。

テーブルへ置かれたお菓子に大袈裟に喜び椅子ヘ座ろうとした私の首を何者かが背後から思い切り圧迫した。思わずぐえ、と下品な声を漏らして咳き込む私に素知らぬ顔をする元凶の男。宇佐美上等兵である。宇佐美は私の首についた赤い首輪に結ばれた手綱を引くことでその行動を制御する。再び彼らに捕まったあの日から、私はこうして今度こそ逃亡は許さないという風に彼と行動を共にすることを義務付けられたのだ。


「犬が椅子に座るな」


「犬じゃねえわ…!!!」


「あの……餌鉢なら番屋にありますけど……」


「女中さんもさらっと酷いこと言うな!?」


「……鶴見さん、さっきから気になってたんだがこのお嬢さんは……?」


「騒がしくて申し訳ありません。私共の飼い犬のような存在ですのでお気になさらず」


「そうですか」


「受け入れ早すぎない?」



胡散臭い笑顔で手綱を短く持つ宇佐美のせいでテーブルの上で良い香りを漂わせる紅茶やこの時代では珍しいビスケットのようなお菓子を口にすることのできない私はジタバタと暴れる。女中さんの説明でそれらがエゲレス、つまり英国からの輸入品であることを知った。さすがはお金持ち。そんな現代には珍しくないが、この時代では食べ慣れないだろうお菓子、そして扱い慣れていないティーカップを前にしてもやはり鶴見中尉という男は様になる。
テーブルの後ろで暴れる私をいなす宇佐美、そんな宇佐美に唾を吐く私、そしてキレた彼に顔面を鷲掴みにされる攻防を前にしてもなおも彼は優雅に御殿の主人と午後のティータイムを楽しむ。



「いだだだだ!!!顔もげる!!!」


「………」



「時に鶴見さん、近頃ここいらの鰊御殿で泥棒が相次いでるってのは知ってるかい」



「泥棒、ですか。それは物騒な話だ」


「岩内に次いで積丹、余市でもやられたらしい」


「なるほどそれは」


「次はウチかもしれん」


無言で私の顔面を鷲掴みにしていた宇佐美の手の力が少し緩んだ。その隙を見計らって逃げ出す私。と言っても手綱を握られてるので多少距離を取っただけなのだが。そんな私たちの注目は卓上でお茶会を決め込む中年男性たちへ注がれていて、どうやら旦那が言うには鰊御殿を狙った泥棒が北上し、徐々に小樽へ近づいてきていると。そんな話に宇佐美と私はそれとなく目を合わせた。



「実に心配だ」


「そこで、だ。俺はアンタらの仕事ぶりが見たい。何せこの時期は繁忙期で各地から身元も定かでない流れ者が大勢港に行き着く。その中に紛れ込まれたんじゃあ探すのは至難の業ってモンだ」


「仰る通りかと」


「だからこそ俺はアンタらにその犯人を探し出し、盗みを事前に防いで欲しい。そうすりゃ兵器工場だなんだの投資は考えてやってもいい」


「それはそれは」



なんだか話の展開が不穏になってきた。旦那の言葉に相槌を打つ鶴見中尉の心情は量れないが、どこか軽薄さを感じるのはこちらの勝手なフィルターだろうか。旦那も旦那で本当に融資をする気があるのかないのか、繁忙期に借りれるものなら猫の手でも借りてやろうの精神なのかもしれない。とんとん拍子に進んだ会話は鶴見中尉がこちらに手のひらを差し出したことで終幕を迎えた。突如示された私は目を丸くしたものの、隣の宇佐美は先ほどまでの私との攻防などなかったようにぴしりと背筋を伸ばし敬礼の姿勢を決める。旦那の視線もまた首をひねって私たちへ向けられた。



「ならば彼らがぴったりですよ。先ほど言った通り実に忠実で優秀な私の可愛い部下たちなもので。必ずあなたの力になることをお約束します」



部下たち、のところが犬たち、に聞こえたのは私の思い違いではあるまい。そんな鶴見中尉に指名された宇佐美は普段以上に気合の入った返事をすると鶴見中尉はウンウンと笑顔で頷いた。一方の私はこれはまた変なことに巻き込まれたとげんなりした顔をする。だってこの旦那の言う通り今の時期に港を出入りする人間なんて特定できるはずがない。加えて件の泥棒だけでなく、脛に傷のある人間が働きやすいのが季節労働だ。前科者を捕まえたとして、それが連続強盗事件の犯人と判断がつくとは思えないが……。



「い、行きたくない……ぐえっ、」

「僕らにお任せください。必ずや犯人を捕まえて見せます」


「おお、これは頼もしいな」


「期待しているぞ、宇佐美上等兵。そしてミョウジナマエ」


「だからなんで私!?!?」


「ハイッッッ!!!鶴見中尉殿!!!」



ひらひらと手を振る鶴見中尉と、成金の鰊御殿の旦那と、贅を尽くした装飾と調度品に、洋琴の上に乗ったマシンガン。カオスである。そんな悪夢のような場所から手綱を引っ張られて向かう先は連続強盗犯の捜索と捕獲。退くも進むも地獄だ。しかし嘘か真か調べる術がないが、鶴見中尉の言う通り無事に逃げ果した女将が東北に身を潜めているなら、その時点で私は彼女を人質に取られているのと同じである。それに、あの小樽の森の中で鶴見中尉が口にした女将の息子についての情報が、どこまでが真実で嘘なのか、確かめるチャンス……という名の罠かもしれないが、とにかく、あの男が私を必要とする限りはこちらも奴を利用してやる他ない。


「………いっ、……!!だから引っ張らないでよ!!」


「お前がボーッとしてるからだろ。早く聞き込み行くぞ」


私が知る中で、女将やその息子に関して情報を持っていそうなのはやはり白石だ。最後に会った日から約十ヶ月が経とうとしていた。年内は小樽に居るだろうと言っていた白石だが、今はもう四月で暦は春である。もうこの町にいないかもしれないがーーやはり希望は捨てきれず、加えてもう一度あの男に会いたいという自分の気持ちが余計にそう思わせた。


29122022



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