湯気にのってほんのりと甘い出汁の香りが鼻孔をくすぐる。一杯の丼鉢の中には色の濃い汁と蕎麦、その上に身欠きニシンの甘露煮が浮かんでいた。蕎麦なんて現代では大晦日に食べる程度だった。加えて魚を具にするとは、少々生臭そうで敬遠していたものだった。ニシン蕎麦。小樽ではニシン漁が盛んで港にはその売り上げで建てられた鰊御殿なる家々が並ぶそうで。そんな小話を聞きながら女将は今し方鍋からよそったばかりのあたたかなそれを私の前に差し出した。
初夏といえど肌寒い気温で、加えて草臥れて帰った体はやさしいものを欲していた。大きな丼鉢を持ち上げて、汁をすすると濃い目の味付けがどこか懐かしい感じがした。そのまま麺をすすって、甘露煮を食めば口の中で甘酸っぱくほころぶ。私はなぜだか唐突に瞳の奥からこぼれでる大粒の涙を止めることができなかった。


特別好物でもなかった。さらに言えばどちらかというと苦手な食べ物だった。帰るだなんて、ここは私の家ではないし、この先どうなるかなんて、どうすればいいかなんて皆目検討もつかなかった。
ただ、あたたかい一杯の蕎麦が張り詰めていた私の心をほどいたことは確かだった。黙々と蕎麦をすすりながらぼろぼろと涙をこぼす厄介な女の横顔を女将はどこか優しい眼差しで見ていた。そしてぽつりとこぼしたその言葉はシンプルだったが、それ故にずっと私の心に残ってきたものだ。


「本当は娘が欲しかった」


「…それは、何故?」


「男はみんな戦争へ行ってしまうだろ」



それが私が明治末期へタイムスリップした最初の夜のことだった。











「オラ、ナマエも脳みそ食え。」




それが何故か、何故今私は小動物の脳みそを目の前に突き出されているのだろう。隣の男は私を裏切るようにすでにそれを口の中へ運んだ。私は差し出された木製のスプーンと暫し睨めっこをした後、「早く」と急かす言葉に意を決して震える唇を開いた。そこに間髪入れずに突っ込まれる脳みそ。先ほどまで元気に木々を渡り歩いていたその小動物は愛くるしいリスで、私はそれを皮を剥ぎ頭を開いて脳みそを取り出す場面を見ている。令和に生きる軟弱な都会っ子には刺激の強い光景だ。



「は……はぷ………はへ………」

「どうだ?うまいか?」


「は、はへ…………」


目の前の少女がその反応をどう受け取ったのかはわからないが、ひとまず食べさせたことに満足したらしい少女ーーアシリパさんは男ーー杉元に代わってチタタプを再開する。リスの脳みそは幸か不幸かたしかに美味しい……気がしたがいかんせん解体作業や脳みそを食べるということに慣れていないものでいまいち味わう余裕がなかった。けれど目の前の少女と歩み寄るにはまずは異文化を受け入れるべきだろう、と勇気を出した結果のことだ。




『杉元。待ち合わせ場所にいないと思ったら誰だ、そのひとは』




それは今から数時間前のことで、私たち……もとい私と銭湯で服を盗み共にバスジャックをした男ーー杉元佐一が車を捨て、着物を調達し小樽の街の背後に佇む森の奥深くへと逃げ果した後のことだった。針葉樹でできた一見小さくも中は割りと広く快適な仮小屋(クチャというらしい)の中で身を潜めていると、不意に小さな足がその前で立ち止まった。
男が「アシリパさん」と微塵の警戒もなく小屋の外へ飛び出したもので、私も続けて這い出るとそこには若干十二、三歳だろうという女の子が立ち尽くしていた。少女は私の姿を見るなり少し眉を顰め誰だ、と男に訊ねる。そうして事の経緯を男が話している間に私の視線は不躾にも彼女頭の天辺から爪先までその出で立ちに興味を持つように注がれていた。


アシリパさんはアイヌ民族の生まれだった。アイヌとは北海道の先住民族で、日本の発展と歴史に翻弄されてきた……くらいの知識しかなく、加えて民族衣装や狩猟の道具を背負った少女、とは漫画や映画の中でしか見たことがなくそんな彼女に視線を注がれて内心どきっとしたのがつい先ほどの話。その瞳が凛と強く美しい色を呈していたのが印象的だった。


「よし、ナマエも叩け。ちゃんとチタタプって言えよ」


「はい。アシリパさん。チタタプ、チタタプ……」


「本当は生で食べ切れない時にオハウにするんだが、今回はお上品なシサムのお前らに食べやすいように全部丸めていれてやる」


「肉のつみれ汁か。かたじけない」



そうして杉元から山刀を渡されてもうずいぶん細かくなった肉をさらに叩いてゆく。アシリパさんの言いつけ通りチタタプをする私に彼女はうんうん、と満足げに頷くと天井から吊るした鉄鍋を火にかけ刻んだ山菜を入れた。暫くしてくつくつと鍋が煮えるとよく刻まれた肉をスプーンで丸めて入れてゆく。少しずつ食欲をそそる匂いを感じて、加えて雪の降り積もった森の中でする鍋は特別魅力的に見えた。
この湯気とぬくもりが女将と出会った最初の日のことを思い起こさせたんだ。


「ん……!!うまいッ……!!」


「ナマエはどうだ?」


「おいしい」



いただきます、ときちんと手を合わせたのちアシリパさんが作ってくれた樹皮でできたお椀につみれ汁をよそうとゆっくりと咀嚼した。ほのかな出汁と塩味が体に染みわたるようで、柔らかい肉もコリコリとした骨の食感が楽しい。ほっとしたように一息つく私を見てアシリパさんは満足げに笑っていた。
そうして彼女から食事に感謝する言葉を「ヒンナ」というのだと聞いて杉元と私は同じように口々に呟いた。



「……それで?アンタはなんで第七師団なんかに追われてたんだ」




男の、杉元の言葉にその場の空気が一瞬で張り詰めたのを感じた。三人とも食事を続けてはいるが、先ほどまでのなごやかなものではなくなった、と判断した私は一足先に箸を置く。



「……ある質屋の女将の元で世話になってたんだけど、ある日突然第七師団に誘拐されて、女将の身の安全と引き換えに監禁された。それが三ヶ月くらい前の話でーー監視役を丸め込んでなんとか外出許可をもらった先で逃げ出したってわけ。あとはお兄さんの知っての通り」



「ソイツは妙だろ。なんで一介の質屋の女を帝国軍がいきなり攫うんだよ。理由があるはずだ。アンタ、まだ何を隠してる」


「オイ、杉元」



少し圧が強いぞ、と隣で咎めるアシリパさんを意に介さず杉元は私から視線を逸らさない。しかし果たして刺青人皮を辿る金塊争奪戦や未来からのタイムスリップの話をこの男にしたところで信じてくれるだろうか。男ーー杉元はこの少女にはずいぶん心を許しているようだが、私や他人に対しては疑い深い性格と見た。加えて全裸で走る男の体には信じ難いほどの多くの傷があった。戦争なのか、詳しくはわらないがあの傷を拵えるような修羅場を潜ってきた男だということ。一筋縄でいかないだろうことは理解できた。


「……刺青人皮が、」


「……何?」


「……四年前、網走監獄で集団脱獄が起きた。脱獄した囚人たちの体には刺青が彫られていて、……信じ難い話だけど、その皮を剥がして繋ぎ合わせると金塊の在り処を示す地図になるんだ、って……」


「………」


「その刺青人皮がうちの七ツ屋に質入れされて、それを嗅ぎつけた第七師団がやってきた」


「………」



「……金塊……アイヌの、隠し財産……」



静まり返った小屋の中にパチパチと焚き木が爆ぜる音だけが響く。そこにぽつりと言葉をこぼせば思えばこの目の前の少女もアイヌだった、と思い当たる。
結局この男を前に嘘や誤魔化しは通用しない、と考えた私はありのままをなるべく時系列通りに話した。鶴見中尉と違ってこの男は腹の探り合いをする前に相手を殺してしまいそうだ。そんな判断の早さ、無情さをあの時銃を構える男の横顔に感じた。


「…つまり、その刺青人皮は今第七師団が保有してるって訳か。そんで?人皮を手に入れて尚アンタを監禁してた理由は?人質まで取って」


「…ちょっと待って、信じるの?」


「お前が言ったことだろうが。それより早く質問に答えな」


「……今度はお兄さんたちの番だよ。逃げるのに協力してもらったことは感謝してるけど、私だって軍人とアイヌの子供の組み合わせなんて意味ありげな、そんな人たちのことを安易に信用できない」


「あぁ?」


「もうよせ、杉元。私たちも話そう。何か手掛かりになるかもしれない」



荒唐無稽なこの話を、この男がずいぶんあっさりと信じたことに違和感を覚えた。そして問い返すと凄まれ、睨まれ、それに負けじと睨み返した。そんないい年した大人たちを制するように間に入ったのはなんだかずいぶんしっかりしているアイヌの少女である。小屋作りも、狩猟も、物言いも自分が彼女と同じ年頃と比べて恥ずかしくなるほどに立派だ。そんな彼女だからか、その一言に威嚇していた男の眼光は一気に緩んだ。アシリパさんが言うなら、と続きそうな声色で「わかった」と肯定した杉元は静かに事の経緯を話し始めた。それは彼らもまた金塊を目指して刺青人皮を追っていること、アシリパさんの父親の身に起こった凄惨な悲劇のこと。


私は改めて自分がとんでもないことに首を突っ込んで、もとい巻き込まれてしまったことにごくりと喉を鳴らした。そうして説明を終え、今度はアンタの番だ、と言うように顎をしゃくる杉元に、今度驚くのは二人の方だよ、と思う。そして果たして信じてくれるのかという不安も。




「私が監禁されてたのは恐らく、私が未来から来た人間だからだよ」




「…………は?」


「………ミライ?ミライ、ってあの未来か………?」



杉元、そう至極当たり前の質問を提示するアシリパさんと顔を見合わせてウンウン頷く杉元。それは刺青人皮や金塊争奪戦よりも俄には信じられまい、と私は苦笑いするのだった。


16102022



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