「……あーーあァ、メンドーなことになってきやがった」



そうため息とともに一人ごちた男は建物の陰から一軒の質屋を覗いていた。店の軒先にはここ数週間、毎日交代で歩兵銃を下げた軍人が見張りとして立っている。それもただの軍人ではなく肩章に記された“27”の数字。帝国陸軍最強と謳われる北鎮部隊、第七師団の人間である。
少し前までは繁盛していたその店はすっかり閑古鳥が鳴き、というのもこの店の女将は身元の知れぬ流れ者や前科者、いわゆる脛に傷のある人間とも商売をする人情家で、故にその顧客には警官や軍人を前にしては後ろ暗い過去のある者が多いからだ。

その内の一人であるこの男ーー白石由竹もまた第七師団の兵士が見張りに立つような店にわざわざ足を運ぶことは躊躇われた。何せ自分も青臭い餓鬼だった頃から数多の監獄を脱獄してきた身である。しかし白石がこうして店の様子を窺う理由もまた、女将に良くしてもらった恩があるからに他ならなかった。



約一ヶ月ほど前、小樽運河で一人の男の死体が上がったと聞いた。そしてその死体は顔が潰され、上半身の皮を剥がれていた。まるで狩りをした動物の毛皮を剥がし取るように綺麗に剥がれていた、と。



「………」



あの店には多くの得体の知れない人間が出入りしていた。その中には女将の恩を仇で返す輩がいても何らおかしくはない。正直者が馬鹿を見る世の中だ。人の良さだけでは食っていけない。そのことは誰よりも白石が熟知していた。けれどこのまま見捨てるのも夢見が悪い。白石はその狭間で揺れていた。



「お前、白石由竹だな?」


「ーーー!?」



そう、店先の動向を窺っていた白石の背後から男の声でそう呼びかけられた。途端に白石は背後を取られたことと、その声の距離が近いことにその場から飛び退いた。が、背後にいた男は白石よりも頭一つ分ほど背が高く、体格も良く肩を思い切り掴まれ壁に押し付けられると身動きを取ることは難しかった。何よりその迫力に気圧される。壁に体を打ち付けた白石は「ぐっ、」とくぐもった声を漏らし、男は人差し指を口に当て静かにしろと指示をする。
改めて眼前の男を見上げた白石はああ、女将のところに出入りしていた男だな、と多少見知った人物であったことに僅かに胸を撫で下ろした。間違っても第七師団とは関わり合いになりたくないからだ。


図体のでかい男は少し周囲を確認する素振りを見せ、その後折りたたまれた小さな紙切れを着物の袂から取り出した。そしてもう一つ、端布に包まれた何かを手渡すと男は白石を押さえていたその手をゆっくりと離す。


「……すまない、乱暴をするつもりはなかった」


「……アンタ、あの七ツ屋に出入りしていた流れ者だろ、何だいコイツは。何で俺の名前を知ってる」


「…名は、女将から聞いた。コイツは女将からアンタへ宛てたものだ。渡してくれと頼まれた」


「……」


「俺は今日小樽を発つ。最後に少しでも恩返しがしたかった」


ポツ、ポツと話し出した男はどうやら女将に頼まれてこれらを白石に渡しに来たらしい。なるほど、自身も後ろめたい身であるのに、兵士の監視の目を潜り恩人の窮地に駆けつけるとは義理堅い男だ。そう考える白石もまた、渡されたそれらを突き返すことなく受け取ったところを見れば男とそう違いはないだろう。


「……気をつけろ。後は頼んだぞ」


そう言って白石の目をじっと見た男は外套の裾を翻し目深に被った中折帽子の位置を正した。白石はそんな男の背中を見送った後、先ほど手渡された端切れの中を確認する。そこには鼈甲で造られた櫛と簪が包まれており、あの小さな手紙を開くととある住所とたった一言こう記されていた。『娘をどうか助けて下さい』、と。



「………あーーー、………」



ホントに、なんてメンドクセーことになったんだ、そう項垂れながら白石はがしがしと頭を掻く。
女将に家族はいなかった。近い親戚もなく、天涯孤独だと聞いていた。そんな彼女の心の内はひょっとすると白石由竹と近しいかもしれない。いや、日清戦争で旦那を、日露戦争で一人息子を亡くしたと聞いた彼女の心中は元より孤独であった自分よりも失った分だけ寂しさを抱えているかもしれない。


そんな彼女が記した娘、とは。十中八九あの女のことだろう。ミョウジナマエ。なんとも珍妙な恰好ながら金の匂いを感じたその女に声をかけてやれば自分は未来からやってきたと宣うおかしな女だった。白石も彼女の言うすべてのことを信じた訳ではないが、まあ美人だったし、恩を売って少し小遣いを稼げればいいと思っていた。白石の人生の中で生き抜くために利用し捨ててきた人間は数知れず、あの女もその中の一人に過ぎない、と思っていた。この手紙を開くまでは。



“妙な刺青の男には気をつけろ”。



自分でもあの時、何故あんな余計な忠告をしたのかと白石は思い返して疑問に感じた。取るに足りない些細な疑問だ。きっと、女がそこそこ好みの顔をしていたことと、女将を誑かして妙に意気投合したことと、貰った(くすねたともいう)飴が美味かったからちょいと情が湧いただけのことだ。その程度で首を突っ込むには割の合わない博打である。



「…………あ〜〜〜だ〜〜〜もーーーチクショウ!!!!!」



手の中の鼈甲の櫛と簪。
少々古臭いしきたりではあるが、婚姻を結ぶ時、男は女に櫛や簪を贈るという。美しく加工されたそれは売り払えばいい金になるだろう。が、そんなものをあの流れ者の男に運ばせた女将の信頼も、義理を通したあの男も、恐らく亡き夫からの贈り物であろうそれらも、白石にはずいぶん荷が重かった。



「(人がせっかく忠告してやったのに、まんまと捕まってんじゃねーよ、ドジっ子め)」



この男に言われたら終わりだろう不名誉な称号を与えられた女の顔を白石は思い浮かべつつ、一つ大きなため息をつくと手紙を破り捨て、端切れを包み大切に懐へ仕舞うのだった。


12092022



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