※ 暴力、犯罪、非倫理的な描写がありますが、それらを推奨する意図はありません。また作中に登場する人物や団体はすべてフィクションです。以上を踏まえて観覧は自己責任でお願いいたします。




























「……あ。」



皿の上に乗ったひとつのドーナツ。チョコレート・ファッションなる名前をつけられたそれは、まだ一口も齧られることなくテーブルの上に鎮座している。その中央にはひとつのまるい穴。丸いドーナツに、三角でも、四角でもなければたったひとつの丸い穴がある。それはどこから食べ進めても必ず突き当たる空洞で、甘い甘い夢のあとに見る残酷な現実のようだった。そんなぽっかりと空いた現実の穴へ突き落とされたのは一匹の妖精。一匹と言うのか、一人と言うのか、正確にはわからないがまだ手のつけられていない艶やかなチョコレート・ドーナツの中央にはピクシーの変死体があった。何を言っているのかわからないと思うが、それ以上どう説明のしようもない。
会話の最中に相手の茶菓子を凝視する私の視線を訝しく思ったのか、依頼人は一度話を止めて私に訊ねた。


「……どうかされましたか?」

「いえ、すみません。お話を続けてください」


何事も無かったように答えた私に依頼人はまだ腑に落ちない表情をしていたが、少しの間を置いてそうですか、とだけ口にすると会話の腰を折られたからか、今まで見向きもしなかった皿の上のそれへ手を伸ばした。私が「あ。」と思う暇もないまま、ドーナツの上で死んでいた妖精はぽとりと床に落ちる。そうして依頼人は相変わらず艶やかなコーティングのチョコレート・ドーナツを無感情に貪った。まさか先程までその上で妖精が死んでましたよ。死因は不明ですが。などと言えるはずもなく、手持ち無沙汰の私もまたソーサーからカップを持ち上げてコーヒーを一口含んだ。



「それでは着手金無し、成功報酬5万円でお引き受けします」


「本当ですか…!ありがとうございます」



私の返事に依頼人の男は心底ほっとしたように強ばっていた表情を緩めた。その笑顔はどこにでもある優しい夫や父親のもので、手元の身元確認書類に視線を移すとそこには扶養欄に妻と、一人の子供の存在が記されていた。そうしてもう一度依頼人へ向き直ると、彼は何度かお礼を述べ、頭を下げると早々に席を立ち上がり帰り支度をした。私も事務所の入口まで彼を見送るため立ち上がる。



「ほんとうに先生に相談してよかったです。それでは、よろしくお願いします」


「はい。また何かありましたらお気軽にご連絡ください」



和やかに交わされる会話は依頼人の最後の一礼を前に途切れた。カンカン、とスニーカーが鉄板を叩いて遠ざかってゆく音と小さくなるパーカーの背中を見ながらぼんやりと考えた。彼が次の依頼に来ることは決してないだろうなあ、ということを。
というのもあの男、複数の消費者金融から借金をして首が回らなくなり、闇金に手を出した典型的な多重債務者。そしてタチが悪いのはひとつの闇金業者からある程度の融資を受けた後、こうして初回相談、着手金無料の弁護士へ駆け込み借金を踏み倒す。それをもう何度か繰り返しているのだ。


彼の安心した笑顔は本物だろうが、それはうち以外にすでに幾つかの弁護士事務所で断わられたであろう不安から。ただし男の債務額、取り立ての被害状況から見るに引き際をわかっている。あと数回は同じことを繰り返すだろう。




「……(闇金業者にも弁護士・法律事務所にも名前は流れる。いずれ借金を背負うよりも酷い地獄を見ることになる)」




私の職業は弁護士だ。二年前に独立して今は都内にこじんまりとした事務所を構えている。弁護士になった理由は高収入を見込める職種だと思ったからだ。つまり、金のため。
ひんやりとした手すりに手をかけて階下の国道を覗けば、まるでトラックに轢かれたカエルのようにぺしゃんこのピクシーの死体があった。彼らは凡そカエルや野良猫のように時に無惨に道ばたで死んでいたり、時にコーヒーの角砂糖をくすねたり、悪戯で片方の靴下を隠したりする。


ドーナツの中心で死んでいたピクシーは最後にどんな夢を見ただろうか。あの男がドーナツの穴へ真っ逆さまに落ちる時、それは現実に目を覚ます時。
ぺしゃんこの妖精の死体を踏みつけて、男はどこか軽快に、鼻歌交じりに歩いてゆく。頭の片隅でそういえば今日は菊花賞だったなと思い出す。今から向かえば府中のメインレースには充分間に合うだろう。男の借金の理由はギャンブルだった。とりわけ、競馬であった。私は今日もそんな彼らの依頼を受ける。









「……チッ、」



淹れたてのコーヒーの、ほろ苦い香りが広い室内に漂っていた。デスクモニターを忌々しい表情で睨みながらひとつ舌打ちをした男は、片側を刈り上げたアシンメトリーな長髪を鬱陶しそうに耳にかけてからコーヒーを啜った。普段、こうもあからさまに不機嫌を表に出すことの少ないこの男の、珍しく感情的な態度に何か愉快な気配を察したのか少し離れた位置のソファーに腰掛けていた男が立ち上がりデスクの側へやって来る。


「なに、機嫌悪ィの」


「うっせえ向こう行ってろ」


近づいてきた男のニヤニヤとした表情は長髪の男の神経を逆撫でするに十分で、思わず反射的に威嚇するような視線と言葉を投げかければ余計面白がるようにケラケラと笑いながら無遠慮にデスクの上に腰掛けた。「そうカリカリすんなよココちゃん。どうしたか兄ちゃんに言ってみ」。
ココちゃん、そう呼ばれた長髪の男は彼のつけたあだ名を否定しながら、この目の前の柔和な笑みを浮かべる癖に行動はがさつな、悪魔のような兄弟の片割れがいつデスクの上のコーヒーカップをひっくり返すか分からない、と反対側へ避難させた。そんなココちゃんこと九井一の行動を横目に相変わらず薄ら笑みを浮かべるデスクの上の男ーー灰谷蘭に、九井は観念したようにはあ…、とひとつ深いため息をつき舌打ちの原因を話し始めた。



「また金踏み倒された。今度は、約80万」

「ハッ、ダッセ」

「………」


「金貸しの?」

「ああ」


いつの間にか背後に回り込んでいたのは蘭の片割れである弟の竜胆で、兄と揃いのスリーピースのスーツを着込んで、髪色は派手だがその柔らかそうな髪質や童顔から一見可愛らしいイメージを受ける。が、その実負けず嫌いで喧嘩っ早く、考えるよりも先に言葉が口から出てしまう脳筋タイプなのだからこの兄弟、見た目はどこまでも詐欺である。


「ケツ持ちはモッチーか」

「どーせ下っ端が日和ってんだろ?俺が行ってぶっ殺してやるよ」

「駄目だ。弁護士が介入してんだ。手ェ出すんじゃねえ」

「へー、ヤクザに舌巻かせる弁護士の方がよっぽどおっかねーなァ」


組んだ足の上で頬杖をつく兄の方が何気なく言った言葉に九井は少し視線を向けて全くだ、と言うようにデスクチェアの背に一気にもたれかかった。軋んだ背もたれは九井の体を優しく何度か押し返すとやがてその体重を受け入れるように落ち着いた。そんな背もたれに片腕をかけ、デスクトップを背後から覗き込んでいた弟の方は「あ。」とひとつ声を上げると同時に画面を指さした。



「これも、こいつも担当弁護士おんなじじゃん」

「………」

「うわ、まじだ。何コイツ、闇金撲滅運動でもしてんの?胆座ってんなあ。ウケる」

「何年か前に開業した若い女の弁護士だよ。闇金とか債務整理とか、金銭トラブルに強いらしい。大した金になんねーのにご苦労なこった」


「?じゃあなんで引き受けてんのこの女」


「知るかよ。蘭の言う通り、闇金撲滅派なんじゃねーの?闇金が無くなりゃコイツらの仕事も激減するっつーのに、馬鹿な奴らだ」




「んな目障りなら殺っちまえばいいじゃん」




また背後からひとつ声がした。そう物騒なことを宣う人物は、今し方事務所へ帰宅したようで煩わしそうにテーラードコートを脱ぎ、乱雑にコートハンガーへと掛けた。どうやら外は小雨が降っているらしい。肩まで伸びた派手なピンク色のマッシュウルフの髪をその名の通り動物のように振り乱して水滴を払う。そうして皆の怪訝そうな顔も気にせず、尖った革靴で床を濡らしながら室内へ歩を進めると、そのまま先ほどまで蘭が腰かけていたソファーへどっかりと座った。
九井は法律の専門家である弁護士を前にそう簡単に口には出せない本音をいとも簡単にかっさらわれていい気がしなかった。誰もがテメーのように好き勝手に動けばこの組織は三日と待たずに崩壊する。そんなことを思ったが、こう幾度となく組織の看板に泥を塗られては世間に示しがつかないのも確かだ。



「……次梵天の看板に泥塗るような真似しやがったら、営業停止じゃ済まさねえ」



最後の警告のように独りごちた九井の言葉に、蘭が相変わらず胡散臭い笑顔でひとつ口笛を吹き、ソファーの方では「ハハッ!!スクラップだ!!」と左右の口端に縦に切り裂いたような傷を持つ男ーー三途春千夜がその口を大きく開けて笑った。それらに賛同するように竜胆もまた九井の肩に腕を乗せにんまりとした笑みを浮かべる。
コーヒーはすっかり冷めてしまっているが、室内にはまだほんのりと残り香が漂う。窓の外では雨脚が強まり、眼下を行き交うサラリーマンたちの足取りも自然早くなる。そんな都心のオフィス街のとある事務所。打ちっぱなしのコンクリートの壁にチェスナットブラウンがよく映えるアイアンフレームの大きなデスク。天井にはファンがゆったりと空気を循環させており、部屋の片隅にはゴムの木の鉢植えが飾られ、清掃員が毎朝世話をしている。

晴れの日は南向きの窓からたっぷりと採光することができ、そんな陽の光と、新鮮な空気と水で観葉植物はすくすくと育ってゆく。まるで悪を養分とするように。









「申し訳ありませんが、未成年の方の入店はお断りしております」



会社員が一日の仕事を終え、夜の帳が下りる頃、店前に出された看板にネオンカラーの明かりが灯る。髪を巻き、唇に色を差し、華やかなドレスを纏う。すれ違えば欲望をくすぐる香りが男たちを振り返らせる。そんな女たちが優しい笑顔を浮かべて癒やしを求める人間を待ち受ける店。いわゆるキャバクラ。開店直後の薄暗い店内に早速一人目の客がやってきたと思えば、その人物を迎え入れたボーイは内心珍しいものを見る心持ちながら、至って冷静に断りを入れた。



「未成年ではありません。こちらで勤務している女性と約束があるのですが」



穏便にお帰り頂こうと落ち着いた口調で諭したボーイだったが、食い下がる目の前の人物に小さく眉間に皺が寄る。
というのも目の前の人物ーーもとい女、もとい少女は成人男性の平均身長に達するか否かという背丈のボーイですら見下ろす小柄さ。そもそも、キャバクラに女性客が珍しいかと言われればそうでもないのだが、それでも男性客と比較すると目立つ存在ではある。加えて少女は一人だ。余程通い慣れた女性でなければ一人で入店することはまあ無い。それより、何より。この少女の格好が。



「なに、なんか揉め事?」



入店の知らせがあったにも関わらず、一向に奥の部屋へ来る気配のないボーイと新規客に、廊下の奥から姿を見せたのはひょろりと背の高い、メッシュの入った髪を七三に分けた男だった。ボーイと呼ぶには余りに高価そうな仕立てのスーツを着込んでおり、浮かべられた笑みは自信と余裕と威圧感を含んでいる。自身にとっては助けであろう男の登場にも、声をかけられたボーイはより一層恐縮して見えた。


「いえっ、あの、こちらの方が」

「すみません申し遅れました。私、弁護士のミョウジナマエと申します。本日は依頼主の代理としてこちらでお勤めの女性とお話に参りました」



吃った様子で男へ状況を説明しようとするボーイの言葉を遮り、少女は胸元のバッジを指先で摘んでみせた。間接照明のライトに照らされて薄暗い店内にチカリと鈍く光るのは黄金色のひまわりの花。その中央には公正と平等を象徴する天秤が小さく描かれている。それは紛れもなく司法試験を通過した者のみが手にすることのできるシンボルで、それを見たボーイは目を大きく見開き、隣の男もきょとんとした顔をした。
少女ーーもとい女が入店と同時に未成年に間違えられるほどの童顔と小柄さの持ち主で、そんな人物がまさか弁護士先生だということにも驚きなのだが、それ以上にその胸に輝く弁護士バッジとは不釣り合いな、顎下に結われたピンクの大きなリボンが彼女が喋るたびにちらりと揺れる。その紐は耳の後ろを通って、頭頂部を覆う、これまたレースと二つのリボンに飾られたアクセサリー。いわゆるヘッドドレスへと続いていた。そう、弁護士だと言うこの女の格好はピンク。そしてピンク。時にレースとリボン。まるでフランス人形や絵本の中から飛び出したようなメルヘンな出で立ちのこの女が、まさか成人済みで、加えて弁護士だなんて。事実は小説よりも奇なりとはこのことだとボーイの男は思う。


「あー、なんだっけ、ゴスロリ?」

「いえ、私の格好はゴシックではなくクラシックの方です」

「あー。そう。クラシックね。つか弁護士さんってスーツとか着なくていんだ」

「私たちは公務員ではないので。バッジも着用義務はないんですよ。私の場合身分証明に便利なので付けていますが」

「ならフツーにスーツ着りゃいいだろ。ウケる」

「これは私にとって自由と正義の象徴なので」

「ふーーん」

「………」



目の前で交わされる頭のネジの外れた会話にボーイは今すぐにでもこの場から立ち去りたい気持ちだった。ロリータ服の女弁護士はバッジだけでは心許ない、とこれまたピンクのレザーのバッグからラインストーンでデコレーションされた名刺入れを取り出した。そこから一枚抜き取って男に手渡す。男はアポイントを取ってあるというキャバ嬢の名前を問うと、その女は数日前に店を辞めていた。どうやら弁護士と顔を合わせてはまずいことがあるらしい。


「逃げられましたね」

「そのようですね」


「女の住所や連絡先、お伝えできますけど。ま、どーせ引っ越した後だろうけど」

「……あなたは、こちらの責任者の方ですか」


「まあそんなとこ。アンタだってわかってんだろ?俺がどーゆー立ち位置か」


「……では、お願いします」



間接照明の明かりがほの暗い店内に妖しい雰囲気を醸し出す中、淡々と交わされる異色の二人の会話にボーイはおかしな汗が止まらなかった。そうして彼がその制服の内側にじっとりとした湿り気を感じる傍ら、目の前のロリータの女をスーツの男が店の奥へと案内することとなった。普段社長風の男や若手起業家、サラリーマン……様々な男たちがこの廊下を通り華やかな女たちの待つホールへと歩いてゆく。時に彼らを案内し、時にその背中を見送る。そんな見慣れた光景が今夜はこんなにも胸騒ぎがするのは身なりのいい胡散臭い男にエスコートされるロマンチックな出で立ちの女弁護士という悪夢のような組み合わせのためか、それともお互いの目の奥に相手を殺してやろうか、と言わんばかりの殺気を感じたからか。その両方かもしれない。


歩くたび揺れるレースやリボンの端に胸焼けを起こしながら、ボーイは遠ざかる二人の背中に軽く頭を下げ見送ることしかできなかった。









いい?、そう断りを入れずに一本咥えて火をつける、一口吸って吐き出された煙はその悪趣味なパッケージを誇張するように甘い香りだった。それは食べすぎたショートケーキだとか、感覚の麻痺した香水だとか、そして多くの人間が自分の格好を見たときに向ける視線と似ているとナマエは思った。


「あ、吸う人?」

「いえ、今はもう」

「アー、ケンコウジュミョウを延ばしましょう的な」

「そういう訳ではないんですが」


またひとつ吐き出された煙が宙をくゆってナマエの耳元を掠めた。ナマエは内心髪や洋服ににおいがつくだろうが、と悪態をついたが、この目の前の男がだからといって火をつけたばかりの煙草の先を灰皿に押しつけるとは思えなかった。それどころか何だかんだと嘯きあの柔和な笑顔で流されるのが落ちだろうと思った。

店の入口からホールへと続く足元がよく沈むネイビーの絨毯が敷き詰められた廊下を抜けると、関係者専用だろう奥の一室に通された。そこは事務所とも応接室とも呼び難い煌びやかさで、重厚な作りの家具が鎮座する中、無意味に広いスペースが反対に訪れた者を威圧するようだった。



「真面目で詰まらない自分が嫌で吸ってみたこともありましたが、その考えが詰まらない最たるものだと気づいたので止めました」


「フーーン。なんかよくわかんねーけどセンセーフツーじゃないね」


「この洋服がそう見せてくれているだけです。だから私はロリィタ服を着るんです」



胸元のレースに手を当てて淡々と返答をするナマエに男はすでに何度目かになる煙を口から吐き出した。と、そこで三度のノックの後にトレイを抱えた従業員が頭を下げて部屋へ入室した。伏し目がちに華奢な作りのティーカップをテーブルに置くとその中で琥珀色の水面とレモンが揺れる。そうしてシュガーポットやティースプーン、お茶請けのクッキーの皿を同じように置くと従業員は一言も発さずまた軽く一礼をして部屋をあとにした。


「まあ、そういう世間話は置いといてさ、辞めた従業員の女の話だけど」


「………(あ、)」


ひとつ、ふたつ、みっつ、案外甘党なのか躊躇いもなく紅茶の海に消えてゆく角砂糖たち。そんなシュガーポットに山になった白い塊のひとつを、健気に運び出そうとする小さき存在を見つけた。ころり、テーブルに転がった角砂糖を視界に捉えた男は「おっと、」とそれをポットに戻した。苦労して取り出した砂糖を再び戻され、しかし妖精はへこたれることなくもう一度チャレンジする。健気というか、特に何も考えていないのである。


「アイツ結構人気があって、店の売上にも貢献してくれてたらしーんだけど。少し前から客と金のことで揉めてたみたいでさ。相手が弁護士を介入させるとかなんとか言い出したらこの様だよ」


「………」


「アンタのことだよな?」



先ほどまで髪や耳先を掠めていた甘い煙が頬を撫でる。ナマエは未だ角砂糖を盗み出そうとするピクシーの健気さと馬鹿さ加減をぼんやりと眺めていた。人間の残飯や古くなった衣服を借りて、慎ましく生活をする。でも考えなしなので時々車に轢かれたり沸騰した鍋の中へ落ちて死んでしまったりする。けれどそれで終わり。生きていれば生きるために生きることを頑張るけれど、死んでしまったら生きることが終わる、それだけ。


果たしてそれが幸せなのだろうか。


そもそも、たぶん幸せなんて存在しないとナマエは考える。目の前の男がいわゆる裏稼業の人間で、そんな男に店の裏へ案内されたならば何かしら、この男にとって不都合なことがあるという訳で、この先の返答次第では自分はこの店から出ることができないかもしれない、とナマエは本能的に悟った。


「そのようですね」

「二週間前、青木という男の依頼で受任通知をある闇金業者に送ったな」

「はい」

「一ヶ月前の近藤、三ヶ月前の鈴木も同じように」

「その通りです」


「それ、うちのシノギなんだわ」


「それは知りませんでしたがそんな予感はしていました」


一口飲み込んだレモンティーはこんな時でも美味しく感じられた。シュガーポットから再び角砂糖を盗み出すことに成功したピクシーは懲りることなくまたもやそれをテーブルの上に転がした。四度目。二度あることは三度あるとは言うが、それを上回ると途端に猜疑心がわく。ナマエに向き合って静かな口調でにこやかに話していた男の顔から表情がなくなり、その眼尻がゆるやかに下がった冷たい眼差しで卓上の砂糖を射抜く。
仏の顔も三度までと言うが、ナマエが危惧し、踏みとどまっていた四度目がこうも偶発的な結果で起こってしまえばそれはもう抗いようがない。加えてまんまとヤクザが切り盛りするキャバクラ店のVIPルームとやらに通されてしまったことは、熱々のシチューの中に飛び込む妖精すら笑えない状況であった。とはいえこの目の前の男を仏などと言うことはまかり間違ってもあり得ないのたけれど。


「俺は別にどーでもいんだけど。センセーおもしれーし。けど俺らのブレインがさ、カンカンな訳よ。金を工面して組織してきた自尊心に傷がついたのかね」


「……」

「だからさ、俺はこれからアンタにコンクリートブロックを繋いで東京湾に沈めるか、目玉とか内臓とか金になる臓器をぜんぶ頂いてやっぱり湾に沈めるか、言葉も通じない僻地に売り飛ばして死ぬまで搾取されるか、どうにかしてケジメをつけねーといけねんだけど」


「………」


「センセーどれがいい?」



転がった角砂糖は男のすらりとした指先で摘まれ、そのまま口の中へと運ばれた。あんなに苦労して運んだ貴重な食料はなんの価値もなく、なんの感情も持たずにただ力のある者へと奪われる。男の口の中へと消えた角砂糖に手を伸ばしたピクシーの小さな小さな手は空を切る。その様子を見ていたナマエはそこで初めて自分が何故、この小さく無害な生き物に苛立ちを感じるのかを理解した。



「私、物心ついた頃から妖精が見えるんですが」


「……話逸らそうとしてんならこの話はこれで終わりだけど。あとその格好でその設定はベタすぎてクソつまんねー」

「いえ、そういうつもりではないんですが」

「じゃー今キマってる?それかそういう病気?」


「いえ、そういう訳でもないんですが」


「じゃあ、なに」


「ですから、私は妖精が見えるんですが」

「……」


「子供の頃から嫌いだったんですね。健気で、鈍臭くて、頭が弱くて、見ていて苛々しました。でも今その理由に気づきました。似ていたんですね、自分と」



男は薬でもキメたのか、それとも精神疾患かというような荒唐無稽な話を淡々と口にする目の前の、それもロリータの格好をした弁護士の女から聞かされるという状況に先ほどまで命のやり取りをしていたことなど忘れて心底気持ちの悪いものを見る目を向けた。
そんな男の視線にも、それ以前に生きるか死ぬかの選択を迫られていることすら意に介さぬようにナマエは華奢なティーカップを持ち上げレモンティーを啜った。そうしてお茶請けのクッキーを半分ほど齧ると「美味しいですね」と小さく微笑み残りをテーブルの上へと置いた。



「今更になって失礼ですが、あなたのお名前を伺っても宜しいですか」


「…灰谷蘭」


「蘭さん。私はもう搾取されるだけの人生を終わりにしたいと思います。そこでひとつ、私からあなたに提案があるのですが」



死に方を選べと言われていた女が、その相手へ提案を持ちかける。このトリックのような、奇っ怪な状況に男ーーもとい灰谷蘭は初めこそ自分のペースを乱されることに苛立ちを見せていたが、今は彼の持ち前の面倒臭い状況を楽しんでしまう趣味の悪さが勝ってしまっていた。
そうしてロリータ服を着た、妖精が見えると宣うこの弁護士の女の何か振り切れたような清々しさに次に飛び出す言葉を心待ちにしている自分がいた。



「私をあなたたちの顧問弁護士として雇いませんか。もちろん専属で」


「ブッ、」


「警察に摘発された時もパクられた時も力をお貸ししますよ。金策なんかもできます。潰れかけの宗教法人を乗っ取り窓口にしてその中で闇金や風俗や賭博をするのはどうですか。この国に宗教・思想の自由という言葉がある限り摘発は難しくなりますよ。課税も対象外でこんなにうまい話はありません」


「アッハッハハ!!!!まじで何言ってんのお前アタマおかしすぎるだろ腹いてーー!!」


「私は金銭問題に強い弁護士であると自負していますが、宗教法人は対象外でした。しかし勉強します。如何でしょうか」


「なんでこれから殺られるかもっつー弁護士が自分ヤクザに売り込んでんの。正気の沙汰じゃねーだろ」



二人のどんどんナナメ上の方向へと進んでゆく会話は思わぬ終着点を見せた。蘭は初めて会った時の貼りつけたような胡散臭い笑顔でも、威圧するような優しい無表情でもなく心底意地の悪そうな、悪人を体現したような笑顔をナマエに向けた。ナマエもまた表情は変わらないながらしっかりと蘭に向き合い、そしてその目の奥を見据えた。優しく下がった瞼の奥に隠された冷たい瞳。その瞳がナマエの姿をしっかりと映している内はナマエは生きていられる。
テーブルの上の半分の小さなクッキーはいつの間にかなくなっていた。



「いいよ。じゃ、誠意見せてね」



そうやはり柔和な笑顔を浮かべ嘯く男は、無害だと思っていた妖精が牙を剥くように無邪気に悪魔のような条件を提示するのだった。







古いラジオから軽快な音楽が流れている。70年代のロックシーンを思わせるようなシンプルで無骨なメロディー。
古いアパートの一室の扉の向こうには、平日の昼間だというのに締め切ったカーテンの奥から陽の光が漏れていた。それが出しそびれた生ゴミのビニール袋を照らして異臭を放つ。インスタントラーメンの残飯、脱ぎ散らかした服や靴下。万年床の布団。その上でいびきをかきながら眠る中年の男はナマエがよく見知った人物だった。

ゴミ溜めのような部屋の床を、蘭の良く磨かれた革靴の尖ったつま先が踏みしめる。そうしてビールや酒瓶に紛れて眠る中年男の傍らで控え目に鳴っていたそのラジオのボリュームを上げた。長い指先がつまみを回すと部屋は今にも肩で風を切って町を歩き出すような明るいロックンロールに満たされる。



「身内にヤクザがいても弁護士資格は剥奪されねーけど、殺人はアウトなんだろ?アンタが言ったことだ。一発目はセンセーに任せるよ」



そう言って革のグローブ越しに握ったそれを、上背のある彼の背後に隠れていた女に手渡す。窓から入る光の角度によりチカリと鈍く照らされたそれは、これまた手袋をはめた女の小さな手の中へと収まる。ゴミ溜めの中に揺れる編み込みのリボンや繊細なレースに彩られたロマンチックなピンクのジャンパースカート。丁寧にセットされた髪を飾るのはヘッドドレス。そうしてその手には黒の革のグローブがはめられ、鉄製のゴルフクラブが握られていた。

ナマエはそんな蘭の言葉に促されるようにしてゴミ溜めの中を一歩、また一歩と歩を進める。もう何年も訪れていなかったこの部屋は最後に見たときよりも酷い有様で、その中心で何も知らず健やかに眠る男の顔もまた随分と老け込んでいた。ふくらはぎまでアンクルリボンが巻かれた厚底のパンプスが紙束を踏みつける。不意に目をやるとどうやらそれは借金の督促状のようであった。



「この男、二十代の頃から酒とギャンブル漬けの生活で今では闇金も金を貸さない典型的な多重債務者。長年苦労をかけた妻は約十年前に病死。残された一人娘はこれまた都合のいいことに高給取りの立派なお仕事に就いていますとさ。」




ギターリフに乗せて蘭の言葉が畳み掛けるようにナマエの焦燥を煽った。冷めた表情とは裏腹にナマエは全身が心臓になったかのような動悸を感じ、固く握った手袋の下の手のひらはじっとりと嫌な汗をかいていた。喉はカラカラに涸れ、呼吸がどんどん浅く早くなる。その間に脳裏をよぎるのはこの眼下に情けない寝姿を晒す男と、自分が弁護士になる姿を見ることなく病死した母と、そして過ごした時間だった。しかしそれは思い出すのも辛くこの数十年間のナマエの人生を今まで苦しめてきたものだった。そこにほんの僅かな幸福はあったのかもしれないが、もう思い出すこともかなわない。



「世の中には、残念ながら死んだほうがいい人間ってのはいる。どれだけ真面目に生きても割を食う人間もいる。いつまで搾取される側でいるつもりなんだ?」



そう嘯くこの男が、自分の提案を呑む条件として提示してきたのは、“父親を殺して誠意を見せろ”というものだった。


強張った筋肉がぎしぎしと音を立てるのが伝わってくるようだった。心の動きに反する体に抗うように持ち上げた腕は、ギターソロの最中呼吸が止まったように静止すると、やがて一思いに振り下ろされた。
眼下で骨の奥に響くような鈍い音がする。大音量で流れるロック・ミュージックにかき消されるように中年の男が呻き、そして叫び声を上げるのをどこか他人事のように聞いていた。そうして約束通り初めの一発をやり遂げたナマエの手からゴルフクラブは奪われ、その後は叫び声がやがて呻き声に変わり、蚊の鳴くようなすすり泣きや命乞いの言葉に変わり、しかしそれらも軽快な音楽にかき消されて、否、そうでなくとも二人の耳に届くことはなかった。


どこかで聴いたような懐かしいロック・ミュージックはドラムの音とともに終わりを告げ、蘭がまたその長い指でつまみを今度は反対側に回したならばようやく待ちわびたように部屋に静寂が訪れた。
品の良い仕立てのスーツを着込んだ男と、甘いロリータ服の女のスカートに赤黒い返り血が点在している。それを何と思うこともなく、呆然と立ち尽くす“搾取する側”へとやって来た女に灰谷蘭はやはりあの、優しい悪魔のような笑顔で嘯くのだった。



「じゃ、これから宜しくね、ナマエセンセー」



今まで見ていた辛い現実が、まるで甘い甘い束の間の夢だったようにどっぷりと落ちたまるいドーナツの穴の中は目が眩むほどの生々しい現実だった。でも、それでも、いいや。そうナマエは考える。あのとき見たドーナツの落とし穴の中で死ぬピクシーの気持ちが、ほんの少しわかった気がしたから。



02042022

bgm ドーナツに死す:HiGE


いかこさん改めて相互ありがとうございます!遅くなった上に支離滅裂なお話で申し訳ありません……
頂いたテーマは『人の心のない蘭ちゃん』でした笑



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