人生に必要なものは、そない多くないと思う。うまい飯と、穏やかな眠りを守る屋根と、季節の花の香りを運んでくる風を感じられれば、俺はそれで十分や。

毎日決まった時間に目を覚まして、身支度をして、田んぼの土を作って、苗を植えて、雑草を刈って、収穫する。イレギュラーなことも多々ある。けれどその合間に構成された日常が俺を助けてくれる。目覚ましのアラームは十分前。箪笥の引き出しの作業着は決まって一週間分をストックしてある。靴下は左から履く。水曜日には必ず魚を食べると決めている。


それらの反復と継続は少しずつ自分の体にすり込まれ、蓄積し、やがて明日の自分を構成する。そう思うと心地が良い。自分がしてきたことは何一つ間違いでなかったと思えるから。


濡れ布巾で土鍋の蓋を掴み持ちあげれば、甘い香りの湯気とともに綺麗な白が顔を出す。今月収穫したばかりの新米や。ふっくらと粒が揃った米は艶やかに輝いている。見たところ水分も残ってないし、ええ炊き具合やな、と再び蓋をする。ガスコンロのコックを中火に回して、約十五秒。その後は火を止めて十分ほど蒸らす。


その間にぬかから出してきたばかりの漬物を切る。夏にうちの畑で採れた胡瓜と水茄子。どっちもよお好きやて言うてた奴の顔を思い出してちょっと笑ってしまう。


土鍋で作る御飯は、欲張って量多く炊いてしまうと上手くいかへん。大体二合半。二人で茶碗に一杯ずつ盛って、一人はお代わりして、明日の弁当用に少し残しといて、あとは仏壇の仏さんに供える少しだけ。それだけでええけど、俺の周りにはどうもそれだけじゃ物足りんいっつも腹空かしてる奴らが多いなあと思う。



ミョウジナマエに初めて会った時、なんて表情のない子なんやろと思った。

相手の目の奥の、言葉や態度にならない心理をするりと汲み取ってしまうような不気味さを感じた。そんなナマエが本当はこんな街に来たくなかった、と本音と涙をこぼしたのを見て、ああ、こいつ俺に似とんのか、と思った。


一度俺に弱みを見られたからか、ナマエは案外素直に、思ったより図々しく俺のテリトリーに踏み入って来た。
三つ年上の姉はよく友達の家に遊びに出かけていた。まだ幼稚園にも上がっていない弟は仕事を休職した母親が母屋で面倒を見ていた。弟が泣き、母乳を飲み、そして眠ると俺はよくばあちゃん家に来ていた。天井が低く、代わりにだだっ広く奥行きのある部屋はそこに誰もいないことを余計に感じさせた。



縁側から見える柿の木は俺が生まれた時にじいちゃんが植えてくれたもの。俺が八歳の誕生日を迎えたその年の秋、初めて実ったそれを食べたのを覚えている。ばあちゃんが台所に立って、その腰は少し曲がっていて、けれど包丁でするすると器用にオレンジ色の皮を剥いてゆく。白い大皿に盛られた沢山の果肉。渡されたフォークは二人分。

横を見ると俺以上にワクワクと目を輝かせてフォークを受け取るナマエがいた。どんだけ食い意地張ってんねん、と笑った記憶がある。



蒸らしが終わって再び蓋を開く。甘みを含んでふっくら炊き上がった米を濡らした木杓文字で底から切るように混ぜる。ひっくり返すと少しお焦げができていた。喜ぶ顔を思い浮かべてまたちょっと笑う。



うまいおにぎりを結ぶのんに大事なことは二つ、ちゃんと手を洗うこと、そんで熱々のご飯で握ること、らしい。どっかの繁盛しとるおむすび屋の店主が教えてくれたこと。


それに倣ってちゃんと丁寧に両手を洗ったのち、熱々のご飯を茶碗によそう。水洗いして固く絞ったサラシの布巾に茶碗をひっくり返して、布巾ごと軽く二回握ってザルに転がす。ほんで、手に程よくつけた水で塩を満遍なく広げて、形を軽くまとめる程度に握る。完成。


ザルの上に乗ったおにぎりは御世辞にも綺麗な形とは言えない。全然ちゃんとしてない。けど、昔、ちゃんと三角形に握った俺のおにぎりよりナマエの握った、歪なボールみたいなおにぎりの方が格段にうまかったんに衝撃を受けた。食めば口の中でほどける。優しい甘み、力の抜けた顔で笑うあいつみたいに食う奴を許容してくれる味。



あいつは、その瞳の奥に、誰かの意志の先に、明日や、明後日や、俺たちが想像もつかへんような何億光年先のことを映しているのだろうと、彼女の父親の小説を初めて読んだ時に思った。彼女は俺や自分の周囲の人間に父親の小説を読まれるのをあまり望んでいなかった。けれど、図書館の片隅で何気なく手に取ったその本の中に確実にひとつの宇宙が存在しているのを確信した。


知りたい、と思った。彼女を構成するパーツがこの中に散りばめられていると。けれど答えはわからなかった。彼女の中にどんな感情や思考が渦巻いていて、何を望むのか。それは未だに本人にもわからないことなのかも知れない。
高校へ進学すると彼女のような人間は他にもいるのだな、と思わされた。自分の望むもののためなら何も厭わずある意味誰よりも残酷になれる人間が。


俺が日々こなすことは変わらなかった。早寝、早起き、挨拶、練習、勉強、掃除、片付け。それは明日が地球最後の日だと言われても変わらないだろう。俺は変わらず就寝前に帳簿をつけて、明日の目覚ましを十分前にセットする。




ザルに並んだ二合半分のおにぎりは艶やかに光り輝いている。小鉢に盛られた夏野菜のぬか漬け、雪平鍋には昆布と鰹で出汁を取ったキャベツと油揚げの味噌汁が完成している。温め直すためにコックを捻った。



冷蔵庫には、チラシの裏に鉛筆で書かれたメモ。今日の日時。五年前、この街を出て行った彼女が今日、帰ってくる。
電話越しに聞く声が元気そうであったり、また出会った時のように悲しみを隠していたり、隣にいない体の温度をもどかしく思ったり、雪が降れば、雪だよ、と囁くための早朝の電話だとか、全ての記憶が鉛筆を走らせる脳裏に過った。



明日、もし地球が終わるとしても俺の今日は変わらん。寝て起きて飯食って糞して風呂入ってまた寝るだけや。時間は不可逆や。過去には戻られへんけど今の自分は明日の自分を作る。だから全部ちゃんとやんねん。でも、


結んだおむすび、ちゃんとしてない方が美味しかった。だだっ広い一人の和室で、張り詰めて切れそうな緊張の糸をゆるりと解いてくれるのは、ええよ、信ちゃんが楽しいのが私も嬉しいねん、とあっけらかんと笑うあの笑顔だった。
俺の日常の隙間に、インスタントの味噌汁が入って、ちゃんとしてないおにぎりが入って、炬燵で寝落ちする冬が入って、太陽が眩しくて振り返ったらそこにナマエが笑ってる明日が来るんやったら、ちょっとだけ、地球終わらんといてくれ、って思うかもな。






沸沸と音を立て始めた鍋の火を落とす。と、同時に元気な挨拶と共に玄関の引き戸が開く音がする。味噌汁をお碗によそう俺の元へどたどたと忙しない足音が聞こえて来る。あほ、廊下は走んな。何回言えばわかんねん。しかめっ面で振り返れば太陽みたいな、気の抜けた顔で笑うそいつを見つけて思わず釣られて笑ってしまう。




「ただいま。」


「おかえり。」




人生に必要なものは、そない多くない。うまい飯と、穏やかな眠りを守る屋根と、季節の花の香りを運んでくる風と、ナマエがおるだけで。そんくらいでええ。そうしたもので俺の明日が形成されていくなら、これを幸せと言うのかも知れんな。



27022021

img 太陽のブルース/くるり



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