秘めた決意
背中からベッドに倒れ込むと、視界に無機質な天井が広がった。
片腕を伸ばして手を広げ、ゆっくり握り締める。
硬い拳銃の感覚はまだ残っていた。
双剣以外の武器はまともに扱ったことがなかったけど、使いやすく作られているせいか教え方が上手いのか、すんなり手に馴染んでくれた。
それなのに、倒せなかった。
確かに普通の人間じゃ太刀打ちできない相手だったけど。
こんなんじゃエージェントになんかなれないんじゃないかと言う気持ちが、俺の心を暗くさせる。
きっと兄さんなら、あんな魔物簡単に倒してしまうんだろう。
ふと、皺になったままの袖が目に入る。
「セレナ、か」
図書館で出会って、今度は依頼人として出会った彼女は、列車の中で酷くうなされていた。
疲れていたから、並んで座った時に触れている体温が心地良くて、つい彼女にもたれ掛かって寝てしまって起きたときに少し照れくさかったっけ。
けど、そのうなされてつぶやく声で一気に目が覚めたんだよな。
魔物に追い掛け回されて怖い思いをしたから当然かとも思ったけど。
『力を……使っちゃだめ……』
彼女はうわ言の様でそう繰り返していた。
車窓のガラス越しに見たセレナの顔は苦しげで、起こそうかどうしようか悩んでいたら俺の名前を呼んだんだ。
『ルドガー……』
セレナは俺をさん付けで呼ぶのに、何故かその時は違った。
そして覚えはないはずなのに不思議と懐かしく感じて、今思い出しても何故か胸が苦しくなる。
てっきり俺と魔物に追いかけられている時の夢でも見ているのかと思ったけど、もしかして違うのだろうか。
けどセレナとはまだ出会って間もないはずで、他に心当たりが無い。
「考えても仕方ないか」
答えの出ない問答は止めて、夕食の支度をする為にベッドから降りる。
いくら疲れているとは言え、兄さんの分も用意しないといけないからそろそろ取り掛からないと。
そう思って部屋から出た瞬間、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「兄さん!おかえり、随分早かったんだな」
顔を覗かせた兄さんは、トレードマークとも言える白いコートを掛けると早速ルルを撫でに行く。
「予定していた会議が無くなったんだ。
こういう時くらいは早く帰ろうと思ってな」
兄さんに撫でられたルルが気持ち良さそうに喉を鳴らした。
いつもは帰りが遅いから、ルルも嬉しいんだろう。
「じゃあ今日はトマトソースパスタだな」
俺がエプロンを手にしながらキッチンに立つと、兄さんは返事の代わりに鼻歌を歌い出す。
機嫌が良い時にいつも歌うお決まりの曲だ。
「今日はクエストに行くって言ってたが、どうだったんだ?」
野菜を切り始めてすぐ、ソファで寛いでいる兄さんに聞かれる。
「無事に終わったよ。報酬もちゃんと貰えたし」
「そうか。良かったな」
兄さんは俺が魔物討伐のクエストを受けたいと言ったら初めの内はものすごく反対していた。
危険だからやめろ、の一点張りだ。
けど俺はエージェントになりたい。
兄さんはそのことも知っていて、普段から俺に『エージェントになるには生半可な覚悟じゃ無理だし、実力も必要だ』なんて言う。
だから覚悟も実力もちゃんとあるんだってことを、どうしても知って欲しかったんだ。
「大怪我して帰ってくるんじゃないかと肝を冷やしたよ」
冗談混じりに笑いならそう言う兄さんだったけど、半分は本気なんだろう。
もしかして、早く帰ってきたのはそのせいなのかもしれない。
兄さんが心配するようなことは何も無いよ。
……そう、胸を張って言いたかった。
言えるような仕事をして帰ってくるつもりだった。
けど、見栄を張りたい気持ちはあるのにそうは言えなかった。
実際そう言えるような仕事はできなかったから。
「どうした?ルドガー」
「え?」
手は止まっていないはずだ。
順調に具材は切り上がっているし、鍋の中ではだんだんと湯が沸き始めている。
「何かあったんじゃないか?」
それなのに、兄さんは心配そうに俺の様子を伺っているようだった。
「……なんでもないよ。少し疲れただけだ」
きっと兄さんには、俺が完璧に依頼をこなすことができなかったと言う事はお見通しなんだろう。
けど、やはりお前はエージェントに向いていないと言われるのが分かっているから、どうしても認めることはできなかった。
「……そうか、ならいいんだが。
すまないな、何か買ってくればよかった」
追求されるかと思っていたけどそんなことは無くて、兄さんが困ったように笑っているのが背中越しの声色で分かる。
「いや、料理は苦じゃないから平気だよ」
これは本心。
今日みたいに落ち込むことがあった日も、料理をしていると心が落ち着く。
それに、兄さんはナス以外はなんでも美味い美味いと言って食べてくれるから作り甲斐がある。
「あまり無茶はするなよ」
パスタを湯に落としたところで、兄さんがそう言った。
「……分かってるよ、兄さん」
本当に分かってるのか?とは聞かれなかった。
兄さんはそれから何も言わなくなって、後ろからはテレビの音声だけが聞こえてくる。
多分、兄さんは全部分かってるんだ。
俺がまだ未熟な事も、それでもエージェントの夢を諦めるつもりがないことも。
トマトソースを掻き混ぜる手に、無意識に力が入ってしまう。
クラン社の入社試験まで、もうそんなに期間は無い。
毎日学校に行って、レポートを出して試験に出て……
そうこうしていたら、あっという間にその日は来るだろう。
それまでに、俺はエージェントに相応しい実力をつけられるのか?
焦る気持ちが込み上げてきた時、ふとセレナに話した言葉を思い出した。
『次はもっとちゃんと守ってみせるから』
そんな風に誓ったはずじゃないか。
次は指名してくれるからその時まで特訓しておく、とも。
「兄さん」
「なんだルドガー?」
火を止めて、振り返らずに兄さんを呼ぶ。
「俺、絶対にエージェントになるから」
そのままの姿勢でそう続ける俺に、兄さんは何も言わなかった。
今はまだ、認められなくても良い。
けど、俺はもっと強くなりたいんだ。
もう兄さんに守られているだけの子供じゃない。
その時どうしてか、ありがとうございますと微笑んだセレナの顔が浮かんできた。
きっと俺は、守った人のあんな顔が見たいからエージェントになりたいのかも知れない。
今まではそんな経験無かったから気付かなかったけど。
それをセレナが気付かせてくれた。
またあんな風に笑った顔を見たいと思う。
不思議とどこか懐かしいような、あの笑顔を。
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