poco a poco
オリジンの審判が終わり、全ての分史世界が消失した。
その役目を担っていたクランスピア社は、社長交代という大きな節目を迎えることとなった。
渦中の人、新社長に任命された元副社長のルドガーには、正式な就任を目前にして秘書のヴェルから一つ言い渡されたことがあった。
『これから貴方は我が社の顔となるのですから、一通り身だしなみを整える様お願いします。』
きちんとネクタイを締めるのも好きではないルドガーだったが、これは致し方がないことだ。
だが今までスーツなどを自分で買いに行ったことも無かった為に、なまえに見立てを頼んだのだった。
「副社長就任の時に用意してもらったスーツ一式はあるんだけど、それじゃ足りないから…」
「うん。ヴェルさんから必要なものは聞いてるから、デパートに行こっか。」
流石にヴェルは有能な秘書だけあり、事前になまえ宛に買い物リストを送ってくれていた。
なまえはそれを一つ一つ確認しながら、傍らで申し訳なさそうに頬を掻くルドガーに微笑みかけた。
「ほんとに私が見立てて良いの?」
「なまえにしか頼めないよ。
頼りにしてるからな、お嬢様。」
「男物ってよく分からないんだけどね、ルドガーとお父様だと体型もタイプも違うし…
けどルドガーなら何でも似合うよ!」
そんな会話を交わしながら二人は歩き出す。
ルドガーが、傍目から見てもごく自然になまえの手を取った。
「わっ!」
しかしなまえが小さく声を上げる。
ルドガーが何事かと見れば、なまえは僅かに頬が赤くなっていた。
しかも棒立ちになりルドガーが握った手は硬直している。
「手、繋いだらダメだったか?」
「そ、そんなことないよ!
ちょっと心の準備が出来てなかっただけだから…ごめん。」
ルドガーが困ったようになまえの顔を覗き込むと、なまえはぶんぶんと音がするくらい激しく首を横に振った。
それから一呼吸置いて照れたようにはにかむと、ゆっくりとルドガーの手を握り返した。
「じゃ、行こうか。」
つい先程まではなまえの方が先導する勢いだったのだが、あっという間にルドガーの方がなまえを連れて行くような雰囲気となる。
(今日一日心臓が持ちますように…)
なまえは人知れず、心の中でそう呟いた。
「こっちのターコイズも良いけど、このチェックのも良いな。」
両手からネクタイを下げ、なまえは真剣な面持ちで見比べている。
そこへ女の店員がやってきて声をかけた。
「お連れ様がお呼びでございますよ。」
なまえが振り向くと、ダークグレーのスーツを着たルドガーが試着室から手招きしていた。
「どうかな?」
「良いんじゃないかな!似合ってるよ。」
両手を開いてみせるルドガーに、なまえが笑顔で答える。
そこへ店員がやってきて、同じ様に笑顔でルドガーを見た。
「とてもよくお似合いですよ。ネクタイも合わせられますか?」
「あ、そうだね。これはどうかな?」
店員の言葉に、なまえが手に持っていたネクタイをルドガーの胸元に当てる。
「うーん、やっぱりあっちのストライプの方がいいかも。」
そう言ってネクタイ売り場に戻ったなまえは、すぐに何本か別の物を持って来た。
「これがいいね。あとこれもいいんじゃないかな?」
「可愛らしい彼女さんですね。」
真剣に代わる代わるネクタイを当てるなまえの姿に、店員が何気なくルドガーに笑いかける。
「かっ、かの…じょ!」
ルドガーも当然だと言った表情で店員に微笑み返したが、その横でまたしても硬直するなまえ。
店員はまさか失礼なことを言ってしまったのかと思い、慌てて頭を下げようとする。
しかしそれを苦笑いのルドガーが制した。
「なまえ、お店の人が困ってるよ。
合ってるんだから良いじゃないか。」
「そ、そうだよね…ごめんなさい。慣れてなくって。」
なまえが申し訳なさそうに眉を下げて言うと、頭を上げた店員は安堵からか再び柔らかい表情に戻った。
「お似合いのお二人でいらっしゃいますね。」
その言葉に気を良くしたルドガーは、ヴェルから言われていた以上の本数のネクタイを買い込んだのだった。
「ふぅ、これで買い物は完了だな。」
デパートから出て、ルドガーが大きく頷いた。
全て自宅宛に配送手続きを終え、本日の任務は終了である。
「なんか食べていかないか?カフェにでも入ろうぜ。」
「良いね!行こう行こう。」
せっかくの外出なので、その提案にはなまえも喜んで同意する。
たくさん買い物をしたので少し休みたいのもあった。
二人は近くのカフェに入り、ショーウィンドウの中に並べられたケーキを眺める。
「どれにしようか迷うね。」
「そうだな、どれも美味しそうだ。」
そう話しながら、自然と二人の顔が近づく。
「あのモンブラン、も…」
顔を横に向けたなまえの目の前には、前髪が当たるくらいの距離にルドガーの横顔。
(わ、ルドガーだ!)
さっきから二人でいた筈なのになまえはとっさにそんな台詞を思い浮かべる。
顔が熱くなるのを感じ、つい視線を泳がせた。
一日一緒に居ても、どうもこの距離にはまだ慣れないらしい。
それに比べてルドガーの方は特に舞い上がっているようにも見えず、なまえは彼の余裕ぶりに感心した。
先日ようやく恋人同士になった二人だったが、その日もなまえの慌てぶりはなかなかのものだった。
思わずルドガーがからかいたくなるくらい、彼の一挙一動になまえはたじろいでいたのだから。
席に着き、注文されたケーキと飲み物が運ばれてくる。
「ルドガーの作ってくれるのほどじゃないけど、美味しいね!」
「あはは。ありがとう。」
なまえは数口食べてからそう言う。
ルドガーは楽しそうに笑って、同じ様にケーキを口に運ぶ。
「俺のも美味しいよ。このスポンジは俺には作れないな。」
「そうなの?さすがプロだね!」
なまえがルドガーの目の前の皿に視線を移す。
ナップルがふんだんに使われたそのケーキは、この店のイチ押し商品らしい。
ツヤツヤときらめくナップルの果実がなまえの目に映る。
「食べるか?」
「いいの?」
ルドガーの提案になまえが顔を上げると、彼は微笑みながらフォークでケーキを一口すくった。
「はい、口開けて。」
「えっ!?」
なまえの目の前に差し出されたケーキ。
しかしそれが乗ったフォークはルドガーの手に握られていた。
なまえは一瞬にして心臓が飛び出しそうになる。
(ルドガーのフォークだし、これってあの有名な"あーん"って言うやつだよね!?)
なまえの思考は、この手のことに関してはどうも大袈裟な傾向にあるようだ。
「じ、自分で食べられるよ…?」
「いいから。」
「ルドガー、過保護!」
「早くしないと落ちちゃうぞ。」
ずいと差し出されたケーキと楽しそうな笑顔のルドガーを見比べてから、なまえは両目をきつく瞑って口を開けた。
「はい、あーん。」
その声にまたしても顔が赤くなるのを感じながら、なまえは口を閉じた。
甘いシロップと仄かな酸味のあるナップルが、ルドガーも絶賛するスポンジと合わさって口の中に広がっていく。
その美味しさに一瞬にして気恥ずかしさが消えたなまえだったが、目を開けると未だにニコニコと笑いながらテーブルに肘をついて自分を見つめているルドガーが目の前にいた。
「こういうのいいな、恋人っぽくて。」
「私は心臓が持たないよ…」
「あはは。少しずつ慣れてくれるんだろ?」
「少しずつだよ?…少しずつ。」
なまえはそう言って口を尖らせながらも、終いには二人して笑い合う。
帰り道、宣言通り少しだけ慣れたらしいなまえは、ルドガーが手を繋いでももう動揺しなかった。
「今日はありがとう。おかげで目的も果たせたし楽しかったよ。」
「どういたしまして。それに私も楽しかった。」
エルへのおみやげのケーキの箱を片手に、なまえはルドガーを見上げる。
「でもかなりドキドキしちゃった。」
照れ笑いのなまえがそう告白すると、ルドガーは握っていた手を緩く解いてから、指を絡めて繋ぎ直した。
「わっ…!」
またしても驚くなまえに、してやったりと意地悪な笑みを浮かべるルドガー。
「知ってた。
だって俺、なまえをドキドキさせようと思ってやってたんだからな。」
それを聞いて固まるなまえ。
「そうなの!?」
「だってせっかくのデートなんだから、ドキドキして欲しいだろ?」
「ルドガー、意地悪じゃない…?」
今日の出来事を思い返しながら、なまえは恨めしそうにルドガーを見た。
しかしルドガーは気に留めない様子で歩き続ける。
「俺だってドキドキしてるんだよ。
けどバレないように頑張った。」
「ルドガーも?」
なまえがきょとんと首を傾げると、絡めた指に力が籠められた。
「好きな子と初デートで緊張しない奴なんていないだろ?
でも慌ててるなまえが可愛くて、俺以上にドキドキさせたかったから。」
「そうだったんだ。私だけじゃなくてルドガーも…」
「お気に召していただけましたか、お嬢様?」
立ち止まり、なまえの顔を覗き込むルドガー。
なまえは、返事をする代わりにゆっくりと自分の指をルドガーの指に絡ませた。
これには不意をつかれたルドガーが驚く。
なまえ自身も、結局真っ赤になってしまったのだが。
「けどこのままじゃ私、早死するかも…」
「ダメだなまえ!でもドキドキはさせたい…
くそ、俺はどうすればいいんだ!?」
久々に、ルドガーの頭の中に2つの選択肢が浮かび上がる。
世界の命運を賭け様々な選択肢を選んできた彼にも、これはなかなか選べそうもないのであった。
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「夢主だけがお付き合いに慣れていない状態での甘いお話」のリクエストで書かせていただきました。
ドキドキさせるに当たり、ルドガーがアルヴィンあたりに相談してたらいいなーと思いつつ、それだとこんなものではすまなそうですね。
ヴェルも恋愛ごとにだけは疎そうだし…
麻衣様、リクエストありがとうございました!