俺の戦いはこれからだ
ルドガー・ウィル・クルスニクの朝は早い。
「兄さん、弁当はテーブルに置いたから!
じゃ、いってきます!」
「おー、いってこい…気をつけてなー…」
「ナア〜!」
兄の寝室から帰ってくる寝惚けた声を背に受けながら愛猫に見送られ、今日も彼は軽かやにマンションフレールの廊下を駆ける。
エレベーターの中でじっとしていられないくらい、ここ最近のルドガーは朝から浮き足立っていた。
通勤通学時間にはまだ早いこの時間は、通りにも人はまばらだ。
皆が早足でうつむき加減に行き交う中、意気揚揚と顔を上げて歩いているのはルドガーだけのようだ。
彼はチャージブル大通りを抜け、高級住宅街へと向かった。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出る。
そこは小さな公園になっており、よく手入れされた生け垣では花が開き始めていた。
ルドガーは、ベンチに腰掛けるとGHSを開く。
時間を確認してから、自然な装いで家計簿アプリを立ち上げた。
あくまで、自然な装いで。
視界の端には、道の向こう側から一人の少女がこちらに向かってくるのが見える。
ルドガーの胸は大きく弾んだが、彼はあくまで家計簿アプリに夢中になっている様子を装っていた。
「あー、今月もトマト買いすぎたなー。
ほんと買いすぎたなー、でも美味しいしなートマト。」
「あれ?ルドガー?」
大袈裟なようにも見えるルドガーの感嘆の声で、少女は彼の存在に気づいたらしい。
彼女は通りから公園に進路を変え、ルドガーの前までやってきた。
「おはよう、今朝はこんなところで会ったね。」
ルドガーは驚いた…振りをして、GHSをしまう。
「なまえ!?お、おはよう!
今日はこんなところで会ったな!偶然!」
「ほんとだねー。
昨日は大通りに出るところの角で会ったよね。」
「そうだったな。あれも偶然だったけど!」
「昨日はバク転の練習してたよね。今日は何してたの?
大きな声で、トマトがどうとか言ってたけど…何か大変なことでもあった?」
なまえが心配そうに首を傾げる。
ルドガーは思った。
これが天使か、と。
「いや、うちの兄さんがトマト好きすぎて食費の6割がトマト代だなーって思ってただけだよ。」
「そうなんだ、ユリウスさんってそんなにトマト好きなんだね。」
何も知らないなまえは、ただただ面白そうに笑う。
「ああ、だからうちではしょっちゅうトマト料理を作るんだ。」
「ルドガーのトマト料理なら毎日食べても飽きないかもね!」
ルドガーは、トリグラフでも有数の料理人である。
彼はまだ新米ではあるが、クランスピア社でも人気の高いクッキングエージェントなのだ。
その家庭的でありつつ本格的な味付けと豊富な野菜料理のバリエーションは、特に主婦層に絶大な人気を誇っているらしい。
「良かったら食べに来ないか?」
「え、いいの?」
「勿論!なまえに食べてもらって感想を聞かせてもらいたいし。」
「私の感想?」
またしてもなまえは首を傾げる。
ルドガーは大きく頷き、力強く語り始めた。
「新しいレシピをたくさん考案したんだ。
なまえが気に入ってくれたレシピなら社長に提案しやすいだろ?
きっと親子だから味の好みも似てると思って。」
なまえはクランスピア社の社長、ビズリーの娘である。
「ルドガーって仕事熱心なんだね!私が役に立てるなら…」
「立てる立てる!立てるどころの話じゃないよ!」
なまえが感心してそう言うと、ルドガーは食い気味に答える。
「そうと決まったら日にちを決めよう!
いつが暇?俺はいつでも!別に無職な訳じゃないけどなまえの為ならいつでも時間あけるよ!」
興奮気味にまくしたてるルドガーの様子を気にも留めず、なまえはGHSでスケジュールを確認し始める。
「俺は今日でもいいよ?なんなら今からすぐにでも!」
「うーん、今日はこれから学校だから…」
「そうだった!それなら放課後とかどう?」
「何がだね?」
「何がって、俺の家で二人っきりで俺の作った料理を食べて…」
「それから?」
「それから、二人っきりで…って社長!?」
気づけば、ルドガーの背後を頭2つ分ほど大きな人影が覆っていた。
その影の主は、まさしくなまえの父親であるビズリーその人。
彼はルドガーの雇用主でもある。
「ルドガー。今、二人っきりとか言ったかね?」
ルドガーは思った。
俺はここで死ぬかもしれない、と。
相変わらず、その隣ではなまえがニコニコと笑っている。
「お父様、どうしたんですか?こんなところで。」
「今朝は健康の為に少し遠回りな道を使って通勤しようと思ってな。」
ビズリーは娘を見下ろし、他者には見せることのない柔らかい表情を浮かべる。
ルドガーは一命を取り留めた。
「そうだったんですね。
お父様ももう若くないんだから、健康に気を使うのは良いことですね。」
「そうだろう?もっと褒めてくれ。」
ルドガーは思った。
アンタほど健康で頑丈な人間はいないだろう、と。
ルドガーの視線を無視し、ビズリーはなまえの背中を弱くではあったが押しながら歩き始める。
「さあ、お前も早くしないと遅刻するぞ?
全く、こんなところで油を売って…何の為にいつも早く出ているんだ。」
「もうお父様ったら。
お父様が、『通学中に変な輩に会わないために早く出なさい』って言ったの忘れたんですか?」
段々と、親子は自分たちだけの世界に入りつつあるようだった。
「お前が護衛などという仰々しいものはつけたくないと言ったからだろう。」
「だって、友達が怖がるんですよ?」
「分かった分かった…仕方ないやつめ。では途中まで私が送ろう。」
「本当ですか?お父様とお話しながら学校に行けるなんて嬉しい!」
「さあ、行くぞ。」
そうして、自社やライバル企業の重役などが見たら唖然とすること必至な、ビズリー親子の和やかなやりとりは少しずつ見えなくなっていった。
後に残されたルドガーは、まるで嵐が去った後のように呆然と立ち尽くしている。
しかしルドガーは諦めない。
昨日はなまえに会えて高揚しすぎた結果、バク転に失敗して背中を強打し誘うどころではなかった。
一昨日は、なまえに話しかけようとした瞬間他部門の先輩エージェントであるリドウに絡まれてしまった。
それに比べれば今朝はかなり進展したと言っても良いだろう。
明日また頑張ろう。
そう気を取り直し、ルドガーはひとまず仕事に向かうことにしたのであった。
しかし、そんなルドガーに大チャンスが訪れる。
夕方、なんと帰り道らしいなまえにばったり会ったのだ。
ルドガーは初め、幻かと思い頬をつねった位だ。
しかし痛いだけで、目の前にいる彼の想い人は変わらずニコニコしていた。
「そう言えばルドガー、朝はごめんね。
お父様ったらいつまでも私を子供扱いするんだから。」
なまえは不服そうにそう言いながらも、どこか嬉しそうに笑う。
「それで朝してた約束の話なんだけど。
私も放課後なら時間取れるから、ルドガーの都合がいい日合ったら教えて?」
「えっ!?約束してくれるのか!?」
ルドガーは突然の邂逅にそこまで頭が付いて行っていなかったので、なまえからの申し出には心底驚いた。
「えっと、迷惑だった?実はルドガーの新レシピ、結構楽しみにしてたんだけど…」
ルドガーは再び頬をつねる。
「いてててて!!!」
しかし相変わらず痛みが広がるだけだった。
と言うことはこれは現実なのだ。
途端にルドガーの目には、みるみる活力が湧いてくる。
「今夜はどうだ?善は急げって言うし、俺はなまえの為ならいつでも大丈夫だから!
けど、さすがに突然で困るか?なまえのタイミングでいいからな!?あんまりしつこくすると困るよな?
ほんといつでもいいし、明日でもいいし、俺なまえの為ならいつまででも待てるし!」
「今夜で大丈夫だよ。」
「ほぉっ!?」
意外にもあっさり帰ってきた返答に、ルドガーの声は裏返った。
「お父様は仕事で遅いみたいだし、特に予定もないから。」
「そ、そうか!じゃあこれから俺の家に行こうか!」
「ありがとう!じゃあお邪魔するね。」
ルドガーは最後にもう一度、渾身の力を込めて頬をつねった。
痛かった。
しかし頬を赤くしたまま、彼は心の中でガッツポーズを決めていた。
「ごちそうさまでした!すっごい美味しかったよ!」
空になった皿を前にして、なまえが両手を合わせた。
ルドガーの新レシピは、下心があろうが関係なく、いつも通りの彼の味だった。
なまえはそれを美味しいと連呼しながら食べ終え、幸せそうに微笑む。
「夕ご飯を誰かと一緒に食べられるのも嬉しいし、それがこんなに美味しいなんてほんとに嬉しいな。」
「なまえは家では社長がいないと一人で食べるって言ってたもんな。」
皿を下げて、ルドガーはなまえの向かいの席に戻った。
「うん。だから私ばっかり話しちゃってごめんね?」
「いや、俺も楽しかったよ。」
正直ルドガーは、食事中緊張しすぎてほぼ喋ることができなかったのだ。
「ありがとう、ルドガーって優しいんだね。」
そう言ってまた幸せそうに笑うなまえ。
その笑顔にルドガーの胸は高鳴り、彼は生唾を飲み込んだ。
「なまえ!」
「なに?ルドガー。」
ルドガーはじっとなまえを見つめる。
それを不思議そうに、なまえが見つめ返す。
ルドガーはテーブルの下で固く拳を握りしめた。
「俺は、なまえのことが!」
一つ、深呼吸をして。
「す…」
「なまえ、来てたなら早く言ってくれ!ただいま!!」
「ユリウスさん!」
「…きだ…っ!?」
ドアが開き、勢いよく入ってきたのはユリウスだ。
なんとも爽やかな、満面の笑みを浮かべている。
「久しぶり、ユリウスさん!」
なまえは立ち上がり、ぱたぱたと駆けてユリウスの元に向かう。
ユリウスもそんななまえに向け両手を広げ、まるで子供をあやすかのようになまえを持ち上げくるりと一回りした。
「もう、ユリウスさんも私を子供扱いするんだから!」
「はは、なまえはまだ子供じゃないか。」
「違いますー!もうすぐ卒業です!」
「やっぱりまだまだ子供だな!いいんだぞ、お兄ちゃんにもっと甘えても。」
「もう、からかうのやめてよー!」
なまえはユリウスに懐いており、ユリウスもなまえをまるで妹のように可愛がっている。
そんな二人のやり取りを見つつ、またしても水を差されたルドガーは、呆然と椅子に座っていた。
「ごめん、ルドガー何か言いかけた?」
ふと、思い出したようになまえが振り返る。
「なんでもないよ…」
「そう?なんかすごい疲れてるみたいだけど、やっぱり仕事帰りのところにお邪魔しちゃってごめんね。」
本気で心配そうななまえに毒気のぬかれたルドガーは、空元気ではあるものの笑ってみせた。
「俺は大丈夫だよ。」
「そっか、それなら良いんだけど。
…あ、もうこんな時間!そろそろ帰らなくちゃ!」
なまえのポケットの中で、GHSのアラームが鳴った。
「もう帰るのか?残念だな。」
「あっという間だったな。送ってくよ。」
ユリウスもルドガーも、名残惜しそうに言う。
「お父様が迎えに来てくれるみたい。
ルドガーの家に寄るって伝えたら、メールが着てて。」
「そ、そうか…それなら安心だな。」
ルドガーの、本日最後の望みが絶たれた瞬間だった。
「気をつけて帰れよ。今度は俺が休みの日に遊びに来るんだぞ?」
「そうだね、ユリウスさんとも久しぶりに遊びたいな。」
「可愛いことを言ってくれるじゃないか。
よし!好きなものなんでも買ってやるぞ!」
ルドガーは思った。
こんな兄さんは嫌だ、と。
「下まで送ってやったらどうだ?ルドガー。」
ユリウスが突如ルドガーに向き直ってそう言う。
しかしその後に、ルドガーにだけ聞こえるようこう付け加えた。
「まだ、それ以上は駄目だからな?」
この際"まだ"という言葉があっただけマシだと思うことにして、ルドガーはなまえを外へ促す。
この時の兄の目は本気だったと、ルドガーは後に思い返すのだった。
「今日はほんとにありがとうね、ルドガー。」
エレベーターの中で、なまえが笑顔で言った。
「いや、なんかバタバタしちゃって悪かったな。
俺の方こそ来てくれてありがとう。」
ルドガーも、頭の後ろを掻きながら笑った。
「そうだ!」
エレベーターから降りたところで、なまえがGHSを取り出す。
「ルドガーと、アドレス交換してなかったよね?」
「交換してくれるのか!?」
毎回ビズリーやユリウスやリドウにまで邪魔され、実はルドガーはなまえの連絡先を知らなかったのだ。
「うん、すっかり忘れてたよ。」
そう言って、なまえはルドガーのGHSに向けてアドレスを送る。
「なんか悩んでるみたいだし、良かったら私に話せることならメールとかしてね!」
屈託のないその笑顔に、無くなりかけていたルドガーの自信が蘇ってきた。
「その事なんだけどさ。」
「ん?」
「俺、なまえのことが…」
「何だね?」
「す…って、社長!?」
「なんだ、今度は早かったな。さすが我が社のエージェントだ。」
そこには、重厚な威圧感を放つビズリーが仁王立ちしていた。
「お父様!」
「その様子なら、ユリウスは無事間に合ったようだな。ルドガー?」
ビズリーの指すような視線に、ルドガーは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
犯人はお前か、と思いながら。
「お父様、ユリウスさんがどうしたの?」
「いや、こちらの話だ。娘が世話になったなルドガー。
さあ、帰るぞなまえ。」
そう言って娘を伴い去っていくビズリーの背中を、無言で見送るルドガー。
そんな彼に、なまえが笑顔で手を振る。
「ルドガー!おやすみなさい!」
それだけなのに、ルドガーの胸は幸福感で一杯になる。
彼は諦めない。
明日もまた、ルドガー・ウィル・クルスニクの朝は早いのだ。
----------------------------
HAR様のリクエストで、夢主はビズリーの娘、ルドガーが猛アタックをするもビズリーや夢主を妹のように思っているユリウスに妨害されるお話を書かせていたたきました!
ユリウスはビズリーに聞いて阻止はしに来たものの、いつかは背中を押すつもりなのかも???
そしてビズリー、過保護というかなんというかキャラがブレブレですごめんなさい。絶拳されそうですね。
HAR様、リクエストありがとうございました!