ーーいっしょにカナンの地へ行きます!
そう言って指切りを交わした、あの温もりはとうに忘れてしまった。
けれどあの声は、今も時折夢の中で私を苦しめる。
"俺"が殺した、大切だったはずの存在。
たった一人の、菫色の目をした少女。
傍らで眠る愛娘の、亜麻色の髪を撫でる。
くすぐったそうに身じろぎするものの、幸せそうな笑みを浮かべて私の膝に頬を寄せた。
手に馴染んだ、ポニー革の黒い手袋をそっとはずす。
ーーああ、また少し進んだか。
この間、どこぞの世界からかやってきたエージェント達と戦ったせいか。
大した力を使うこともなく退けられたから、少しの進行で済んだようだが。
どうせあいつらも分史世界の人間なのだろう。
しかしそんなことに気付きもせず、"最後の道標"を求めて来たに違いない。
あれからもう、9年も経った。
冷たい雨に打たれながら、干上がった湖畔で膝をついたあの日から。
憎しみと悲しみで揺らいだ菫色が、脳裏に焼き付いたまま離れない。
エルの髪を撫でる手とは反対の、素肌を曝け出した方の手を伸ばし、写真立ての並ぶ棚に置かれた木箱に触れた。
蓋を開け取り出したそれは、9年前と同じ鈍い輝きを放っていた。
「10歳も、離れたのか」
あの頃は、1つしか違わなかったのに。
君の時間は9年前に止まってしまって、"俺"だけが歳を重ねてきた。
気付けば来年で30を迎える俺と、19歳のままの君。
片手で包み込んだ壊れた懐中時計。
窓辺に置かれていたせいか、手袋をしていない手には少し冷たい。
そっと持ち上げて、目の高さに掲げてみる。
ピンクゴールドのひしゃげた蓋に、仮面の男の顔が歪んで映っていた。
ーーユリウスさんのことが好きになっちゃったの。
そう言い放って顔を背けた、かつて愛した人の姿が過る。
彼女は、あれは嘘だったと言った。
そしてそれが、彼女と交わした最後の言葉だった。
ふと窓の外から静かな雨音が聞こえ始め、外の景色に目をやる。
枯れた荒野に叩きつける激しく冷たい雨ではなく、緑豊かな大地に降り注ぐ優しい慈しみの雨。
君に見せることの叶わなかった、そんな風景だ。
「どうして、俺だけこうして生きているんだろうな」
かけがえなのない相棒を喪い、共に戦い抜いた友を喪い、たった一人の兄を喪い、支えてくれた妻を喪った。
その過程で、心から愛した、愛してくれた人を喪った。
ボロ…ルルでさえも、今はもういない。
ここにいるのは俺と、全てを喪って手に入れた、何も知らない愛する娘だけ。
だがそれが、俺の生きる、俺を生かす理由。
そうだ、俺には生きねばならない理由がある。
もう二度と、大切な存在を失わない為に。
そして、再び大切な存在に巡り合う為に。
握り締めた時計に唇を寄せる。
「もうすぐ会えるよ」
軽くキスをすれば、照れたように笑うお前の顔が浮かんだ。
お前が残してくれた技術は、今ではこの仮面に施した術式の基礎になっている。
時歪の因子を探知する技術を逆利用して、その気配を遮断することに成功したんだ。
だから、きっと今度は上手く行く。
お前が側にいてくれるから。
その日の為だけに、この9年間生きてきたんだ。
「うぅん…パパ…」
未だに幸せそうに眠る愛娘を撫でながら、やがて来るその日に思いを馳せる。
約束したんだ。
必ず、カナンの地へ行くと。
そして俺は願いを叶える。
兄さんは言った。
大切ならどちらの手も離すな、と。
だから願いを叶えて、そしたら今度こそ離すものか。
「伝えられなかった言葉を、今度こそ伝えるよ」
待っていてくれ。
もうすぐこの子が世界を繋いでくれる。
例え、運命を捻じ曲げてでも。
…必ず手に入れてみせる。
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暗くならないわけがなかった…!
一度は書きたいと思っていたヴィクトル分史のその後のお話。
お題は今回もタイトル通りです。
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