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「よし、できた」

最後にエンターキーを押して、画面に入力された文章を確認する。
誤字脱字が無いことを確認すると、セレナは”保存”ボタンを押して、ノートパソコンを閉じた。

ここはクランスピア社兵装開発部門のオフィス。
普段セレナが業務を行っている部署である。

今朝は早くから出勤しており、分史世界で行なった初の”試作品実地テスト”の報告文書を作っていた。
報告書には概ね予想通りの結果が得られたことと、もう数件テストと調整が必要なことを簡潔にまとめた。

「課長、報告書をメールしました。分史対策室に現物を提出しに行ってきます」
「ああ、例のやつか。良い結果が得られたみたいで良かったな」
「ありがとうございます」

セレナが発案・開発中の時歪の因子発見レーダー、通称”タルボシュの月”は、クラン社内でも機密情報にあたる”分史世界”で使用するためのものである。

なので、このことは一般部門である兵装開発部門の中では限られた、分史対策室と関わりのある業務を行う社員だけが知っている。

セレナは分史対策室へ赴きもう何件かの分史世界破壊任務に同行させてもらえるよう頼むため、課長の許可を得るとノートパソコンを小脇に抱えてオフィスを後にした。

(またルドガー達と任務に行きたいなあ)

エレベーターに乗り込みながら、昨晩わざわざ家まで送ってくれた優しい青年のことを思い出す。
巻き込まれる形で分史対策エージェントとなり、突然重すぎる責任を負ってしまったルドガー。
それなのに、仲間達を気遣いながら戦闘でも前に立つ彼のなんと強いことだろうか。

まだ一度任務に同行しただけであったが、セレナはルドガーなら信頼できるし力になりたいと、そう感じていた。


Chapter8 歌声は海瀑に谺す


エレベーターが30階に到着したことを知らせ、扉が開いた。
セレナはルドガー達一行の顔を一人一人思い浮かべると、これからも良い付き合いをしたいと思いながら自然と頬を緩ませる。

その時だった。

「捕まえろ!」
「どけ!!」

背後からドアを突き破る音と銃声、そして怒鳴り声が響き渡る。
突然の事に何が起こったのかとセレナが振り向こうとした瞬間、何者かに後ろから引っ張られ体勢を崩してしまった。

足元にノートパソコンが落ちる音がする。
しかし下を向いて確認することができない。
セレナは後ろから腕を回され、顔の横に見覚えある双剣を突きつけられていた。

「動かないでくれ」

緊迫したその声は、聞き覚えのあるもので。

「ユリ、ウス……さん?」

セレナに刃を突き付けているのは、囚われている筈だったユリウスだった。
ユリウスは、セレナの問いに何も答えず押し黙っている。

そこへ、数人のエージェントを伴ったリドウがナイフを構えたまま近付いてきた。

「それ以上近付くな」

ユリウスが低い声でリドウを威嚇する。
リドウはこの上なく不快だといった表情で舌打ちした。

「個人的には人質よりお前を取っ捕まえる方を優先したいんだけどよ」

セレナはしばらく呆然としていたが、自分の置かれた状況を今更把握して顔を青くする。
リドウはセレナには目もくれず、ユリウスを睨みつけている。

「さすがにお嬢様を見殺しにしちゃ、俺は今すぐにでも”橋”にされちまうかな?」

しかし悪態を尽きながらもリドウは少しずつユリウスとセレナの方へ近付いてくる。
周りにいたエージェント達も、戸惑いながらもリドウに倣った。

「まあ最悪、事故だったってことにすりゃいいか」

その言葉にセレナはサッと血の気が引くのが分かった。
自分は今人質にされているが、リドウはユリウスの捕縛を優先しそうである。
それは、最悪自分は見殺しにされてしまうということを意味する。

「……君を巻き込んですまない」

ユリウスはセレナを半ば引きずるようにしながら、少しずつ窓の方へと後ずさった。
セレナが力の抜けそうになる足をなんとか奮い立たせていると、ユリウスが小さい声で呟いた。

「ユリウスさん……?」
「分史世界の”キジル海瀑”で待つ」

セレナが震える声で問いかけると、ユリウスは耳元でさらに小さな声で呟いた。

「え……?」

セレナがどういう意味かと尋ねようとした瞬間、ユリウスがセレナを突き飛ばした。
セレナの身体は数メートル飛ばされたが、ユリウスににじり寄っていたエージェントの1人が抱きとめてくれた。

「逃がすか!」

すかさずリドウがユリウスに飛びかかるが、ユリウスは地を蹴ったかと思うとリドウの顔面を踏みつけて倒し、そのまま後ろへ大きく跳んだ。

ガシャァァァン!!!

ガラスの割れるけたたましい音が響く。
ユリウスは骸殻化し、背中から窓ガラスに突っ込んだのだった。
そして彼はそのまま階下へと飛び出して行った。

「30階だぞ!?」
「空間転移だ!」
「セレナ様、怪我はありませんか!?」
「社長に連絡を!」
「リ、リドウ室長!」

弾かれたようにエージェント達が騒ぎ出した。
しかし皆ここに至るまでに既にユリウスと一戦交えていたようで、これ以上追跡できそうな者はいなかった。

リドウはと言えば、今だ顔面を手で覆いながらその場にしゃがみこんで居た。
しかし肩は怒りで震えており、思い切り床を殴って叫んだ。

「道標まで持って行かれた!!クソッタレが!!」

セレナは突然起こった出来事に、傍らで支えてくれているエージェントの声も耳に入らず、ただユリウスの言葉を頭の中で反芻しているだけだった。


ルドガーにユリウス逃亡の連絡が入ったのは、セレナが人質になった逃亡劇から数時間後のことだった。

ヴェルの声がいつもより少し緊迫しているのを感じたルドガーだったが、兄がセレナを盾にして逃亡したという言葉に、昨日家まで送っていった彼女のことを思い出していた。

ひとまずセレナは無事である旨を聞けば安心できたが、兄の逃亡といいカナンの道標の喪失といい問題は山積みだ。

ヴェルから指定されたイラート海停へ向かうことにしたルドガーのGHSが、新たな着信を告げる。
画面を見れば、つい先ほどヴェルとの話題にのぼったセレナからのものだった。

横で見ていたエルが何事かと首を傾げる程度に、ルドガーは焦って通話ボタンを押す。

「もしもし、ルドガー?」
「セレナか!本当に無事か!?」
「えっ?……あ、聞いたんだ。そうだよね……うん、私は大丈夫だよ。
怪我とかしなかったし」

本人からのその言葉に、ルドガーはほっと胸を撫で下ろした。

「それならユリウスさんのことも、聞いてるよね?」
「……ああ」
「その事で、ちょっと話したいんだけど……今どこにいる?」
「今はトリグラフだよ。ヴェルから連絡があって、これからイラート海停に行く」
「じゃあ私も一緒に行ってもいい!?急いで出るから」
「いいけど、平気なのか?突き飛ばされたって聞いたけど……」
「私は大丈夫だよ。パソコンは壊れたけど」
「えっ」
「データは復元できたから、平気。社内は大騒ぎで今日は仕事どころじゃなさそうだし」

ルドガーはふとセレナの電話口の後ろがやたらと騒がしいことに気がついた。

「なんか……ごめんな」
「ルドガーのせいじゃないって。とにかく、私も連れて行って!」

セレナの申し出を断る理由もなく、何か電話では伝えられないことがあるようだったので、ルドガーはクラン社までセレナを迎えに行くと約束した。

「あっ、セレナいた!」

クランスピア社本社ビルのエントランスで待っていたセレナの元に、エルが駆け寄ってくる。

「エル!みんなも」
「セレナ、ぶじでよかったー!メガネのおじさん、ひどいことする!」

エルはセレナの足に抱きついた。
少女もルドガーから事の顛末を聞き、迎えに来るまでの間ずっと心配で落ち着かなかったのだ。
エルの純粋な優しさがセレナの心を温かくした。

「本当に無事で何よりだよ」
「脱走したら社長令嬢が目の前にいたなんて、ユリウスにとっては最高だったろうなあ」
「ちょっとアルヴィン!」

ジュードとアルヴィンがそれぞれの感想を述べると、レイアがアルヴィンを諌めた。
しかしセレナは怒るでもなく、苦笑いで返す。

「戦闘エージェントが人質になるなんて、情けないよね……」

この事を知った養父はどう思ったのだろうか……セレナは次にビズリーに会ったときどんな顔をされるのか想像して顔を青くした。

「相手はユリウスさんだったんだし、他のエージェントもみんなやられちゃったって聞いたよ。
下手に抵抗しなくて正解だったと思うな」

ジュードの慰めに、セレナは彼の優しさが心に沁み入るように感じた。

「ルドガー、さっき言った話なんだけど……ここではちょっと」

セレナは本来の目的を思い出し、辺りを伺うようにして小声でそう告げた。

ユリウス逃亡事件は、外の通りにいた市民にも知られ渡ることとなってしまっていた。
警察やそれに対応する社員、負傷したエージェントを介抱するための医療関係者やらでエントランスは騒然としている。

社の前には野次馬も多数いて、ルドガー達が入ってくる時も掻き分けるのに一苦労した。
ルドガーは今日初めて、クラン社の社章を律儀につけていた自分自身に感謝した。

「では、向かいながらお話をお聞かせいただきましょう」

ローエンが上品に微笑んでまとめる。
それを合図に、一同はトリグラフ駅を目指して歩き出した。

「そう言えば、ちゃんとこの世界のリーゼ・マクシアに行くのは初めてだな」

マクスバードのリーゼ港から出る船に乗ったセレナが、水平線の向こうを眺めながら言った。

「そう言えば、俺もだ」
「エルもー!」
「この前は、気絶しちゃったからね……」

ルドガーとエルもセレナと並んで甲板の手摺から海を眺めている。
セレナはあの一件を思い出して肩を落とした。

「エルたちも、あのキモチワルイおじさんにつかまっちゃったし」
「気持ち悪い……リドウさんのことだね」

エルの素直な言葉にセレナは軽く噴き出した。
あれでも親衛隊があるくらいには人気があるエージェントなのだが、子どもには関係無いらしい。

「ユリウスさんは、イラート海停で目撃情報を絶ったんだよね?」
「ああ、ヴェルはそう言ってた」

ルドガーが頷いた。
兄が起こした一連の騒動に、その兄を慕う弟動揺しない筈が無い。
それをエルの前もあってか務めて冷静に振る舞うルドガーの心中を想像して、セレナは眉を下げた。

「『分史世界のキジル海瀑にて待つ』……ユリウスさんからの伝言」

少し間をおいてからセレナが呟く。
視線は今だに、眼前に広がる水平線の先を追っていた。

「キジル海瀑?」
「うん。少し調べたら、リーゼ・マクシアにある地名みたい」
「そこで、兄さんが……」
「分史世界の、だから行き方はまだ分からないけど。
私ね、ユリウスさんに巻き込んですまん……って言われたの」

あの言葉はどうもあの場面のことだけを言っているのでは無いように思えた。
それはセレナの勘でしかなかったが。

「あの人は何を知っていて、何をしようとしているんだろうね」

セレナの言葉に、ルドガーは黙り込んでしまう。

「ルドガーみて!町がみえたよ!」

その時、いつだって重い空気を軽くしてくれるエルの声が響いた。
少女は目を輝かせながら海の向こう側を指差している。

「本当だ。あれがイラート海停だな」

ルドガーははしゃぐエルに目線を落として優しく笑った。

「3人とも、そろそろ着くよ!降りる準備してね」

セレナ達の元にレイアが伝達に来てくれた。
それを聞いてルドガーが自然とエルの手を取った。
エルもエルでその手を自然と握り返している。

その姿を見たセレナは、形容し難い暖かさで胸がいっぱいになるのを感じた。



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アーストさん待ちぼうけ。



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