丸ごとレモン

「あの頃に戻りたい。」

「もう消えてしまいたい。」

「異世界に行きたい。」


こんな願い、誰しも一度は持ったことあるんじゃないかな。辛い時、現実が嫌になった時、特にそう思わない?

私は今が、それなの。




*丸ごとレモン*



私は、昔から人のことを覚えられない。
人の顔も、人の名前も、なかなか覚えることができないし区別もできない。きっと脳のどこかの部分が著しく劣っているのだろう。そのくらい酷いレベルなのだ。

芸能人で言えば、
あべひ○し・ひら○けん・沢村○樹の顔の区別が昔つかなかったほど。

身近で言えば、
1年同じクラスで過ごしていたとしても接点がないと『(あー名前なんだっけ!)』という風に、顔は覚えていても名前が分からない感じだ。


そんな私だから…
遂に大きなミスをやらかしてしまった。


『申し訳ございません…っ!!』


社会人3年目の営業にして、やってしまったのだ。
営業は印象やコミュニケーションが特に大事なのに、私は顔の区別がつかないことから、お得意様に失礼なことをしてしまった。

まさか街中で声をかけられるとは思わなかったんだ…しかも声をかけられてすぐに相手のことを思い出せば良かったものの、相手に名前を言わせても思い出さなかった。
じゃあいつ思いだしたかって?
名前・勤め先・最後にいつ会ったか・その時何を話したか…そこまで相手に言わせて『あぁ、あの人か!あれ、あの人こんな顔だったっけ?』と内心思った私、アウト。最早大気圏外。


「どうしてくれるんだ! うちの社のイメージが悪くなったじゃないか! しかも相手はあの…」


そんなわけで上司にガミガミと怒られている私。
先輩からも「お前人に興味ねぇからそんなんじゃねぇのか」なんて叱られて…


『……ぷはっ!ビール最っ高!!
あ〜…もぅ…どっか行っちゃいたい!!』


やけ酒すんなって言う方が無理だっての。
だいたい残業代もカットしたり終日出勤があるようなこんなブラック企業…いつか潰されてしまえ!


『…ふぅ…学生時代に戻りたいなぁ。
そしたらもっと将来のこと考えて、成り行きに任せずにちゃんと将来に繋がる大学を選んで…。
いや、ないわ。むしろ暗黒時代だった学生生活をバラ色にやり直すわ。青春バンザイ!!』

「そうじゃ青春バンザイ!!」

『青春バンザイ!!…って、どちら様?』


私行き着けの居酒屋でビールを1人ゴクゴク飲んでいれば、隣にいつの間にやら見知らぬお婆さんがいた。
まっ、見知らぬって言っても…
私が覚えてないだけかもしれないけどねー!ハハ!


「お嬢ちゃんはもう立派な大人じゃのう。」

『えー? まぁ…子供という年齢ではありませんが、でも私なんかまだまだ未熟なクソですよ。クズでごめんなさい。』

「ほっほっ、そう自分を卑下しなさんな。
だいたい子供の頃に戻りたいとそう思えること自体、嬢ちゃんが大人になった証拠じゃよ。」

『お婆ちゃん…! ところでどちら様?』


隣のお婆さんは笑うだけで、私の質問になかなか答えない。それどころか「私にもビールを1つ」と店主に注文している。
えっ、それ私が払うんじゃないよね?
自分で払えよバアさん。


「…それで本題じゃが、」

『えっ、あ、はい。』

「さっき嬢ちゃんは、あの頃に戻りたい、どこか遠くへ行ってしまいたいと言っておったな。」

『まぁ…言ったような気がします、ねぇ。』

「そんな嬢ちゃんにこれをあげよう。」


ポンと私の手に置かれたのは、何処にでもあるような黄色の檸檬。強いて言うなら、葉っぱが1枚ついている。なんか可愛い。


「それにはな、魔力が込められておるんじゃ。それにカプリとかぶりつけば、お前さんの願いはいつかきっと叶えられるじゃろう。」

『んなまさかー。てゆーか檸檬を丸かじりってハードル高くない?酸っぱくて無理無理〜。』

「そう言わずに。ここで会えたのも何かの縁じゃ。いいかい?その檸檬を切ってしまえば効果はなくなってしまう。丸ごと、檸檬にかじりつくんじゃぞ。一口だけで、充分じゃからな。」

『えっ…ちょ、お婆ちゃん!ビール…!!
…って、もう逃げやがった…』


ケラケラと笑いながらそのお婆さんは姿を消し、店主からは「あのお婆さんの分のビール代、よろしく頼むよ」なんて支払い命令がくだされた。
何か…今日厄日なのかな。
大人しく帰ろうかな、また誰かに絡まれたら嫌だし帰ろう。うん。

お勘定を済ませ、先程貰った檸檬を片手に居酒屋を出る。私の自宅はここから徒歩5分程度だ。車のライトが夜の街を照らす中、信号待ちでボーッと立つ。これを渡って、あの角を曲がれば、私の住むマンションにつく。

たったそれだけの距離で、さして時間はかからない筈なのだ。でも、信号待ちをしているその時間が何だか長く感じて…退屈だった。

だからー


カプリ…

『…! 何コレ…本当に檸檬!?
酸っぱくないし、皮柔ら……か…ッ!』


酔い醒ましに…なんて、遊び半分で、お婆さんに貰った檸檬を口にしてしまった。急に胸が苦しくなって、目が開けられないほど眠くって…身体が地面に近づくのだけは分かった。


『(あぁ…今の時代、知らない人から貰った物を食べる方が馬鹿だよね…。)』


お婆さんだから大丈夫か、なんて。
そんな油断をした私を自嘲しながら、私の意識は遠退いていった。





(「きゃ…きゃあああああ!!!!」)
(「お、おい!人が倒れてるぞ!!」)
(「救急車を呼べー!!」)





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