白凪栞音

何が起きているのか、理解出来なかった。いや、違う。理解するのを脳が拒否していたんだ。それほどに、恐ろしい光景だった。

いつもなら、高校から帰ってすぐ、リビングには豪華な装飾のついたテーブルがあって、その上にショートケーキとティーカップが置かれているはずだった。しかし、そこにあったのは、想像できるはずもない、手首から血を流して倒れている母の姿だった。私は一瞬、まるで心臓が凍りついたかのように動けなくなった。そして、膝から床に崩れ落ちた。私には分かってしまった。母が、何者によって殺されたのかを。本当は信じたくなかった。でも、分からされてしまった。ここ一二週間ほどで、私たちの家族は支えを失って、粉々に砕けてしまったから。パトカーに乗って運ばれていく父。憔悴しきって、あんなに好きだった料理さえできなくなってしまった、生気のない母の顔。

分からないはずがない。母は、自ら死を選んだのだ。自分で自分を──殺したのだ。

胸が苦しくて苦しくて、泣くことも叫ぶこともできなくて、息が止まってしまうのではないかと思った。今まで生きてきた中で、初めて死というものを実感した瞬間だった。喉からせり上がってくる液体を必死に押し戻して、私は這いずるように移動し、青白い母の頬に触れた。驚くほど、冷たかった。この時私は実感した。ああ。母はもう死んでしまったのだ、と。私の家族は、拠り所は、もうどこにもないんだと。そう思うと、気がついたら涙が溢れていた。止まらない涙が血だまりの上に流れて、母の血液がどんどんと薄まっていく。私は血がつくのにも構わずに、母の亡骸を抱きしめながら、泣き続けた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、日が沈んでくると、自然と瞼が下りてくる。私は母の亡骸を温めながら、目を閉じた。そして、朝起きたら全てが元に戻っていたらいいのに、と心から願った。


とは言っても、本当に全てが元通りになっているはずもなく。私は、窓からのぞく鋭い光に目を覚ました。寝ぼけ眼で起き上がり、目を擦る。すると、目についた光景に、ぎょっとした。思わず後ずさった。


それは、私の家の高い塀の上から家の中を覗こうとしていた。それも、何個も。まるで化け物の目玉のようなそれは、カーテンの隙間から部屋の中に焦点を合わせようとする。私は慌てて横に飛び退き、カーテンの影に隠れた。心臓がバクバクと鳴っている。どうしよう。どうしよう──。軍警の長だった父が逮捕されてから、何ヶ月間もそのカメラのレンズはあったはずなのに、もう慣れたと裏口から記者の人たちを押しのけて学校に通っていたはずなのに、私はなぜか酷く動揺した。


見られている。大勢のマスコミに、監視されている。もし部屋に押しかけてきたら、私は捕まえられて、どこか怖い場所に連れ去られて、ボロボロにされて──母みたいに、殺される。


「逃げなきゃ」まだ16歳だった私には、その後どうなるかなんて全く分からなかったけれど、直感的にそう感じた。素早く、でも音を立てないように立ち上がり、私が持っている中で一番大きいリュックを運び出す。そして、家の中のあらゆる場所を探し、役に立ちそうなものをリュックの中にありったけに詰め込んだ。背中に背負って立ち上がると、少しだけ重い。だけど、何か足りなくなって死ぬよりはよっぽどましだ。

マスコミの張り込みが薄い、裏口への階段を降りようとしたところで、私は一度、後ろを振り返った。昇り始めた朝日に薄く照らされる、母の亡骸。


信じてきたもの。信じてきた人達。信じてきた正義。それら全てが、父の犯罪によって、母の自殺によって、全て粉々に砕散って、訳が分からなくなってしまった。何が正しくて、何が間違っているのか。今の私には、分からない。


私は、裏口から一旦外に出て、庭に咲いている花を摘んで持ってきた。母の傍らにしゃがみこみ、家族写真とともに、眠っている母の隣に置く。最後に、両手を合わせて、ただただ祈った。母が、あちらの世界では安らかに暮らせますように、と。


私は立ち上がり、裏口へ続く階段を降りていく。いつの間にか噛み締めていた唇からは、血が滲んでいた。


家族を捨て、正義を見限った。無垢な私が死んだ、16歳の夏だった。
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