――上級検事執務室に部外者が居座り始めてから、そろそろ二時間が経とうとしていた。
「……で、どう思います? みつるぎ検事は!」
「ム。あ……いや、それは……だな」
血気盛んに執務室の主、御剣怜侍に詰め寄る部外者は、顔見知りの弁護士助手、綾里真宵である。
見上げた時計へ意識を移していた所で不意に名を呼ばれ、つい御剣は言葉を詰まらせてしまった。
「……もしかして聞いてなかったんですか!? あたしのハナシ!」
「い……、いや。そんな事はない……が」
実の所、聞いていたと言えば嘘になる。しかし正直に答えて、また同じ話を二時間分繰り返されても、たまったものではない。
――適当に聞き流してはいたものの、取り敢えず薄ボンヤリとは、真宵の言わんとする主張は理解していた。
早くこの不毛な時間を終わらせるべく御剣は、真宵が話を再開させる前に結論を急いだ。
「……つまり。何が言いたいのかね、キミは」
「え……、な、なにって……。だから、あたしは――」
「キミの言いたい事は解る。解るが、それで私に何を訴えたいのか、だ」
「そ、それは……」
「ココに来たという事は、少なからず私に何かを要求しているという訳だろう。キミは私に何を望んでいる?」
核心を突いたようである。漸く真宵は押し黙った。
ただ暇を持て余しているだけ、話相手が欲しいだけなら、適任なんていくらでもいる。そう、最も対象として不適切な御剣を選ぶ筈がないのだ。
やはりその選任には意図があったようで、やがて真宵は躊躇い気味に本題を切り出した。
「……じゃあ、聞いてもいいですか?」
「いいだろう。言ってみたまえ」
「やっぱり、みつるぎ検事も好きなんですか? ……おっぱい」
「…………は?」
想定外の質問に、目を閉じて腕組んでいた御剣は思わず声を上げてしまった。
そして真宵の顔を見る。彼女の表情は至って真剣そのものだった。
「…………」
御剣は腕を組み直し、眉間にヒビを濃く刻み付けながら、また目を閉じた。
一体何故こんな事になってしまったのか、と。
――コトの発端は数時間前。突然掛かってきた、真宵からの電話に始まる。
まず、真宵が直接御剣に連絡をよこした事自体が初めてだった。そこで最初にひとつ驚かされた。
ただでさえ彼女とは、成歩堂を介さなければ顔を合わせる機会もない間柄。交わす会話も在り来たりな挨拶と、無難な世間話程度である。
しかも、受話器越しの真宵は涙声だったのだ。御剣でさえも一瞬、言葉を失わずにはいられなかった。
そもそも他人の涙自体が、得意でも慣れている訳でもない。ましてや相手はあの、如何なる危険に晒されようが能天気に笑い飛ばせる神経を持ち合わせている娘である。
――手練れの殺し屋に誘拐されても冗談混じりに戯けて見せた筈の、あの真宵が……だ。余程の事が起きたのかと疑わない方が不自然である。
あらゆる事態を思い巡らせながら、御剣は出来る限り言葉を選んで真宵に説明を求めた。
『な……、なるほどくんが……ッ』
そう、消え入りそうな声で呟いたのを最後に、やがて受話器からは嗚咽しか聞こえなくなった。
全身から血の気が引いていくのを感じた。
最悪のシナリオが御剣の脳裏を掠める。つい先日、まさに全く同じ展開を経験したばかりだったからだ。
あの時は幸い大事には至らなかったが、それでも何があってもおかしくない状況だったのである。
法廷でも外でも、そろそろアイツの悪運も尽きる頃ではないか。
――そう危惧していた、矢先の事だった。
さしもの御剣でも、いつもの冷静さを忘れていた。しかしそれでも真宵を宥めながら、まずは真宵のいるという事務所にタクシーを手配させ、すぐさま自分の元へと呼び寄せたのである。
事情を訊ねる前に、執務室に上がり込んだ真宵が開口一番に放ったのは、
『聞いてください! ヒドイんですよ、なるほどくんってば!!』
だった。
――そこで御剣は悟った。
差し当たって、自分の想像していた、人命に関わるような事態ではなかったという事。そして、自分の取るべき判断を完全に見誤っていたという事だ。
解決手段は、無意味な時間を費やす前に、即座に真宵を送り返すより他ない。
――しかし時既に遅く、目を赤く腫らしていた真宵は完全にエンジンがかかり、興奮で頬も朱に染めて収まらない鬱憤を御剣にぶつけ始めたのである。
つまり早い話が、真宵と成歩堂の間に揉め事が生じたという事である。――いや、正確には揉めたというより、真宵の一方的な不満の表れのようだ。
そして、思わず泣きたくなる程の屈辱を味わった真宵が鬱憤の捌け口を求め、やがてその矛先を御剣へと向けた。それが今回の顛末らしい。
……らしい、というのは、経緯や根拠の説明はあったと思うが、御剣がそれらを記憶に留めておく意思を持ち合わせていなかったからである。
やがて真宵は、成歩堂の言動から些細なクセに至るまでの文句を事細かに、感情を交えて零し始めた。
御剣にとっては正に“取るに足らないどうでもいい事”である。
「……興味なさそうな顔してますね」
「ああ。ないな」
忙しかろうとそうでなかろうと、他人の痴話喧嘩に付き合う時間も趣味も持ち合わせていない。
しかも裏を返せば、そんな些細なクセも目に付く程ヤツと行動を共にし、常に意識を払っているという事だ。
そんなに嫌なら見なければいい。余程そう言ってやろうと思ったが、煽り立てて余計に喚き散らされるのも面倒だと御剣は黙っておいた。
「ひっどぉい! あたしがこんなにキズついてるっていうのに……」
先程、自分が手土産に持ってきたトノサマン饅頭を頬張りながら真宵は傷心を訴えた。
「すまないが、そうは見えないな」
「甘いモノに慰めてもらってるんです! じゃなきゃ、やってられないんですから! ――そう言えば昨日だって……」
相手に興味が無いと解っていようが、自分の気が済むまでは吐き出し切らないと収まらないらしい。真宵は再び、いつぞやの証人さながらの勢いで愚痴を漏らし始めてしまった。
御剣は深く溜息をつくと、小さく首を振った。
大人しく降伏する以外の選択肢は元より存在していないのだと、嫌でも悟らざるを得ないようである。思わず肩を竦めていた。
真宵と地頭には、勝てない。
意見しようが同調しようが結果は同じ。ならば余計な刺激を与えるより、興奮が冷めるか喋り疲れるまで放っておくより他ないようだ。
……何故こういう時に限って突発的な事件なり不意の呼び出しなり、刑事なり美雲なりの厄介な来客の訪れもないのか。理不尽な腹立たしささえ覚えてしまった。
どこまで空気が読めない連中なのだろうか、と。
そして漸く、真宵に隙が見え始めた所で、御剣は口を差し挟んだのだった。
「――で、話は何だっただろうか」
「だーかーらー、みつるぎ検事もおっぱい大好きなんですかって――」
「そ……、そのような事を大声で言わないで頂きたい!」
「みつるぎ検事が聞いたからじゃないですかー!」
何故こんな所でこの流れでこのムスメに、己の性癖を暴露せねばならんのか。
余程そう突っぱねて追い返してやろうと思ったが、ぐっと堪えて自分の返事を待つ真宵に御剣は答えた。
「私に、その質問に答える義務はない」
「な、なんでですか!」
「キミがそんな事を知る必要性を感じないからだ。……どうしてもと言うなら、私を納得させられるだけの理由を提示してみたまえ」
「う……ッ」
再び真宵は押し黙った。
何の脈絡もなく馬鹿げた問いに付き合うつもりがないのもそうだが、何を理由にそんな突拍子もない発想が飛び出したのかも、御剣には理解に苦しむ所だった。
真宵が自分に望んでいるのは、別の要求だろうと踏んでいたからというのもある。
勢いに任せて飛び出しては見たが、熱が治まった今となり引っ込みがつかなくなってしまった。
不満こそあるが、何だかんだで結局ヤツの元へ戻りたいのだろう、と。
そこで、帰るためのきっかけが欲しかった。御剣にはそのきっかけ作りと、成歩堂との間に入って仲介役か、または自分の言い分を正当化するために加勢してほしい。
――と、弁護依頼でもされるものと思っていた……のだが。まさかこんな質問を投げ掛けられるとは、完全に想定外だった。
思い詰めたような表情を見るに、単なる興味本意や悪い冗談のつもりではないようだ。だからこそ余計に真宵の思考が読めない。
「……お姉ちゃん」
「……ナヌ?」
不意に思わぬ第三者が会話に出てきた事で、さすがの御剣も整理に時間を要してしまった。
“お姉ちゃん”とはこの場合、真宵の実姉である綾里千尋弁護士を示しているのか。そして、何故ここで唐突に千尋の名が出てくるのかだ。
――取り敢えず真っ先に判明したのは“真宵という人間を理解する事は、恐らく永遠に不可能だろう”という事実である。
「だって……なるほどくんは、あたしとお姉ちゃんとで態度や話し方が全然違うから……」
「……少し、時間をくれないだろうか」
御剣は再び時間を必要としてしまった。
数年前にこの世を去った筈の人間が、何故さも当然に現在進行形で話の中心にのぼるのかと。
――これまでの経験と、真宵の境遇やらの記憶を思い返しては手繰り寄せ、持ち前の聡明さでどうにか状況を推測するまでに至った。
どうやら春美の身体を媒体としての、千尋とのやり取りを指しているようだ。
……事情が事情でもある故、他に説明のつく理由が思い当たらない。しかし断定するに至らないのは、御剣自身がその事実を受け入れたくないからに他ならない。
常識というものを大気圏目掛けてジェットエンジンですっ飛ばしてくれるような、まさに未知との遭遇を彷彿とさせてくれる真宵との会話を、常人が淀みなく成立させられる筈がない。
逐一会話の端々に解説か、論理構築に要する小休止を設けて頂けないかと提案したい位である。
「……一応理解した。続けてくれ」
「……だから……それで、あたしがなるほどくんにコドモ扱いやバカにされたりするのって、あたしに色気がないからじゃないかと思ったんです」
「…………」
今度は話を止めるまでもなく、御剣にも事情は理解出来た。
蓋を開けてみれば、実に底の浅いロジックであったのだ、と。
簡潔に纏め直すと、つまり真宵は、姉との容姿の差を強く意識している。
そして己の容姿が相手の態度や、評価に直結しているのだと思い込んでいるようだ。
その真宵にとっての容姿の価値とは、胸の大きさで左右されるものらしい。
――まともに取り合うのも馬鹿馬鹿しい気がするが、本人は至って真面目なのだから始末に困る。
説明するまでもなく、真宵と千尋では外見以外にも差違は多々見受けられる。
成歩堂からしてみれば、千尋は先輩であり恩師。突然転がり込んできた押し掛け小娘とでは、軽視云々の前に印象も立場も影響力も、何もかもが異なっているのだ。
こんな場合での引き合いに出すべきではないが、例えば御剣にとっての宝月主席検事とその妹君では、当然に存在も態度も一致しないのと同様であろうか。
真宵には行動を共にしてきた時間や経験と、助手というプライドもあるのかもしれない……が。アイツの態度に差が生じるのも、やはり仕方がないと言えるのではないか。
成歩堂の肩を持つ気はないながらも、御剣もまたそう思っていた。
「だから……やっぱり、みつるぎ検事も一緒にいるなら、あたしよりお姉ちゃんの方がいいって思ったりしますか!?」
「……い、いや。別にそんな事はない、……と思うが」
「……じゃあ。あたしとお姉ちゃん、どっちがオンナとして魅力的で、欲情できますか?」
「…………」
――何故話がそこへ飛躍する。
それに、その二択ではどちらを選んでも、ある意味問題発言のように思えるのだが。
しかし適当に濁して受け流してみても、真宵に納得するつもりはないのだろう。御剣は目眩を覚えた。
「……愚問、だ」
「え」
「私の意見を言わせて頂く。少なくともキミの挙げるような理由や条件だけでヒトを区別し、評価する趣味はない。……それは成歩堂も同じハズだ」
「…………」
先程よりは冷静さを取り戻したのか、興奮で朱を差していた真宵の表情に陰りが見えた。
「だからといって、キミの内面が劣っているからという意味でもない。……キミも解っているだろう、綾里弁護士は彼の上司であり、その縁故も昨日今日で築けるようなものでない事は」
「う……」
御剣は敢えて、客観的事実のみを挙げておいた。
“成歩堂は真宵と出会うよりずっと以前から、千尋の事を知っている。共有した経験、そして立場が異なれば接し方が異なるのも、また必然”
それは、皆が周知の紛れもない事実である。
――実の所、二人の間に師弟として“以上”の慕情が存在していたのか否か……、それを知るのは当事者のみである。
憶測だけでものを言いたくないのもそうだが、正直どっちであろうと御剣にとっては甚だしくどうでもいいのだ。
とにかくこれ以上、真宵を悪戯に刺激したくなければ、煩わしい問答も御免被りたい。
決して嘘をついている訳ではないのだから、罪悪感を覚える必要もない。御剣にとっても最善の策であった。
異性を師に持つと、何かと詮索されては厄介事に発展するらしい。……一応御剣は胆に銘じておいた。
自分は到底理解に至らないだろうが、女性というものは姉妹関係であってもライバル意識を生み出してしまうものだろうか。そんな分析も働かせながら。
――しかし“印象”自体は、態度に左右される要因の一つになるのではないか、とも言えた。
目のやり場には困るが、それなりの地位に就き一応の常識は弁えた正装の淑女……と、片や年齢職業不詳で外見思考共に奇抜で突飛な、妙に馴れ馴れしく痛々しいオカルト娘。
世間一般的に、どちらに好感を抱きやすく、会話の成立や意志疎通を容易とし、信用するに足る人物だという印象を受けるか。――言わずもがな、だ。
この辺の事実は、敢えて思い知らせる必要もあるまい。
既に何個目を口に運んでいるか判らない饅頭だけでは、真宵を慰めてやれなくなるだろう。自分が饅頭の代わりになれる訳がないと了得の御剣は、また一つ結論を闇へ葬っておいた。
「……そんなの、ウソだ」
「……ム」
真宵は持っていた饅頭の塊を頬張り、紅茶で一気に胃へと流し込んだ。
「――あ、あたしだって…それくらい、……わかって、ます…ッ、……げふ」
「気持ちは解るが、少し落ち着きたまえ」
呆れる御剣の差し出したお代わりの紅茶を、真宵は引ったくるように受け取ると豪快に飲み下した。
「その……、あたしがお姉ちゃんに勝てっこないのは……わかってます。あたしよりも長い付き合いだし、信頼してて当然だし、それに……」
解っているなら、初めから聞かないで貰いたいものだ。
真宵のカップに新しく茶を注いでやりながら御剣は、そう溢してしまいそうなのを欠伸と共に噛み殺した。
次からは相当濃い目に淹れないと、関心だけでなく意識も失いそうである。
「――でも、あのヒトはちがうもん!!」
例によって適当に受け流していた中での、一際力強く真宵の放ったその一言には御剣も、一瞬紅茶が喉を通らなくなり咳き込みそうになってしまった。
どうやら話題から千尋が退場すると同時に、新たな人物がお出ましてくれたようである。
(……あと何杯、茶を汲む必要があるのだろうか)
御剣は思わずまた時計を仰いでいた。
出来るならこれ以上、金輪際関わりたくないが、訊かなければ解放される事はないのだろう。
――放っておいても勝手に喋るのだろうが、ここは一応の体裁上、御剣の方から話の続きを促した。
真宵の手がまた、饅頭の袋へと伸びる。
他人にぶちまけてしまいたいとは思いながらも、あまり気が進みはしない話題のようだった。
一層表情を曇らせていた真宵は半分咥えた饅頭を充分に咀嚼し、一息ついてから漸く、勿体ぶるように重たそうな口を開いた。