玄関の扉を開けて家の中を進んで行くと、見えてくるキッチンに立つビルの後ろ姿。
振り向く前に、と足音がしないように忍び寄って背中に抱きつく。
「わっ!」
狙い通りに驚いた声を聞けて満足しながら抱きつく力を強める。
幸せだな、と思うだけで自然と笑顔を浮かべてしまう。
そんな私を見て不審に思う人は今この場には居ない。
笑顔をそのままに、首だけでこちらを振り向いたビルを見上げる。
「ただいま、ビル」
「お帰り。あー、驚いた」
「ふふふ、大成功」
「悪戯には慣れてるつもりなんだけどなぁ」
悔しそうにそう言うと、ビルは前を向いてしまう。
悪戯という言葉にあの双子の顔を思い浮かべながら、首を伸ばしてビルの手元を覗き込む。
コーヒーミルとコーヒー豆の袋が見えて、ビルが手を動かし始めるとコーヒーの香りが立ち上る。
よくよく周囲に気を配ってみると室内にもコーヒーの香りがしているのに、全然気が付かなかった。
ビルを驚かそうと、そちらに意識が向いていたせいだろう。
「珍しいね、コーヒー」
「名前も飲む?」
「うん、飲む」
「じゃあ、着替えておいで」
離れ難いなぁ、と名残惜しい気持ちを抱えながらビルから離れる。
ずっとくっついていたからか、触れる空気がとても冷たい。
さっさと着替えて戻ってこようと決めて、足早に部屋へ向かう。
そんな私の後ろでビルが笑ったような気がした。
テーブルの上に置かれたマグカップにはビルが淹れてくれたコーヒーが二つ。
向かい合わせに置かれた椅子に腰を下ろして、手のひらでマグカップを包み込む。
「今日、職場で貰ったんだ。コロンビアに行って来たみたいで」
「ああ、それでコーヒー」
コーヒーはとても美味しいけれど、それはコロンビアの物だからなのか、ビルが淹れてくれたからなのか。
どちらにしても美味しくて幸せな気持ちに違いないので、美味しいねと笑顔を浮かべるビルに同意見を述べる。
ビルが居て、一緒に同じ物を飲んでいるというだけで普段から何でも美味しさが増す気がするのだ。
いつか、ビルにもそんな事が起こっていないかどうか聞いてみようかな。
「今度の休み、カフェに飲みに行くのもいいかも」
「一緒に?」
「勿論。名前が嫌なら一人で行くけど」
からかうような言い方をするビルの足を自分の足でつつく。
しかし、逆にビルの両足に押さえ込まれてしまう。
「僕は一緒が良いな」
「私も」
「意見の一致。楽しみだね」
私の足を解放したビルはにこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべる。
ビルは私の心臓が忙しなく動いている事を想像出来るんだろうか。
ビルは私をときめかせるのがとても上手だ。
シャワーを浴びて、部屋へ戻りながら悪戯を考える。
けれど、今日はもう一度成功したから失敗してしまうかもしれない。
今日はもう止めておこうと決めて部屋へ入る。
ソファーに座り手紙を読んでいるビルの横に腰を下ろす。
「名前、良い香りがする」
「シャンプー変えたの」
「今までのシャンプーの香りも好きだったけど、新しいのも良いね」
「でしょ」
ビルの手が伸びてきて私の髪の毛に指を通す。
新しいシャンプーの洗い上がりを確認しているような、そんな手付き。
髪を触りながら、ビルは手紙を読んでいる。
大事な手紙かもしれないし邪魔は出来ないな、と思いながらもつまらない。
体を倒してビルの膝の上に頭を乗せた。
こうすれば手紙を見てしまう事もないし、ビルにくっついていられる。
見上げたビルは私を見て笑みを浮かべ、頭を撫で始めた。
手紙に視線は戻ってしまったけれど、手は頭を撫でたまま。
不規則に撫でられていると、眠くなってくるような気がする。
「名前?」
「んー?」
「あ、起きてた」
「起きてるよ」
ビルを見上げると、手紙は手から無くなっていた。
もしかして、無意識のうちにほんの少し眠ってしまったんだろうか。
とにかく心地良くてよくわからない。
「寝るならベッドに行かないと」
「眠くなーい。まだ、寝たくないな」
「じゃあ、お話でもする?」
頷くとビルが額にキスをして、話し始める。
私は聞いた事がない魔法族の童話だろうか。
大好きなビルの声で、面白そうな話を聞かせてくれる。
こんなに贅沢な時間を過ごせるなんて私は幸せだ。
(20191022)
幸せな子守唄