――最後に一人で歩けたのはいつだっただろうか。
 視線を漂わせながら凌牙はぼんやりとした思考の中で思い出そうとする。右目にそっと触れたが、指はまぶたではなくその上のガーゼを擦った。

「ようシャーク!元気にしてるか?」

 静かな病室に不似合いな声が響いた。ここが病院であることを気にしていないのか。声量を抑えようともしていない。凌牙は小さくため息を溢しながらもほほ笑んだ。

「まあまあだ。ずっと病室にいたんじゃあ暇で仕方がねぇぜ」
「そうだよなー。どうする?今日は外に出るか?」
「いや、今日はいい。……それより遊馬」

 凌牙が遊馬へと視線を向けた。しかしその視線は遊馬と交わることはない。その視線は、遊馬がいる場所と少しずれた場所を漂っている。
 それに遊馬は気づいていたし、今更傷つくことではなかった。学生鞄を適当な場所に置くと、来客用の椅子を引っ張ってきて凌牙の左側に座った。

「はい、シャーク」

 そっと遊馬は凌牙の左手を握った。凌牙はそれを強く握り返すと、空いているもう片方の手で遊馬の手から腕へ、肩へと這わせていく。その手は壊れ物を触るように慎重に触れてくるため、少しくすぐったい。思わず笑い声がこぼれた。

「ここ、」

 遊馬がそこにいる事を確かめるようにそう言った。その声はほとんど吐息だけだった。手は遊馬の顔まで辿りつき、頬を優しく包んでいる。遊馬の手がその上から重ねられた。

「俺はここだよ、シャーク」
「……本当に、遊馬か…?」
「うん、ちゃんと見て……あっ、」

 遊馬の顔から血の気が引いた。一番言ってはいけないことを言ってしまった。
 気づいた時にはもう遅かった。今まで優しく頬を包んでいた凌牙の手は拳を作り、遊馬の頬を容赦なく殴りつけた。
 椅子ががらんがらんと激しく音を立てて横に倒れ、遊馬も一緒に床に倒れた。

「見ろ、だと……?はっ…どうやってだよ……。何も見えない俺に!何をどうやって見ろって言うんだ!ああっ!?」

 がむしゃらに暴れる凌牙の手がサイドテーブルの上の花瓶に当たった。床に叩きつけられた花瓶は激しい音を立てて割れ、中の水が広く飛び散る。花弁が何枚か散った。
 遊馬はまたやってしまったと絶望していた。凌牙の右目はもう何も見る事が出来ない。残った左目はかろうじて光をとらえるが、輪郭と色がはっきり見えていないのだ。そんなはっきりしない世界を何カ月も見続けている凌牙にとって、「ちゃんと見る」という言葉は苦しめるだけだ。分かっていたのに、つい口から出てしまった。
 遊馬は、逃げられない苦痛に暴れまわる凌牙を見ていられなかった。もう目を閉じてしまいたい。耳を塞いでしまいたい。しかし、それは視界にほんの少し入った赤色によって止められた。

「っ!駄目だ、シャーク!」

 遊馬は凌牙を強く腕ごと抱きしめた。凌牙はそれでも抵抗して暴れたが、少しして暴れる事をやめた。息を荒げながら、頭を垂れて遊馬に体を預けた。
 ようやく落ち着き始めた凌牙を見て、遊馬はその視線を凌牙の手へと向けた。やはり、手の甲が少し切れていた。どこで切ったのか分からない。

「今日は帰ってくれ…」
「でも……シャーク…手、切れてる…」
「俺のことなんて放っておいてくれ!」

 凌牙は再び暴れ出した。遊馬が思わず腕の拘束を解くと、凌牙は暴れる事をやめ、遊馬に背を向けて小さな声で再び帰ってくれと呟いた。
 遊馬は何度か口を開いたが、そこから声は出なかった。何も言わずに自分の荷物を肩にかけると、静かに部屋を出ていった。扉を閉める前に再び凌牙を見たが、凌牙が振り向くことはなかった。



13/05/26
春猫さんからの二万打企画リクエスト「片目を失い、もう片方の目も視力がなくなりかけているシャークとそれを看病して側に寄り添う遊馬の話」でした。
本当にお待たせしました!ぜんっぜん寄り添ってない!(^p^)
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