とある朝。とあるマンションの一室で、大介とベクターがテーブルを挟んで夕飯をとっていた。
 ベクターは正確に言えば、人間の姿をしたベクターである。寝間着のシャツやジャージから出ている手足には白い包帯が巻かれ、頬には大きな湿布が貼られている。その顔には以前のような柔らかい雰囲気はない。目つきは悪く、眉間に皺をよせながら、今にも箸を折らん勢いで拳を握りしめている。
 そんな様子を大介は特に心配することもなく、黙々と食事をしながら見ていた。急に帰って来てからというもの、ベクターはずっとこの調子なのだ。詳しい事情を聞いても教えてくれない為、大介は呆れながらベクターの様子を見る事しかできない。
 突然テーブルが揺れた。ベクターが両手でテーブルを叩いたのだ。テーブルの上の料理が零れかけ、大介はむっと眉間に皺を寄せた。注意しようと口を開いたが、それはベクターの叫び声によって遮られた。

「ちっくしょう!なんだカードの書き換えって!チートじゃねーか、チート!」
「零、食事中に大声出すなんて行儀が悪いよ」
「俺はベクターだ!お前には何回説明すりゃあいいんだ大介!」
「僕はその姿のときは零って呼ぶ」
「はっ!変な所頑固だなてめぇ……。真月零は俺の分身で、真月零なんてもともといなかったって……」
「真月零はいたよ」

 食事をしていた大介の手が止まり、真っすぐにベクターの目を見つめた。真剣そのものの熱い目に、ベクターは鬱陶しそうに顔を歪めた。
 ベクターは大介のこの熱いところが嫌いなのだ。熱血だか何だか知らないが、大介のこういう一面はベクターにとって反吐が出る。

「真月零は君の分身。それは、君自身でもある。あれが全部演技でも嘘でも、結局はベクター、君の一部ってことだ」

 それは実にくだらないものだった。以前の真月零という人格を持った人物など、この世界をこえてどこを探しても見つかるはずがない。存在していない作り上げた偽物の人格を、どうして大介は存在していると言いきれるのか。
 大介の綺麗事を理解しようと考え込んだが、頭が痛くなったために考える事をやめた。
 ないものをどうしてあると言いきれる。きっと、聞いても大介はあったと言い切り、自分の胸に手をあて、そこにあるとでも言うのだろう。考えるだけで吐き気がした。

「……とんだロマンチストだな。俺はお前のそういうところ、大嫌いだぜ」
「そうかな。君は僕のことが好きだと思うけど。だってわざわざその零の姿でこっちに来てくれて、今こうやって一緒にご飯を食べてるんだから」
「こっちだと俺はこの姿でしかいられねーんだよ!飯食ってるのはお前を利用してるだけだ!」

 箸を持ち直し、ベクターはやっと夕飯に手をつけ始めた。上手に箸を使いながら焼き魚を開いていく。
 やはり彼は零である。口には出さないが、大介はそう思った。喋り方や表情は別人のように変わってしまったが、ちょっとしたしぐさや癖は変わっていない。目の前のベクターが作った食事も、味は大介の記憶のままである。

「あ、零。この煮物美味しい」
「当たり前だろ。俺が作ったんだからな。あと呼び方変えろって言ってるだろ!」

 料理に妙にこだわりがあるところや、椅子に座ると少し猫背になってしまうところ。本人は気づいていないのだろうが、大介がベクターの料理を褒めると少しだけ笑うところ。そこは変わらず、目の前にある。
 共通点を見つける度に何度も何度も、ベクターが零であると感じたが、そもそも零であると思う根拠自体が、ベクター自身のものなのである。それでもベクターを零と呼んでしまうのは、ただの現実逃避だ。そうと分かっていながら、大介はそこから目を背けた。
 それは、今だけでも「零」が帰ってきた幸せを味わいたかったからか。



13/04/21
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