本来ならば、其処に在る筈の温もりがいつの間にか消えている事に気付く。それが二宮匡貴が覚醒をする合図であった。微かだが残る温もりと柔らかく鼻腔を擽る甘いボディークリームの香り。これが無いと恋しいと思うようになったのはいつからだろうか。完全には目覚めていない頭の中で二宮はぼんやりとそんな事を考えていた。遮光カーテンの隙間から朝日が漏れ、ベッドから体を起こした二宮の背中を優しく照らす。寝室のしんとした空間とは反対に、その扉の向こう側はカチャカチャと食器のようなものが擦れる音と水道水の流れる音が聞こえた。二宮はふう、と一息つく。まだ眠い、それなのに早くそこへ行きたくて仕方が無いのだ。

「あ、おはよう。二宮くん。」

リビングのカーテンは大きく開かれていて、あの眩い朝日が容赦無く二宮を照らし完全な覚醒を促す。眩い光にやっと慣れてきて恐る恐る目を開くと、キッチンに立った彼女がふんわりと柔らかい笑みを浮かべながら二宮の名前を呼んだ。

「ああ、おはよう。なまえ。」

彼女の華奢な背中を見つめながらテーブルにつく。白木調のテーブルの上にはなまえがポストから取り出してくれたらしい今日の朝刊とダイレクトメールが置かれていた。それに暫く目を通していた二宮だったが、大体の情報を把握すれば興味の対象は再びキッチンの彼女へと向かれる。日頃なまえが通う料理教室のお陰か、初めてキッチンに立つ彼女を見た時よりもずっと要領良く動いているように感じた。パイル地のパステルカラーなルームウェアの上に身に付けたエプロンは二宮がなまえに選んだものである。水玉柄に控えめにあしらわれたフリルのそれが、なまえにとても良く似合っていた。

「なまえ、何か手伝う。」

椅子を引いて、キッチンの方向に歩み寄る二宮を見てなまえは少し驚きながらもクスリと声を漏らして笑った。

「本当に?じゃあお箸とお皿の準備をお願いしようかな。」

二宮の口から手伝うという言葉が出てくるなんて思わなかったなまえは、キッチンの中をキョロキョロと見回す二宮が可笑しくて仕方が無い。二宮は「ここも、随分変わったな。」なんて言いながら食洗機から食器たちを取り出した。二宮がまだ一人で暮らしていた頃には無かったものが、ここには沢山ある。豊富な調味料に、可愛らしいハート型のホーロー鍋とフライパン、そしてワンセットしか無かった食器類がもうワンセット増えた。

「はじめから無いものが多すぎだったんだよ。」

覚えてる?初めて家に入ったとき栄養ドリンクの瓶がいーっぱい並んでたんだよ?と戯けたように話すなまえが溶き卵を熱くなったフライパンの上に流す。その事に関しては耳の痛い二宮は、なまえの言葉を無視して食器を並べる事に専念した。

「ねえ、見て見て!今日はね、お鍋でお米を炊いてみたんだよ。」

並べた食器の中の小鉢を彼女に手渡し、それを受け取るなまえが和え物を盛り付けて行く。手際良く盛り付けを行なう彼女が不意に二宮の背中をトントンと叩き、嬉しそうに頬を緩めてそう言った。IHのプレートに掛かったあのハート型のホーロー鍋の中を覗いて見れば、なまえが言った通りツヤツヤと光り湯気を放つ白米が目に飛び込む。

「どうかな…?炊飯器で炊くより美味しいと思うんだけど…。」

二宮の表情を窺うように顔を覗き込むなまえ。どこか不安げな顔の彼女に疑問符を浮かべた二宮だったが、よくよく考えると思い当たる節があり一気に胸が熱くなった。
あれはいつだっただろうか。つい最近だった気がする。夕飯を二人で食べていた時に偶々やっていたテレビ番組。番組の出演者の一人が米は圧力鍋で作ると語っていた。それを耳にした二宮が呟いたのだ。「家の鍋で米が炊けるのか。」と。料理に疎い二宮にはスイッチを押せば出来上がる炊飯器があるのに、わざわざ火を掛けて作る意味が分からずにいた。…だからだろうか。

「わ…?!…に、二宮くん…?」

なまえの行動になんだか胸が熱くなった二宮は朝食作りの最中だという事も忘れて、彼女の背中を抱き締める。華奢なそれはすっぽりと腕の中に収まってしまう。彼女はいつだって些細な出来事さえ敏感に感じ取って、二宮の心を隙間無く埋めていくようなそんな人間だった。
もっと自分の好きなようにしたら良い。そう二宮が告げれば、料理教室に通い始めるくらいだ。二宮にもっと美味しい料理を食べてもらいたくて。どこまでも純粋で、優しくて、甘いその感情を惜しみ無く受け取る二宮は、そうやっていつの間にか絆されていた。

「なまえ。」

普段は威圧感が強く、高圧的で冷たい印象を持たれる事も少なくない二宮。だからこそ、なまえにはどこまでも優しくて彼女が落ち着けるような存在になりたかった。そんな気持ちを込めて愛おしげに呼んだ名前。二宮の腕の中で慌てふためくなまえの顔は真っ赤に染まっていて。

「二宮く、ん…卵、焦げちゃう…から。」

「…おい。いつまで苗字で呼ぶつもりなんだよ。」

なまえの必死の制止も聞かずに、二宮は彼女の耳許でそんな事を呟くものだから、なまえは瞳を揺らして唇の端をキュッと噛んだ。羞恥に燃える頬を隠す事なんて出来ずに、身体中の熱が更に上昇を続ける。なまえだって、呼びたくないわけじゃないのだ。ただ羞恥心が勝ってしまいどうしたってまともに名前が呼べない。

「二宮く…ん、あの、離れよ…う?」

二宮匡貴という男はどこか冷たい人間だとなまえは思っていた。しかし、こうして付き合い一緒に暮らし始めてからは、そんな思いはどんどん小さくなっていく。熱のこもった二宮の視線を浴び、なまえは恥ずかしくて此処から逃げてしまいたかった。次第にじわりと涙が滲み、フライパンからは少しだけ香ばしい匂いが漂う。

「ま、まさ…たか、くん…?」

「…!!」

別に彼女は狙ってるわけじゃない。頭の中では分かっている筈なのに、涙目で真っ赤な頬…そして上目遣いで自身の名前を呼ぶなまえから二宮は目が離せなくなった。男の本能により、理性的な部分が崩れ始める。二宮には羞恥に震えるなまえが可愛らしくて仕方がなかった。「なまえ。」と小さく彼女の名前を呼んで、触れるだけの軽い口づけをする。

大層驚いた表情を浮かべたなまえが少しだけ怒ったような顔をして「いじわる…」と溢す。どこまでも可愛らしい自身の恋人に二宮は満足気に頬を緩めた。腕の中の彼女は一杯一杯で気付いていないだろうが、フライパンからは少し焦げ臭い匂いが漂い始めている。きっとそれに気付いたなまえはまた怒るのだろう。けれど大学の二限まではまだまだたっぷり時間はあるのだから、今はまだこうしていたい。一層強くなまえを抱き締めれば、照れたように二宮を見つめたなまえがそれに応えるように腕を回した。



(*幕間様に提出)




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