とろける指先
「えー!旦那さんとデートしたことないの!?」
高尾さんの素っ頓狂な声に小さく頷く。結婚しているのにデートは一度もしたことがないなんて、やっぱりおかしいんだろうな。
私だって赤司さんと二人でどこかに出掛けてみたい。だけど仕事が休みの日でもあの人はいつも忙しそうで、とてもそんなワガママは言えなかった。
「…赤司さん、忙しいから」
「いやいや、かわいい奥さんのワガママなら何でも聞いてくれるって」
とりあえずどこかに連れて行ってって頼んでみたら?と高尾さんは笑っていたけれど、私には曖昧な返事しか返すことができなかった。
赤司さんが「今度の土曜日は空いているのか」と尋ねてきたのは、高尾さんとそんな会話をした数時間後のことだった。普段私の予定なんて聞いたりしないのに一体どうしたんだろう。もしかしてお義父さんに呼び出されたのかな。
「何もないです、けど…?」
「よかった」
赤司さんは表情を和らげると、全く予想していなかった言葉を口にした。
「じゃあ土曜日、どこかに出掛けようか」
ぽかーんと口を開ける私を見て小さく笑った赤司さんは、「どこに行きたいか考えておいて」と告げてシャワーを浴びにリビングから出て行った。
え、なに、どういうこと?どこかに出掛けるって…え!?
「もしかして高尾さんが!?」
慌てて高尾さんに電話をかけたけれど、電話に出た高尾さんは「旦那さんに言うわけないじゃん」と呆れたように言った。そうだ、よく考えたら高尾さんは赤司さんの連絡先なんて知らないんだった。
「ご、ごめん…。さっき高尾さんとデートの話をしたばっかりだったからびっくりしちゃって、」
『初デートだもんねー。楽しんで来なよ』
「うん…!」
高尾さんの言う通りこれが赤司さんとの初めてのデートだ。そう自覚すると急に緊張し始めて、切ったばかりの高尾さんとの電話を再びかけ直した。
***
土曜日は絶対に電話をかけて来るな。赤司にそう念を押されていたが、葉山のバカが仕出かしたミスのせいで赤司を呼び出すことになってしまった。
電話から一時間もしないうちに出社してきた赤司はかなりご立腹だった。スーツではなくラフな格好をしていたことから外出中だったのだろうと容易に想像が付く。そして一緒に出掛けていたであろう相手も。
「えっと…あ、赤司…?怒ってる…?」
葉山を咎めることなく無言でキーボードを叩いていた赤司がギロリと葉山を睨み付ける。ヒィッと情けない声を出した葉山は後退ったことでデスクにぶつかり、積み上がっていた書類を床にぶちまけた。
「わああああごめん赤司!えっと、あのっ」
「……さっさと片付けろ」
「ハイ!!」
半泣きの葉山が可哀想になったのとこの場の空気に耐えられないのとで、オレは無言で書類を集める作業を手伝った。
「うう、ありがとう黛サン…」
「別に。つーか何でわざわざアイツに怒ってるのか聞いたんだよ。明らかに不機嫌オーラ全開だっただろ」
「だって赤司が何も言わないから…!いつもならふざけるなって怒るのに!」
「怒るのがイヤになるくらいキレてんだよ察しろバカ」
赤司に聞こえないようにと小さな声で会話をしていたが、そもそもこの空間にはオレたち三人しかいない。オレたちの会話はもちろん赤司に丸聞こえで、イライラしたような舌打ちと比例するように大きくなっていくタイピングの音に慌てて自分たちのデスクに戻った。
「お、終わった……」
不機嫌な赤司のおかげでいつも以上に仕事に集中できたのか、はたまた赤司の怒涛の追い上げのおかげか。おそらく後者だろうが、葉山のミスが無事に修正されたのは四時過ぎのことだった。残業になるかと思ったがどうやら定時で帰れるらしい。
結局ほとんど口を開かなかった赤司は、仕事が片付いたと同時に席を立つと挨拶もそこそこに足早に帰って行った。
「…お前、今月の給料ちゃんと出るといいな」
「え、今日のミスってそこまでヤバイ!?」
「ヤバイに決まってんだろこのバカ」
コイツと休日出勤なんて二度とするもんか。
***
みやびと出掛けようと思ったきっかけは、高尾からのメールだった。
『妹ちゃんから聞いたんだけど、みやびちゃんとデートしたことないってマジ?』
別にデートなんてしたくないとか、忙しいからどこにも連れて行ってやれないとか、そんなことは微塵も思ってない。みやびがどこかに行きたいと言うなら、それこそ外国にだって連れて行ってやりたかった。
けれどみやびはオレに遠慮ばかりで一度もそんな言葉を口にしたことがない。そもそもオレと並んで歩いているところをクラスメイトに見られでもしたら、また前の学校と同じ思いをさせてしまうだろう。
そう思って二人きりでの外出は控えていたけれど、みやびが高尾の妹にそういう発言をしたということは、少なくともあの子はオレとどこかに行きたいと思ってくれていたのではないだろうか。
だからみやびがオレとのデートを楽しみにしていると高尾経由で聞いたときは本当に嬉しかったのに。
『お仕事なら仕方ないですよ』
パソコンに向かい合っている間ずっと、残念そうなみやびの顔が頭から離れなかった。
「おかえりなさい。お仕事は大丈夫でしたか?」
ちょうどマンションの前で鉢合わせたみやびは、オレと出掛けたときに着ていたワンピースから普段着に着替えていた。時間帯を考えると夕飯の材料を買いに行こうとしていたのだろう。予想通りと言うべきか、みやびは約束を放り投げて仕事に向かったオレに文句を言うでもなく、普段通り自分の仕事を果たそうとしていた。
「…今日は外で食べようか」
みやびの背中を押してマンションに戻るように促す。戸惑ったようにこちらを振り返るみやびは何か言いたげだったが、何か言いだす前にエレベーターに押し込んだ。
「いいから、さっきのワンピースに着替えておいで」
「でも、」
「今日の埋め合わせをさせてほしいんだ」
みやびは呆けたような顔でオレを見上げたあと、言葉を濁して俯いてしまった。
どうせまた、オレが仕事で疲れているだろうとか、申し訳ないだとか、取るに足らないことで遠慮でもしているんだろう。
オレたちは夫婦なのに。家族だと言ったのはみやびなのに。
「……わたし、気にしてないです」
「オレが気になるんだ。迷惑ならまた別の日にするが」
「迷惑なんかじゃ…!」
「キミは我が儘を言ってくれないから不安になる」
好きなのは自分ばかりなんじゃないか。みやびはオレのことなんてどうでもいいんじゃないか。みやびのことになるといつだって、自信も余裕もなくなるのだ。
無言のままエレベーターから降りて自分たちの部屋へと向かう途中、不意にみやびがオレの指先に触れた。みやび自ら触れて来るのは初めてのことで、思わず立ち止まって振り返ってしまう。
「仕方ないって分かってたけど、あの……。やっぱり寂しかった、です」
俯いたままのみやびは恥ずかしそうにそう言って、それからぎゅっとオレの指先を握った。年甲斐もなく緊張してしまって、指先からこの緊張が伝わってしまうのではないかとヒヤヒヤする。
「今日はもうレストランくらいにしか行けないが、またどこかに行こう」
緊張で震えそうになる声を必死に抑えてそう告げると、みやびは「約束ですよ」とはにかんだ。
title/サンタナインの街角で