世界を蹂躙
生気のないその顔はまるで死んでいるようだった。きちんと息をしているのかも分からないその状態で彼女が生きていることを教えてくれるのは機械が刻む音だけで。
「……みやび」
伸ばした手は届かなかった。きっと本人は自分の身に何が起こったのか理解していないだろう。
嫌われたって離してあげない。そう思っていたのに、その決意はみやびの口から飛び出した「嫌い」という言葉でいとも簡単に砕け散った。
みやびがオレを嫌っていることなんて、分かりきっていたはずなのに。それでも献身的な彼女からそんな様子は窺えなくて、だからこそはっきりと言葉に出されたことがショックだった。
十も年の差があるオレとみやびが結婚したのは数か月前のこと。もちろんそれは恋愛結婚などという甘いものではなかった。
「征ちゃん、またお見合いを蹴ったんですって?」
実渕が呆れたようにそう言った。家でも外でも同じような小言を聞かなければならないなんて。ちょうど会社を出る前に葉山がしでかした凡ミスのせいで虫の居所が悪かったオレは実渕の制止する声を振り切って彼が運転する車から降りた。
その日は父と食事をする約束があった。どうせ父からも今と同じような小言を言われるのだろう。まだ結婚する気はないと、相手は自分で決めると、そう言ってもあの人はちっとも耳を貸してはくれないのだ。
苛立ったまま父に会ったってろくなことがない。気を紛らわせようと手近な公園に足を運ぶことにした。
「せいじゅうろう!」
不意に自分の名前が呼ばれた。それから犬特有の荒い息遣いが聞こえる。何事かと振り返れば元気よくこちらに駆け寄ってくる大型犬の姿があった。犬を追いかけている少女が再びオレの名前を呼ぶ。せいじゅうろう待ってと。どうやらその犬の名前がせいじゅうろうというらしい。そう思った瞬間だった。
「……え」
「だめ、やめてせいじゅうろう!」
悲鳴に近い声を上げる飼い主などお構いなしに、大型犬がオレに飛びかかった。
「ごめんなさい、急に走り出しちゃって…」
泣きそうな顔で少女が頭を下げる。偶然にもオレと同じ名前だった少女の飼い犬は彼女の足元でちぎれんばかりに尻尾を振っていた。
「本当にすみません…クリーニング代出しますから、」
「いや、構わないよ」
むしろ汚してくれてよかったかもしれない。これを口実に今日の食事会は欠席しよう。だけどそんなオレの下心を知らない彼女は尚も食い下がった。自分がきちんとリードを握っていなかったのが原因だ、お詫びをさせてくれと。
今までオレはいろんなタイプの女性と出会ってきた。この子よりも美人でスタイルがいい女性はいくらでもいた。だけど触れたいとか好きだとか、そんな風に思ったことは一度もなかったのに。それなのにオレはなぜ、自分よりも遥かに年下のこの子に今まで抱いたこともない感情を抱いているのだろう。
それに気付いた途端、言い知れぬ何かが背筋を這い上がった。
「……クリーニング代はいらない。でも、少し付き合ってほしいところがあるんだ」
リードを握る小さな手に自分の手を重ねる。お詫びだと思って、ね?悪魔の囁きに彼女は小さく頷いた。これがオレが犯した、償っても償いきれない罪の一つ目。
「オレは赤司征十郎だ。君は?」
一目惚れと言うにはあまりに汚いその感情を隠して、オレはみやびに微笑みかけた。それがオレたちの始まりで、彼女の日常の崩壊だった。
title/水葬