煌々と明るい月の光が水面を照らす夜、小さなボートが湖を漕ぎ出す。 「静かにね、静かに…」 「解っています」 船上にはふたつの影。白面を夜闇に浮かび上がらせるゲンと、オールを持つヒョウタだ。 ゲンは彼らしくもない落ち着きない様子で、船から身を乗り出す。 「あ、危ないですよ」 ヒョウタが小声で注意を促すのに、ゲンは上の空で頷いた。 「ルカリオ…島に着いたようだ」 ほとんど口の中でだけ発したような小さな呟きに、ヒョウタはこっそりため息を吐いた。 今現在の状況を説明するには、まず日中に話を戻そう―― 「ルカリオの様子が…おかしいんだ」 一足早い夏休みとしてミオシティに帰省していたヒョウタを訪ねたゲンは、開口一番に沈んだ口調でそう言った。 「え、え、なんです、どういう事です?る――」 驚いたヒョウタはそう叫び、はっと周囲を窺う。とうのルカリオは今ミオジムでトウガンやジム生のポケモンと訓練をしている、が、いつ来るとも限らない。 「――ルカリオが…どうしたんです?」 声を潜め、ゲンと距離を詰めて聞き返すと、うん、とゲンが口を開く。 「…どうもここ数日、深夜に外出をしているらしいんだ」 「外出…」 「ああ。私が寝た後に」 寝た後に…。 ヒョウタは中空に視線を向け考える。 ゲンは基本的に寝るのが早い。特に用もなければ、23時より前には寝てしまう。 それより30分後に出たとしても、夜の11時半。夜中といえば、まあ夜中だろう。 「それはおかしいですね」 ヒョウタはむう、と難しい顔をつくった。 「あのルカリオが、ゲンさんの断りなしに出掛けるなんて…」 そう言うと、ゲンは眉根を寄せたままに粛然と頷いた。 実は、主人の見ない間にポケモンが勝手に出掛けるというのは、よくある話である。 もちろん放し飼いにしているときに限るし――まれにボールから自分で抜け出す猛者もいるらしいのだが――、何も嫌われているという原因だけではない。そこいらの野生ポケモンと逢瀬をしたり、はたまた主人の見ぬ間に羽を伸ばしたり。 つまり、そこらのトレーナーが同じことを訴えたなら、ヒョウタは「ああそう」で済ませたのだ。自分の場合でも同様、心配はしない。人間の小さな女の子と違って拐かされたりすることもないと信頼している。 しかしゲンは―― 「…こんなこと一度もなかったから、ちょっと心配で」 はあ、と重い溜息を吐くのに、ヒョウタはますます眉尻を下げた。 ルカリオとゲンの相思相愛っぷりはヒョウタもよくよく知っている。あのゲンを守るために生まれてきたと公言してはばからないルカリオが、こっそり夜な夜な出掛けるなど。 「…変ですね」 変だ。明らかにおかしい。 「あの、理由を聞いたんですか?」 ヒョウタの問いにゲンは首を振った。 「いや…聞けないよ。ルカリオが隠しているのなら隠すだけの理由がある」 「その理由、ってのが問題ですね…」 「滅多なことはないと思うんだ。ルカリオはしっかりしてるから。ただ――」 言い淀むゲンが懸念する事が、ヒョウタにも何となく察して取れた。 ――何かの事件に巻き込まれていたら? 何かってなんだよ、と思ってはいけない。今のご時世、いろいろあるのだ。悪の秘密結社的なものもあちこちにあるし、加えてゲンはかなり"特殊"な人だ。ヒョウタには及びもつかない誰かが、ゲンを標的に定めてルカリオにどうこうするということも、考えられると思う。 それらの色々な可能性を考え、ゲンは悩んでいるのだろう。ルカリオを信頼し、愛するが故にゲンは身動きがとれなくなっていく。 だからヒョウタに――相談しに来た。来てくれたのだ。 ヒョウタは俄然、張り切った。 「尾行しましょう」 きっぱりと言い放つと、ゲンが顔を上げた。 「尾行…かい?」 「ええ。それっきゃないでしょう」 大仰に腕を組み、真実味を持たせる。「僕や僕のポケモンを介して聞いても、ゲンさんに喋らないことを僕らに言いやしないでしょうし…」 そこであ、と気づき、「ゲンさん、波導で…」とまで言ったところで言葉を切る。 (ゲンさんが勝手にひとの意思を盗み見たり、するはずかないもんな) 一瞬でもそんなことを考えたのを恥じ、やっぱり、と声を出す。 「尾行です。今夜ゲンさんはいつも通りに寝て、ルカリオが出掛けるようならちょっと後に追いかけてください。」 「でもそれは…」 ヒョウタを見上げ、戸惑うような、咎めるような目つきするゲン。 (そりゃあゲンさんのことだ) こそこそルカリオの跡を付けるなんて嫌だろうな、とは思うが、ヒョウタも他に手がない。説得しようと口を開くと、先にゲンが目を逸らした。 「…そうだね、もとはと言えばルカリオに問い質すことの出来ない私の臆病のせいだ。尾行か、聞くか、それとも目をつぶるかだ」 「ゲンさん…」 ヒョウタが見守る前で、ゲンは頷いた。その瞳には覚悟を決めた戦士の輝きがあった、気がした。 「目的地と思しき場所まで着いていって、事件性がなければすぐに引き返す」 「ルカリオに悟られないことを大前提とする。そのため、波導を察知されるのを防ぐためにポケモンは連れて行かないこととする」 ルカリオが家を出て15分後、連絡を受けたヒョウタはゲンと合流し、約束を確認し合った。 ポケモンを一切連れて行かないというのは、もし最悪の事態――つまり、何か悪い連中が現れたときを考えると問題があるのではとヒョウタは進言したのだが、ゲンの「大丈夫、君のことは私が守る」という非常に男らしい言葉に押し切られてしまった。その台詞は僕が言いたかったのにな…と唇を噛みながら、日々の筋トレの量を倍に増やす決意をしたヒョウタであった。 そしてそこいらの鳥ポケモンをヒッチハイクしたルカリオが満月島に向かったのを察知したふたりはボートに乗り、現在月明かりを照らす水面に浮かんでいるというわけである。 「…しかしゲンさん」 ヒョウタは小声で問う。 「僕ら、とっくにバレてたりしませんかね?この明るさです、波導なんかなくっても後ろ見たらすぐに気付いちゃいますよ」 「うん…いや、その心配はなさそうだ。ルカリオの波導はずっとただ一点にのみ向かっている」 何がルカリオをそうまで急き立てるのだろう…。 ゲンの呟きに、口にこそ出さないがヒョウタも深く同意する。ただゲンの心配を払拭するために始めたことだが、今や真剣に理由を知りたいと思っていた。 「!着きましたよ」 そうこう言っているうちに、ボートは岸に着いていた。軽やかにボートを蹴ったゲンが手早く舫を括り、ヒョウタも土を踏む。 ――満月島。 ミオシティの北に位置する、小さな小さな孤島である。 木々は鬱蒼と立ち並んでいるが、清水が沸かないのでポケモンは生息しない。生き物と言えば、渡りの途中の鳥ポケモンが羽を休める程度。伝説のポケモンレジギガスが大陸を引っぱったときに、ぽろりと欠けた大地の欠片だとも言われる。 ただ、三日月の化身と呼ばれるポケモンの美しい燐光がこの島から飛び去ったという声がまれに聞かれるが、真偽の程は知れない。 一部の物好きなトレーナーはここで修行したりもするが、ヒョウタが来るのは久しぶりだった。 前方に密集する樹林を見やり、ヒョウタは言う。 「相変わらず木以外何もないですね」 すると、ゲンが眉を顰めているのに気が付いた。 「…どうしました?」 「生き物の気配が…」 「え?」 ゲンは歩き出した。 まばらな下草を音もなく踏みながら、眼を閉じる。 「感じないか?生き物の波導がたくさん感じられるんだ。ルカリオのものも含めて――」 「ほんとですか」 そう言われれば、風もないのにさわさわとそよぐような音がする。 「ルカリオは?奥ですか」 「ああ、中心部だ。ほかの気配も…」 ふたりは暗い中で顔を見合わせた。白い月光に照らされる顔には、同じ不安が宿っていた。 ――何らかの仕掛けで周辺のポケモンを集めて、まとめて捕獲する、とか。 ありそうな話だ。ゲンは大きく頷いた。 「行こう、離れず着いてきたまえ」 「げ、ゲンさんは僕が守りますから!」 ヒョウタの言葉は若干上擦った頼りないものだったが、ゲンの緊張を和らげる効果はあったらしい。引き結んでいた唇を僅かに笑みに替え、するりと動き出す。 ふたりは暗い森の中、かすかに続くけもの道へと分け入っていった。 島の沿岸から中心部へ10分程度歩くと、開けた空き地がある。 "何かをする"としたらそこ以外にないだろう、と考えたふたりは、月明かりの漏れ差す小道を歩いていた。 ぴったりとくっついて歩くゲンとヒョウタだったが、異変はすぐに察せられた。 (…空気が浮ついている、とでもいうのかな。楽しげな雰囲気…) 波導の力を持たないヒョウタでも肌で感じるほどだ、当然ゲンも気付いているだろう。その背中に、先ほどの緊張感(いや、殺気といった方が的確かもしれない)は薄れていた。 「ゲンさん…なんか…」 「うん、どうも、思っているようなのとは違うのかもしれないね」 小声でのやり取り。引き返しますか、と視線で問うと、束の間の逡巡の末にゲンは首を振った。 「ここまで来たのだから…安全を確かめたい」 満月島を歩く。この島はこんなにも鬱蒼としていただろうか、とヒョウタは思う。幼い頃、近所の船乗りに連れてきてもらった時はもっと駆けるように歩いた気がした。 それが今は、被さるように進路を邪魔する草木を避けるのにいちいち腰を折っている。(大人になったからか、それとも阻もうとするものがいるのか…) と。 前を歩いていたゲンが立ち止まった。 「超音波、だ」 「はい?」 唐突な言葉に聞き返すと、ゲンは前方に手を翳している。 「超音波の波が…壁のように、結界のように張られている」 "ちょうおんぱ"。ジムリーダーの頭で、すぐにその技名の効果が引き出される。相手の感覚を混乱させるもので、有効範囲が広く色々なことに応用される。だが、それがどうして。 「…音を、漏らさないためですか?」 思いつきにゲンはおそらく、と返し、ヒョウタを振り返った。 「私の手を握りなさい。波導で無効化する」 「あっ、ハイ」 失礼して。ヒョウタは若干どきまぎとしながら差し出された白い手を握った。役得、というか、まあ嬉しいハプニングである。甘やかな雰囲気など欠片もないのが残念だが。 「行くよ」 ゲンの掛け声で、ふたりは足を踏み出す。超音波の壁の向こう、生い茂る草木をかき分け―― ぶわ、と。 音と光が溢れた。 「――!?」 「うわ…っ」 ゲンは驚きに息を詰め、ヒョウタは短い叫び声を上げた。 硬直したふたりの前には、まったく予想しなかった風景が広がっていた。 まず、巨大な光の樹だ。 何と言い表せばいいのだろう、ヒョウタが真っ先に思い浮かべたのは「高価なお皿の縁にある柄」だった。繊細で優雅、それでいて荘厳な金色の光が大樹のように長く、広場いっぱいに枝葉を伸ばしている。 そしてその樹の周りを、赤や青、橙や紫などのが精彩な尾を引きながら飛び回っている。 そして次の意識を引かれるのが、ろうろうたる歌声。 女性の声だ。歌詞は聴き取れないが、明るい、喜びに溢れた歌声。金の枝とそれを囲む光は、この歌を盛り上げるように舞っていると、ふたりはすぐに理解した。 「この歌は…?」 ヒョウタが音源を探し首を巡らせると、ゲンが呟く。 「ルカリオ!」 その声に本来の目的を思い出したヒョウタがゲンの視線の先を辿ると、木陰に立って小さく身体を揺らしている、ゲンのルカリオが眼に入った。 ――いや、ルカリオだけではない。 光の渦の絢爛さに眼を奪われていたが、狭い広間はポケモンで溢れていた。 野生と思しき小さな親子や、一目で鍛えられているとわかる大きなポケモンまでが、50匹ほどだろうか。多くはないが、少なくもない。 広間の中心部を取り囲み、皆一様にうっとりと光と音の共演を鑑賞している。 そこに、想定していたような殺伐とした要素はひとつもなかった。 「…これを、ルカリオは見に来ていたのか…」 広間に背を向けて草陰にしゃがみ込んだゲンは、呻くようにそう言った。 ヒョウタも無言のまま光から背を向ける。 ゲンが考えていることは分かった。悔いているのだろう、ルカリオを信用しなかった自分を。 躊躇いがちに腕を伸ばし、ゲンの背を撫でる。 「ゲンさん、よかったじゃないですか。変な事じゃなくて」 ね。 そう言う年下に、年長者は力ない笑顔を返した。 「本当に、そうだね」 曲がクライマックスに向けて盛り上がる。 ヒョウタはちらりと背後を窺う。 「それにしても…凄いですね、これ。どこからこんなに集まったんだろう」 「分からないが、私たちはもう出よう」 「ええ」 ふたりは腰を浮かせた。トレーナーとしてポケモンと深く接していれば解ってくるが、人間には立ち入れないポケモンだけの集まりというのはあるものだ。出くわしたら静かに立ち去る。ポケモンと人間が共存する世界の、暗黙のルールとでも言おうか。 ゲンは木陰から、もう一度広間を窺った。歌が終わったようで、きらきらと振る光のシャワーの下、ポケモンたちが惜しみなく拍手をしている。その中に、口角を上げ、楽しげに眼を輝かせたルカリオの姿を見て取る。 「…すまない」 ゲンが口の中でそう呟いたとき。 『そちらにいらっしゃる人間の方も、どうぞこちらへ』 ゲンとヒョウタの頭に可愛らしい声が響き、ゲンの目の前に突如満面の笑顔が現れた。 「うわっ!?」 「え、ゲンさん?わ!」 声を出して身を引くゲンに、振り返って叫ぶヒョウタ。 ふたりの慌てようを見て、何時の間にやら接近していたそのポケモンはクスクスと笑った。 『私の歌を聴かないのですか?』 「え…いや…」 ゲンは帽子を上げ、眼前に浮かぶ小さな姿を見る。 小柄な身体は人型で、丸い顔には大きな黒い瞳と愛らしい口がバランス良く並んでいる。髪の毛のようになびくのが音楽の五線だと、ヒョウタは気が付いた。 『こんばんは、人間の殿方』 優雅な仕草でお辞儀をする、その声は鈴を鳴らしたように軽やかで愛らしい。先ほどの歌声はきっと彼女――性別は解らないが、スカートのように広がるパーツはいかにも少女めいていた――だろうということも、容易に察しが付いた。 ポケモンの歌姫はにっこりと微笑んだ。 『どうぞ、広場にいらして。貴方のお友達の近くに』 さあ、と小さな手を流すその先には、周りのポケモン達と同様、いやそれ以上に驚愕の表情を浮かべるルカリオがいた。 「げ、ゲン様――」 「ルカリオ」 秘密を持った者と曝いた者、一人と一匹の視線が交わった。 すっかり蚊帳の外のヒョウタはそれをおそるおそる眺めながら、つい数刻前に確認した事を思い出す。 ――ルカリオには気取られないことを大前提とする。 (ばれちゃったじゃないか…) 次の瞬間、ゲンは少女のようなポケモンの横をすり抜けてルカリオに向かって駆け出し、ルカリオも又ポケモン達の輪から抜けてゲンめがけて飛び出した。 「ルカリオ――すまない、後をつけてきた。お前が夜ごと出て行くのに気付いていたが、直に聞くのも怖くて、それで――すまないルカリオ!」 『申し訳ありませんゲン様、私が悪いのです!従者の身で隠し事など、その上勝手に外出まで――本当に申し訳ありません!』 ふたりの叫ぶような謝罪は、全く同時に発せられた。 互いに殆ど相手の言っていることを聴き取れなかったのではないだろうか。しかし手に手を取り、目を見て語る人間とポケモンの姿に、事情を知らぬ周囲のポケモンはそれでも空気を読んで沈黙を守る。 ゲンは荒い息を吐いた。そして、がくりと膝を着いてルカリオを抱き締めた。 「すまない…この通りだ」 それにルカリオが首を振り、ゲンの背広の背中に腕を回す。 『謝ることなどありません、ゲン様。…お話します』 ヒョウタはそろそろと歩み寄った。そして、か細い声で「ルカリオ」と呼びかける。 「ごめん、僕が言ったんだ。尾行して確かめよう、って。君に何かあったんじゃないかって、ゲンさんは心配してた」 責任は僕にある。そう主張する若者にもルカリオは首を振る。 『迷惑をかけてしまった。すまない』 その言葉をヒョウタが解することは出来ないが、言わんとしていることは知れた。 ゲンとルカリオ、そしてヒョウタが、ひとまず許し合った時、軽やかな声がかかった。 『仲直りの歌は必要ないみたいですね』 見れば、いつの間にか近寄っていた歌姫がにこにこと笑っている。そしてぽん、と手を叩くと、ヒョウタの背を押す。 『さあさあ、輪に加わってくださいな。まだリサイタルは始まったばかりですから』 「えっ、でも、僕ら人間だよ?」 力はまるで強くないが、何となく押されるままに動きながらヒョウタがそう言うと、ポケモンは今度は腰に手を当てる。 『音楽を楽しむのに、人間もポケモンもありません。それとも聞きたくないと仰いますの?』 拗ねたような口振りにひるんだヒョウタが周囲を窺うと、なんとギャラリーのポケモン達が殺気立って睨んでいる。ルカリオの傍らに立つゲンが苦笑した。 「正真正銘、彼女はポケモン達のアイドルなんだね」 「そのようですね」 ルカリオがゲンの手を引く。先ほどまで立っていたあたりのポケモンが、座れ、という風に場所を空けた。混ざらせてもらおうか、と言うのに、ヒョウタが頷いた。 それを満足げに見届けると、歌姫はふわりと舞い上がり、喉を慣らすように発声をしながらギャラリーを巡る。興奮して手を伸ばすニョロボンに、にっこりと笑って握手に応じる。 「ルカリオ、彼女は一体なんなんだい?」 その様子を見ながらこっそりと訊ねたヒョウタに返事をしたのは、 「彼女はメロエッタちゃんニャ!」 何と背後で身体を揺らしていたニャースだった。 「うわ!?喋った!」 仰天してゲンに縋りつくのを静かにしろニャと窘めて、人語を操るニャースは胸を張る。 「ニャーは特別だからニャー。ふふん」 さらに傍らにいたソーナンスが太鼓持ちのようにソーナンス、と言うのに、ゲンは「面白いね」と微笑んだ。 「それで…何と言ったかい?メロ…エッタ?」 小声で問う主にルカリオがはっきりと首肯する。 『はい。イッシュ地方の方だとか』 「メロエッタちゃんはルナトーン石に満月がかかる夜にだけリサイタルを開いてくれるのニャー!」 うっとりと両手を握ってそう言うニャースを見ながら、ゲンとヒョウタは顔を見合わせる。イッシュ地方とはまた、随分遠い。 『あの…ゲン様、随分以前にイッシュ地方に滞在していたときのことを覚えておいでですか』 おずおずとそう切り出したルカリオに、もちろん、とゲン。 「おまえがリオルだった」 『ええ。…ある晩、ゲン様はお出かけになっていて、私は地元の同族に誘われたのです。今宵は面白いことがあるから見に行ってみないかと』 「ああ、それで…」 得心がいったと頷くゲンに、ルカリオは深く頭を下げる。 『お話もせず、申し訳ありません』 「いや、いいんだ。当然のことだ」 幼いリオルには、満月の夜のリサイタルなど大いに秘密めいて映っただろう。ゲンはそう言えば、あの頃ちょっとリオルの様子がおかしかったかも、と思い出す。 (一生懸命隠していたんだな。ポケモンとして…) その努力をいじらしく思いこそすれ、誰が責められようか。ゲンはルカリオの肩を優しく叩く。 「じゃあ最近夜外出をしていたのは…」 「ずばりメロエッタちゃんがシンオウ初進出するという噂があったからニャー!」 「ソ〜ナンス!」 『…彼の言うとおりです。場所がミオシティのまさにここ、新月島であるということも、ひと月ほど前に風の噂で』 へえぇ、とヒョウタが眼を丸くする。ポケモン同士のコネクションというのは、あるものだ。 耳を垂れるルカリオを撫でながら、ゲンは優しく言う。 「そうか、近場だからね。」 『…もう子どもでもないのに、きちんと説明を差し上げるべきでした。』 なお落ち込むルカリオは言葉を続ける。 『ただ、正確な日が解りかねましたので、毎晩様子を見に島に渡った次第で…』 「メロエッタちゃんの歌は一度聴いたらやみつきになるニャ。おみゃーは正しいニャよ!」 馴れ馴れしくルカリオの肩に腕を回して頷くニャースを、ヒョウタが嫌そうな眼で見る。その様子が微笑ましく、ゲンは己の感情がほぐれていくのを感じた。 「あ、ご覧」 ゲンの促しに顔を上げると、メロエッタが広場の中心に戻ってきたところだった。 ぺこりとお辞儀をし、天を仰いで両手を掲げれば、彼女の元に宙を舞っていた光の玉が集まってくる。 「あれは…?」 身を乗り出したヒョウタの呟きに、またもニャースが答えた。 「メロディフルーツだニャ。世界でメロエッタちゃんだけが持ってる、音楽をつくる木の実なのニャー」 「メロディフルーツ…」 人間ふたりはしげしげとそれを観察する。言われてみればそれぞれが果物のような形状をしている。 『彼女の――』 ごく小さな、囁きにもにたルカリオの言葉にゲンが耳を傾ける。 『彼女が歌を歌うときの波導は、他にないほど美しいのです。どうしても、どうしてももう一度眼にしたかった…』 ゲン様を欺いてでも…。 ルカリオの手が、ゲンの掌をぎゅっと握った。 『――-…-―…♪』 歌が始まった。 先ほどの明るい曲調からは一変して、バラードのような静かな雰囲気。メロディフルーツも、ぼうっとまろい光で空間を彩る。自然、見ているポケモン達は眼を閉じて身体を揺らす。 ヒョウタもそれに倣い、美しいハーモニーに身を浸す。 ゲンとルカリオも眼を閉じた。しかし彼らは、眼で見る以上のものを心で感じとる。 「……!!」 ゲンは圧倒された。 メロエッタの、歌に込められたエネルギーに。その美しさに、純粋さに。 『彼女の歌は、その気になればたちどころに怒りも憎しみも解してしまうそうです。悪用されないよう、普段は決して人前に姿を現さないのだとか』 (…そうか…それも納得だ。――うん、凄まじいな) 波導で会話しつつ、ゲンは薄く眼を開く。するとメロエッタがこちらを見ていることに気が付く。 小さく拍手をして見せれば、彼女は笑みを深くして一層声を広げた。 クライマックスに向けて音色を重ねていく音楽に、今度こそゲンは身を委ねた。 その後もリサイタルは続いた。 息も継がせぬような激しいメロディがじゃらんと鳴ったと思えば、メロエッタの姿が変わっていく様に驚きの声が上がる。 「フォルムチェンジ!」 ヒョウタの興奮した叫びにウィンクを送り、くるりと結い上げた頭、闊達そうな短いスカート姿になったメロエッタが跳ねる。彼女のステップに合わせ、メロディフルーツの光が弾けては輝く。 見ているだけで、聞いているだけで身体が熱くなる。笑顔になる。ゲンとルカリオ、ヒョウタの3人は、今が真夜中であることも、自分たちが良識ある大人であることも忘れて、周りのポケモン達と合わせて体を揺らした。 月が半分も傾いた頃。 メロエッタの最後の曲が終わる。 穏やかな夢に誘う子守歌に癒された聴衆は、別れを惜しむ。 広間の中央、穏やかに円を描いて回るメロディフルーツに囲まれてメロエッタが口を開いた。 『みんな、来てくれてありがとう。楽しんでもらえたでしょうか?』 きちきち、ぱたぱた、爪や尻尾を打ち鳴らす音が湧く。ポケモンなりの拍手だろう。 収まるのを待ち、メロエッタは続ける。 『今日は初めてのことがありました。人間の方が参加されたのです――お二方、どうぞ前へ』 ゲンとヒョウタは顔を見合わせ、恐縮しながら立ちあがった。 歌姫の言葉に耳を澄ませるポケモン達の真ん中に進み出る。 「メロエッタ、今日は本当に素晴らしい夜だった。招かれざる客を寛容に受け入れてくれて、感謝してもしきれないよ」 「うん、僕のポケモンにも聞かせてあげたかった。ぜひ、その機会をつくってくれると嬉しいです」 それぞれの謝意を示す二人を順番に眺め、メロエッタは頷く。 『ありがとうございます。喜んでいただけて、とっても嬉しいですわ』 愛らしく微笑み、顔を上げる。今度は取り囲むポケモン達皆に聞こえるよう言う。 『先ほどは"音楽を楽しむのにポケモンも人間もない"と言いましたが――』 と、僅かに表情を曇らせた。 『人間の皆が、この方たちのように純粋に歌を楽しめる訳ではありません。残念なことですが…やはり、私は私の歌を、皆さんポケモンのものにしておくのが良いと思うのです』 言葉を発する者はいなかった。 ただルカリオは尾を下げ、ニャースは気まずそうに頬を掻いていた。人間とポケモン、ふたつの種を区別することは、特にトレーナーを主に持つポケモンにとってはそれだけで大きな意味がある。 嬉しいわけではない。腹が立つのとも違う。 ただ、…寂しいと感じるのだ。 ゲンもヒョウタも静かに頷いた。 「それでいいんですよね、ゲンさん」 「ああ…今の私たちには過ぎた力だ」 『でも、』 メロエッタの澄んだ美声が空気を揺らす。 『皆さんが本当に信を置く人間なら、あるいは皆さんを本当に愛して、心配だというだけで追いかけて来ることができる人間なら――』 くるり、メロエッタはゲンの周囲を一周した。 そのままルカリオの元へ飛び、その手を引いて戻ってくる。 たくさんの視線が注目する中、ゲンとルカリオの手を、そっと繋げた。 『私はいつでも歓迎します』 何度目か解らない、盛大な拍手が起こった。 ポケモンたちの、そしてゲンとヒョウタの見守る前で、メロディツリーがするすると集束する。 「メロエッタちゃ〜ん、来年も来てくれニャー」 涙交じりの声でそう叫んだニャースに、メロエッタは微笑んだ。 『いつも来てくれてありがとう、ニャースさん。また会いましょうね』 「ニャ…!!」 天使のような笑顔を真っ直ぐに向けられたニャースがくらくらと倒れる背後でソーナンスが大きく両手を振る。そちらにも手を振り替えし、メロエッタは高く舞い上がった。 『ありがとう皆さん、ひとり残らず幸せでありますよう!』 彼女の祈りは、まさしく天上からの賜りものさながらに、その場にいたすべての者の胸に響いたのだった。 リサイタルの終わった満月島から、ポケモンたちが去っていく。 ある者は自分の住処へ、またある者は眠る主のもとへと。 ゲンとヒョウタ、そしてルカリオも、ボートに乗ってミオシティへと漕ぎ出していた。 『…私は…』 何とはなしに言葉が絶えていたところを、ルカリオが口を開く。 『このような娯楽に気を取られる未熟さを貴方に知られたくなかったのです。今にして思えば、その考え方自体が何と愚かしいことか』 その言葉になんと返したらいいのか、ゲンは迷う。もちろんゲンは一切怒ってはいないし、ルカリオを愚かとも思わない。だがそう言って、彼の考え自体を否定するのは違う気がした。 と、「いやあ」と間延びしたヒョウタの声が割って入る。 「ルカリオに感謝ですねー。だってルカリオが黙っていたからこうして無理やりにでもここに来たわけで、ねえ。楽しかったですね」 そのあまりにあっけらかんとした物言いに、ゲンは苦笑する。何か言いたげなルカリオの頭をひと撫でし、そうだね、と頷いた。 「ルカリオ、難しいことは言いっこなしだ。本当に今日は素晴らしい体験をさせてもらった」 月明かりにも冴える赤い瞳を覗き込み、言った。 「お前のおかげだよ」 数瞬の間の後、ルカリオは目を細めて嬉しそうにくるると唸った。 『…はい!』 「もうちょっとで到着ですよー、今日はもう昼まで寝ちゃいたいですねー!」 夢のような夜は、あと数時間で終わる。 しかし求めるポケモンがいれば、きっと彼女は現れ、その歌声を響かせてくれるのだろう。 願わくば世界中の人とポケモンが、その幸せを享受できれば良いと、ゲンはそんなことを想いながら夜風を吸い込んだ。 fin. ---------- 元ネタはあの、「メロエッタのキラキラリサイタル」のギャラリーにリオルがいたのです。リオルがこう、小さく体を揺らしていたのです。 それ観てなんか思いついたんですね…。 別に映画に出てたリオルがこのルカリオってわけじゃないです!時系列がめちゃくちゃになっちゃうので! その割にニャースとか出してすみません…あまりに良いキャラだったものですから… |