師弟が別たれた日 どうどうと巻き起こる土煙。ずんずんと揺れ動く大地。ざらざらと流れ出す砂嵐。 それらは全て戦争の、――世界の終わりへの、目も覆いたくなるような褐色を塗り込め、アーロンの胸を圧迫した。 「ピジョット、来い」 一声呼べば、彼のしもべが馳せ参じる。羽毛の背中に飛び乗りながらアーロンは顔を上げ、遠く――峡谷と河川に囲まれて建つオルドラン城を背に、戦渦へと飛び立った。 戦いはいつから始まったのだったか。 それはもはや遠い過去である。考えるだけ無駄であり、おそらく止めようもなかったのだろう。 何にしろアーロンやリーン女王が生まれるはるか以前に、争いの萌芽は育っていた。 広い世界のほんの一部分に発生したのであろうそれは瞬く間に蕾をつけ、血という水を、欲という養分を吸い花開いた。 人間達は利口だった。戦争の主体たる指導者は己が矢面に立つことをせず、古来より共に暮らしてきたパートナーを――優しい生き物たちを兵に仕立てた。彼らは主を信じ、主の為に技を奮う。その闘争本能は、人間達の当初の想像を絶するものだった。 地形を変え、天候をすら変え、人間は――使役者は恐れ、そして歓喜する。この力があれば、あれば、あれば! 将を討たれぬ戦は終わらない。 争いの萌芽は蔦を這わせ地に潜り込み、葉を茂らせ天を覆い、戦火の花弁がじわじわと大陸を赤く染めていった。 ――そんな終末の世にも、変わらず命は生まれてくる。 アーロン、リーン。ルカリオ。彼らは皆、滅びの業を背負わされた子供たちであった。 ――ルカリオはどうなさるのです。 ピジョットを駆るアーロンの脳裏に甦るのは、つい数刻前聞いた女王の問いかけだ。 ――彼はわたくし以上に、貴方との別離を拒むでしょう。そんな酷い事を? 彼女はどんな顔をしていたのだろう。 私を責めていたのか、哀れんでいたのか。 「酷いこと…か」 アーロンは独りごちだ。 「私はそれよりも酷いことを、ルカリオにしようとしているのか…」 天を仰げば、一杯に広がる蒼空を不穏に曇らせる、澱んだ空気がどろりと流れていた。 "世界のはじまりの樹"。 地上を覆った憎しみの戦を止める手だてがあるとしたらそれだろうと、アーロンが意識したのは1年以上前のことである。 いや、正確に言えば、"世界のはじまりの樹"に住まうあるポケモンの、強大な力に気が付いたのがそれくらい前なのだ。 かのポケモン――ミュウ、と名乗っていた。ミュウが持つ人智をはるかに超えた力と、胎内にひとつの世界を構築する樹の力。そこにアーロン自身の持つ波導を併せれば、世界中に安らぎの波導を伝播させることが可能かもしれない。 ――だが。 世界のどこかで大規模な戦争が起きたと耳にする度に、そして女王が、軍隊が国に近付くのを知り唇を噛むのを目にする度に、アーロンはその考えを打ち消していた。 ――力を放出した樹に何かしらの異常が出ることは想像に容易い。もしやすると世界の均衡を欠いてしまうかも知れない。 それを防ぐためには私の波導を空にして――いや、むしろ身体そのものを礎としなければ…。 アーロンは一人懊悩の日々を過ごす。 (この世界が好きだ。) (やりたい事がある。) (別れたくない――残して逝くのは、あまりに辛い。) この目的も解らぬ――いや、そんなものはないのだろう――愚かな争いのために、死ぬのか。死なねばならぬのか。 一人の男の決断を、時は待ってはくれない。 ついに、幾万もの軍勢がオルドランに肉薄したのだ。 § § § 「ッ!」 不意に左右から襲いかかる衝撃と、同時に鼓膜に突き刺さった高い金属音に、アーロンは息を詰めた。 数多の危機をくぐり抜けてきた身体は無意識的にピジョットへ指示を出し、応えるピジョットも最小限の動きで回避する。 もの思いにふけってしまった己を叱咤しながら周囲を窺えば、斥候と思しきエアームドが三羽、鋼色の翼をきらめかせめていた。 (味方以外の全てを攻撃しろと教えられているのか…) ピジョットは指示を出すまでもなく三羽の暴風をかわそうと宙を舞うが、連携の取れた敵の攻撃を横腹に食らい鋭く叫ぶ。 「ピジョット!」 アーロンを乗せた巨鳥は、ぐらりと身体を傾がせた。アーロンが立て直すも叶わず、せめて主人を傷付けない角度で墜落した。 (生きとし生けるものが――) アーロンは寸前で身を躍らせ、岩肌に着地した。外套が風をはらみ脹れる。 (争わずにはいられない、そんな時代が…来てしまったのだろうか) そうして滅ぶのに身を委ねるほど、アーロンは弱い人間でいようとは思わない。 大切なものがある。守りたいものがある。美しい世界を愛している。 そのことを、つい先ほど、若き主君との対話で再確認したのだから。 (リーン様…) 金の髪の若き女王。 国と共に滅びますと彼女が言ったとき、アーロンはそれに殉じる気でいた。女王もそう望むだろうと、疑いもしなかった。 しかし彼女は、アーロンとルカリオに逃げよと命じた。 その決意の、何と勇気の要ったことだろう!彼女の父母はとうに亡い。なけなしの護衛軍と町の男たちは総出で国境を固めている。となれば残るは老いた乳母と、可愛がっているポケモンと、子羊のように無力で従順な民と。 それらを抱えた彼女の心の拠り所は、思い驕りでもなんでもなく、波導使いアーロンであったはずだ。 その従者を、震え声で冷たい言葉をかけてまで脱出させようとしたリーンの慈愛に、気高さに、アーロンは胸打たれた。 護るべきものを――その価値を、はっきりと心に刻んだ。 「私は死んでもいい。それで世界が救われるなら。」 アーロンは杖を手に岩山の悪路を駆け出した。 ピジョットには悪いが、構う時間はない。彼には彼の為すことを伝えてあるし、あとは信じるのみだ。 「しかし、ルカリオは…」 砂塵にアーロンの呟きは吸い込まれ、従者の足音が背後から近付く―― 「アーロン様!」 下方から届いた呼び声に、アーロンは立ち止まった。 頭に直接届く声も、小さな身体から発せられる波導も、アーロンは熟知している。 「ルカリオ」 振り向けば、双眸を閉じた従者が見上げていた。 「アーロン様!」 「お前、目を…」 言ってアーロンは二つの理由から身を強張らせた。 ルカリオが負傷を受けた怒りと、――怒濤さながらに押し寄せる、赤の軍隊。 ルカリオは全神経をアーロンに集中させており、背後に迫る危険に気が付いていない。 (時間がない、なさすぎる) 私のことはいいのです、と叫ぶルカリオを眼下に、アーロンはじりと踵を鳴らす。 (この一瞬で、私はルカリオの未来を決めねばならない!) 「ここから離れろ」 ただひたむきに己を慕う存在に、アーロンは背を向けた。 姿を見ずとも、彼の愕然とした感情が、垂れ流しの波導で伝わってくる。 (そうだ、去れ。早く、早く) 連れて行くことは、それだけは出来ぬ。樹の力を解き放つのにルカリオの力は不要だし、彼がそう言って引き下がるとは思えない。 (お前は優しいから。私と共に逝くと言い張るのだろう) 嫌だ。ルカリオが良くても、アーロンは絶対に許せない。 「私は城を捨てた。二度とあの城に戻ることはない!」 生きて欲しいのだ。 私が居なくなっても、ルカリオは大丈夫。生きて、願わくばリーン女王の元に帰ってそして、オルドランを護って欲しい。いや――城も国も捨てて、自由な生を全うしてほしい――。 (幻滅しろ、ルカリオ) 突き放しても追い縋る声に、アーロンは歯噛みした。 (駄目だ、聞き分けない、連れて行くのか、否、共倒れは断じてならん!) 顔を傾けて肩越しにルカリオを見る。閉じられた瞼の下で大きな瞳が揺れていて、それはアーロンの感情に直に訴えかける。 (お前の真っ直ぐな瞳を受けるほどに、) アーロンは振り向き、杖を持った腕を振り上げた。 (死なせたくないのだ、ルカリオ!) 長い杖が、青い軌跡を描いて放たれた。 「!?」 過たず眼前に突き刺さった杖に、ルカリオが言葉にならぬ悲鳴をあげる。 「アーロン様!?」 アーロンは応えず、精神を統一して杖先の石に波導を送り込んだ。 「…!」 目の見えぬルカリオには何が起こったか分からないだろう。 ただ前方で爆発する波導の力を感じて飛び退ろうとするのを、波導石から伸びる青い閃光が捕らえた。 「アーロン様…何を!」 ルカリオの身体が光に包まれ、形を失っていく。牙を剥いて叫ぶ声は悲痛に掠れる。 「なぜです!なぜ…」 アーロンの目の前で、ルカリオの姿は完全に石に吸い込まれ、 現世から消滅した。 § § § アーロンはまたも走っていた。 ルカリオを封印したのを見届け、踵を返して数瞬の後にその場を赤の軍兵が駆け抜けていった。 間一髪、と言って良いだろう。 「もう、大丈夫だ」 アーロンは声に出して己に言い聞かせる。 「きっと皆が救われる」 ピジョットが杖を回収し、オルドラン城へ届ける。 リーン女王のことだ、きっと大切に杖を保管してくれるに違いない。 そうすればあの波導石はルカリオを護り、そしてルカリオの持つ波導は杖によって増幅されてオルドランを護るだろう。 険しい岩山を抜け、平地へと降り立つ。"はじまりの樹"は遠い。 僅かに上がった息を整えながら、帽子の下に浮かぶ汗を拭った。 「これが最善なのだ…」 躊躇う間に大型獣に踏み潰されれば良かったのか?――とんでもない。 ルカリオの意志を尊重して共に果てるべきだったのか?――あまりに無意味だ。 「…封じられたルカリオは、何を思って永い時を過ごすのだろう…」 波導石への封印術は、アーロンもほとんど行ったことのない荒技だ。ポケモンを強制的に押し込めて所有するなんて外道そのものだと敬遠していた。 それをまさか自分の従者に、問答無用で使うことになるなど思ってもみなかった。 封じられる寸前の、ルカリオの悲鳴が耳に甦る。 『なぜです、アーロン様…!』 ルカリオは恨むだろうか。主人のあまりに理不尽な振る舞いに怒るだろうか。 (ルカリオ、すまない。弁解する機会もないが――) アーロンは、自然萎えかける脚に力を込める。馬鹿者、何て意志の弱さだ、と己を叱咤する。 (せめてお前が目覚めた時に、星の輝きを、清流のきらめきを、緑の潤うオルドランを目にすることが出来るように。) 不意に、澄んだ鳴き声が渓谷に谺した。 アーロンが顔を上げれば、 頭上を一羽の大きな鳥が七色の虹彩も鮮やかに飛翔しているのが目に入った。 「ミュウか…?」 呟きに応えたわけではないのだろうが、鳥がまた一声、高く鳴く。 アーロンは走り出した。 (ルカリオ、別れは言わぬ。今はただ、私が事を成せるよう、眠れ弟子よ) 争いを止める。 すべてはそこから始まるのだ。 アーロンを導くように、その巨鳥は"世界のはじまりの樹"へと向かっていた。
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