トウガンが鋼鉄島にあるゲンの住居を訪ねたのは、3時を少し回った時間だった。
昨晩作りすぎたカレーと貰い物のポケモンフードを左手に提げ、潮風に錆びたチャイムを鳴らす。
アポは特にとっていないが、居ないなら戸口に置いていくまでだし、この時間帯に居るのなら茶を振る舞って貰える。ゲンが手ずから淹れた茶は、やたらと美味いのだ。それにちょっとした茶菓子を添え、小半時ほど話をするのはトウガンの密かなストレス解消となっている。
(さて、今日は果たして?)
トウガンは玄関先の柱に身を持たせる。ゲンはいつも片手を指を折る間に出てくるので――波導で来訪自体を察知するのかもしれない――、今日はいないのだろうか。
と。
扉が開き、見慣れた黒髪が覗いた。
「ゲン、居たか」
トウガンはいつも通りに手土産を掲げて来意を告げる。ゲンもいつも通りに「こんにちは、トウガンさん」と微笑んで――

「…?」

ドアを開きながら遅くなりましたと言うゲンの声は、押し殺してなお明瞭に、沈痛な色を帯びていた。


トウガンは、はっきり言ってかなりたじろいだ。
あのゲンが、基本的に感情を表に出すことのないゲンが。
落ち込んでいる――悲しそう?
ミオのジムリーダーは、手土産を置いて辞そうと思った。一般的な気遣いである。
しかし、さあ、どうぞ入って下さいと扉を大きく広げたゲンの声や顔は、すでに平素の穏やかなそれで。
「…邪魔するぞ」
狭い玄関できっちりと挨拶をすると、ゲンが薄く微笑む。
「あ、カレーですね。こっちは」
「怪獣属用ポケモンフードだ。ジムの若いのがデパートの福引きで大量に当てたそうでな」
そいつは怪獣グループを持ってないから。
言いつつ、勝手知ったる何とやらでダイニングテーブルに腰を下ろすと、ゲンはゲンで手早く茶を淹れはじめる。
「ありがとうございます。そろそろ買い出しに行こうと思っていたので、ちょうどよかった。良かったな、バンギラス」
末尾の仲間に呼びかける声は少し大きく、キッチンカウンターに置かれていたモンスターボールの一つが応えるようにカタカタと揺れる。
喜んでいます、と、こちらも口角を上げながらカップを置くゲン。トウガンはかける言葉を探す。先ほどの、重い声が耳から離れない。
目の前で美味そうにチョコレートを頬張る青年の胸の内が透けて見えないかと、トウガンは目を細めた。


時間にして20分程度だろうか、普段ならそろそろ帰る頃合いだ。
ゲンは話している間も、特に落ち込んだ素振りを見せなかった。ただ彼の口数が常より多いのに気付かないほどトウガンも間抜けではない。
(むしろ、見せないように努めてた、ってとこか…)
しかし。ゲンが隠そうとするのなら、隠すことが出来るのなら。それはトウガンが口を挟むことではないのかも知れない。
トウガンは2杯目のカップを飲み干し、おもむろに席を立った。
「そろそろジムに戻るとするか。馳走になったな」
「いえいえ。お粗末様でした」
軽く返すゲンも椅子を引いて立ちあがる。何か取ってくるのか、トウガンに背を向けて歩いたとき、通った棚からぱさりと落下した物があった。
見れば床には、一通のハガキ。
「おい、落ちたぞ」
キッチンの側に移動したゲンに、拾い上げたそれを振ってみせる。
――すると、どうだろうか。

優雅に微笑んでいたゲンが、一瞬で無表情になった。

トウガンは持っていた手紙を取り落としそうになった。鋼のように固まった白面、光すら奪われたような暗色の瞳。
「…おい、ゲン?」
おそるおそる、トウガンが声をかければ、ゲンの黒い頭が俯く。
「…っはぁー…」
吐き出されたのは深いため息。力すら抜け出るように、ゲンの身体がずるずると沈んでいき、キッチンの向こうに消えてしまった。
「お、おい…」
慌てて回り込めば、キッチンの床にしゃがみ込んだ細い体。
具合が悪いのかと傍らに膝を着く。
「ゲン、お前おかしいぞ。どこか悪いのか?」
「…すみません…」
かけた声に返される謝罪は弱く、トウガンは一層不安に眉を寄せた。とにかく落ち着かせようと背に手を回そうとすると、思いの外俊敏にゲンの顔が上がった。
ゲンは、下より白い顔をさらに薄くして、力なく苦笑を浮かべていた。
「…平静を装おうとしていたんですが、上手くいきませんでした」
「……」
「トウガンさん」
何と声をかけたものか、黙するトウガンにゲンが右手を掲げる。細い指先は、トウガンが持ったままだった一通のハガキをするりと抜き取った。
「…どうしたんだ?」
トウガンは漸う、問いを発した。
ゲンは伏せた睫を震わせ、静かに言った。

「知古が…亡くなったという報せです」


「――そうか」
すまなかった、と謝るのに、いいえ、と首を振ってゲンは立ちあがった。
「古い知り合いなんです。彼が幼い頃良く遊んであげました。本当に元気な良い子で、ポケモンを愛していて――」
ハガキを撫でながら訥々と故人の思い出を語るその姿は、どう見ても青年のそれだ。髪に一片の白もなく、顔に微かな溝もない。
なのに語られるのは半世紀も過去のよう。
その矛盾がしかし通るのだということを、トウガンは理屈ではなく実感として知っていた。
トウガンは、若い男に静かに訊いた。
「…いくつで亡くなった?」
ゲンはトウガンに顔を向け、哀しく微笑んだ。
「88だと――大往生だと、彼の孫から」

トウガンは目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
「…驚きましたか?」
悪戯めいた笑いを混ぜた言葉も、その切ない眦では強がりとしか思えない。
トウガンもあえて戯けて肩を竦めた。
「いんや。そもそもお前は初めて会ってから、ちっとも変わってない。」
ゲンと出逢ったのは10数年前だ。それから現在に至るまでに、様々なことが変化した。
ミオシティは家や施設が増えた。

当時トウガンが面倒を見た若いトレーナーが今は私塾を開いている。
ほんの幼子だったヒョウタは独立し、ジムリーダーになった。
「俺も随分オッサンになったしな。だがゲンは――お前だけはあの時のまま」

不老不死、という、伝説や神話でしか聴かないような文句が、トウガンの脳裏を過ぎった。

「不死かは解りません」
まるで思考を呼んだように、ゲンが言った。

「ただ――私は老いない。いつからこうしているのか、もう忘れてしまった――」

それは告白だった。
トウガンは湧き出る疑問を咽の奥で消化する。聞いても仕方のないことだ。
(どだい、俺に理解出来るとも思えん)
「…ポケモンの中には、100年1000年生きるものもいるという。ゲン、俺はだからといってお前にどうこうはせんよ」
「ありがとうございます。その言葉は何より嬉しい」
トウガンの心底からの言葉に、ゲンはこちらも真実礼を言う。
「トウガンさん、貴方は本当に器の大きい方だ。…実は」
ゲンはそこで言葉を切り、卓上にあったカップを口にした。
「10年以上も一所に止まるのは初めてのことなのです。ここは、ミオと鋼鉄島、そしてあなた方親子の存在が心地好すぎて、私はなかなか離れられない」
「何時までも居ればいい。お前の家だ」
「…20年以上も見目の変わらない男がいると、気付かれた時の事を考えたくないのです」
ヒョウタくんなんかは、どういうわけかまるで気にしていないようですけど。
顔を和ませて息子の名を口にするのに、トウガンも唇を緩めた。
「あれはそういう奴だ。ゲンのことなら、おそらく何だって受け入れる」
「…」
カップの縁を撫でていた指先が、ふいに止まった。

「また、先立たれてしまいました――」

吐き出された言葉は、トウガンがこれまで聞いたこともないほど暗く、重く、孤独に沈んでいた。

「各地を転々とすることも、必要以上に他者と関わらないようにすることも、果ての見えぬ生に怯えることも、とうに慣れました。けれど、」

置いていかれる痛みだけは、どうしようもなく堪え難いものです――


トウガンは、ああ、と嘆息した。

(怖れているのか)

報せが届くことを。
出逢う者全てが己を残して死んでいく。
そこに一つの例外もない。慈悲もない。ゲンが友人から遠ざかり耳をふさごうとも、世界はゲンだけを残して死に絶えてゆく。
(想像するだけで、気が滅入る…)

「葬儀には…行かないのか?」
ハガキを指してそう言えば、ゲンが頭を振って否定する。
「もう終わっているでしょう。その手紙は、遺言に従って出されたそうです。ピジョットが世界中を駆けて私に届けてくれました」
それに、と言葉を続ける。
「どちらにせよ私は遺族の前に姿を現せない。驚かせてしまうから…」
その言葉にトウガンは己の失言を悟った。
そうだ、一人でも過去のゲンを知る者がいれば、驚かないわけがない。

「私はただただ、彼の安らかな眠りを祈ります…」

トウガンは足を動かした。
――ゲンは今、心に一条の傷を負った。死別という、大きな傷。
――そしてそれは、幾重もの古傷の上に書き込まれたのだ。
ゲンの日頃の笑みは、吹き出しそうな血を押し留めて浮かべているのか。
そして。
――いずれはヒョウタもトウガン自身も、ゲンを切り裂く刃となる――

トウガンは椅子に座るゲンの傍らに立った。細い背を、薄い肩を見下ろし、首を振る。
(こいつがどんな業を負って、生きさせられてるんだか知らねェが、)
濡れたように揺れる瞳が、トウガンを見上げる。
(見ちゃおれんだろう)
トウガンはおもむろに手を伸ばし、ゲンの頭にぽふと置いた。そのままわしゃりと黒髪を混ぜれば、構えていなかったゲンの体が揺れる。
「、トウガンさ、」
「ゲン」
ゲンの言葉を遮り、後頭部にかけた手で、ぐいっと顔を寄せた。

「ゲンが望むんなら、俺が死ぬときにお前を連れていってやる」

鋼のように強い声。
ゲンはその意図を解するにつれ目を見開らいた。
トウガンは念を押すように深く頷いて見せる。
「お前とて殺して死なない訳はないだろう。お前が残されるのに耐えられないなら、俺がお前を殺してやる」
トウガンは空いている左の手で、ゲンの首に触れた。大きく開いた襟ぐりから伸びる、白い首。トウガンの荒れた手指が、細首を包む。

どれ程の時間を生きてきたのかは知らないが。
ポケモンを愛し、世界を愛する青年。彼には呪いの如く孤独がつきまとう。

左手に、く、と力を込めた。
「…っ、」
呼吸を妨げはしない程度の締め付けにゲンは顎を上げた。ただ急所を掴まれているという不快感から苦鳴を漏らし、悩ましく眉を寄せる。だが、抵抗は、ない。
「それで、全てが終わる。」
トウガンの言葉に、ゲンは微かに唇を動かした。

「強い貴方には、それが出来るのでしょうね…」


トウガンは手を放した。
己の行動が、信じられなかった。思わず左手を注視してしまう。
「…すまん、ゲン」
どう考えてもやり過ぎ、言い過ぎだった。
項垂れる男に、青年は返す。
「とんでもない。トウガンさん、良いんですね?言質を取りましたよ」
「は?」
顔を上げると、ゲンの笑顔。相変わらず影はあるが、それでもどこか吹っ切れたような、真っ直ぐな瞳。
ゲンの手が、そっとトウガンの手を握る。
「死後ヒョウタくんに、私のルカリオに恨まれても、それでも」

上目づかいに見上げる、その白い首には赤い痕もあざやかに、ゲンは訴える。


「私がそう望めば、貴方が私を殺してくれるのだと…」


トウガンは、縋る目に己の顔を見る。死という救済を口にした傲慢な男の顔を。


しかし。

それで真実、ゲンが解放されるのなら。


トウガンは、ゲンの手を握り返し頷いた。


「約束だ。俺がお前を連れていく――」






了・(或いはこれから始まる、終わりへのカウントダウン)



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