は、と息を吐くと、白く漂うそれに冬の訪れを感じる。
ゲンはもそもそと手を擦り合わせた。火照った身体を冷まそうと――そしてほんの僅かな眠りの間に見た酷い夢を忘れようと――屋上に出てみたはいいが、どうもそんな季節は過ぎてしまったらしい。震えるほどではないが、長くは居られまい。
(冬がくる)
薄手のシャツに袖を通しただけの身体を抱き込み、思う。
(また四季が巡る)
今宵の月はごく細く、微かな線である。夢見が悪いわけだ。
ゲンは呟いた。
「――引き際、だろうな」


と、

「ゲン、寒そうな格好で何してるんだ?」
「…!」
突然声をかけられたゲンはびくりと身体を揺らし振り返る。屋上の出入り口には、家主であるトウガンが、旅装のまま小さなランプを携えて立っていた。
「屋上に人影があると思ったら。…物盗りかと思ったぞ」
見れば、ランプを持ったもう片一方の手には大振りなスコップが握られていた。仕事に愛用しているものだが、十二分に鈍器として活躍するだろう。
ゲンは頬を緩めた。
「おかえりなさいトウガンさん。驚かせてすみません。――遅かったですね」
「ああ、思いの外定例会が長引いた。ジムリーダーも楽じゃないな、実際。ンでもってミオはリーグから遠い」
「ヒョウタ君の着任するクロガネは、ここよりはまだ近いですから、同じ苦労はしないでしょう」
「まあな、良い事だ。ちょっと癪な気もするが――」
会話をしながらトウガンはゲンに歩み寄り、隣に並んで空を仰ぐ。
「――アイツが、ジムリーダーか…」
反対にゲンは俯き、「立派です」と言った。
「勉強をし、趣味を持ち、それに伴う仕事も見つけ――18で憧れていたジムリーダーに就任、なんて、立派ですよ。ヒョウタ君も、」
トウガンさん、あなたも。
白い息と共に吐き出される静かな言葉に僅かに口の端を吊り上げ、トウガンはいくらか間をおいて聞いた。
「その、ヒョウタだがな、…今は?」
「寝ていますよ」
「そうか。……ゲン、」
「何でしょう」

「――お前、やりやがったな」


トウガンの口調は、重いものではない。むしろおどけたように高くすらあった。
しかし込められた感情は、強く、堅く、――強張っている。


ゲンはトウガンの方を向かず、「わかりましたか」と呟いた。

「何故です?跡は残ってないはずですが」
あ、もしかして首に。そう言って己のむき出しの首を撫でるのに、ちげえよ。とトウガン。
「何でわかったかって?そりゃあ俺があいつの親だからだ。息子が童貞捨てりゃあ何となく解るもんよ」
その言葉の裏には「ましてや同居人と、」という意図が含まれており、ゲンは読み違えず受け取り笑う。
「人の親というのは恐ろしいですね」
「てめえ、他人事だと思って――」
笑いを含んだ応酬の後、少しの沈黙。

先に口を開いたのはゲンだった。
「何も言わないんですか?」
トウガンが返す。
「何から言やいいんだか」

「…怒らないんですか」
「俺がお前に怒ってどうするよ。まさかヒョウタ誘ってベッドに引きずり込んだってんなら話は別だが、…違うだろ」
「……ええ。まあ」
「どうせヒョウタのバカヤロウが、ジムリーダー就任祝いにどうかとか何とか言って、頭でも下げたんじゃないのか?」
「いえそこまでは。ヒョウタ君はそんな男ではないです」
「ほお。」
ならどうやって?
片眉を上げ、面白がるように聞く男に、ゲンはため息と共に答える。
「"僕は明日クロガネシティに行きます、どうかその前に、願いを聞いて欲しい。嫌ならそう言って欲しい、まだ足りない事があるのなら、必ずそれに向けて僕は励むから"――と」
「うええなんだそりゃあ。」
「言っておきますが、私は別に彼がジムリーダーになれたら身体を許すとか、そういう約束をしたわけじゃありません。彼の方が、…"自分を高める事が出来たら、その時正式に告白する"と、そう言っただけです」
「はあ…我が息子ながら面倒くさい奴だなあ」
「誠実ですよ――私はその言葉が嬉しかった」
後ろ半分の言葉は、思わず溢れたと言った感じで、その分信憑性がいや増す。
トウガンはスコップに身を持たせながら言う。
「俺はヒョウタがお前に本気になっているってのはずっと気付いてたし、いつか欲望むき出しで迫る日も来るのかもな、とも思ってた。アイツは人が好いが聖人じゃあないからな」
ふー、と息を吐き出し、一呼吸。
「ただ、何となく…ゲンがそれを受け入れることはないだろうと、そうも思ってた」
思ってたんだがなあ…。
中空に発せられた言葉は空虚に拡散した。
ゲンは頷いてっはっきりと言った。
「私もそのつもりでしたよ。ですが、いざその段になってね、どういうことか無性に――ヒョウタ君の事が、」
「よせよせよせ――聞きたくないぞさすがにそんな台詞は!!」
ゲンの言葉を、大きな身振りで遮ってトウガンが叫んだ。しい、と諫めるのに渋い顔をしつつ、今度は声を抑えて。
「俺も悪人じゃねえが、善人でもねえ。…いくらなんでも関係を持ったことのある奴がその口で息子への愛を語るなんて、ぞっとしないだろう」
「そうでしょうか」
「そうなんだ」

噛み合わない会話の末、再び、沈黙。
今度は長い。




「…で?」
「はい?」
先に口を開いたのはトウガンだが、その言葉は意味をなさず、ゲンは首を傾ける。トウガンは落ち着きなく髭を撫でながら、言葉を探し言った。
「どうするんだ、ゲン。――本当にヒョウタの奴を、愛してるのか」
ゲンはトウガンから視線を外し、ゆっくりと頷いた。
「はい。私はあの子が愛おしい。幸せになってほしい…」
ミオジムの周りに広がる町と、海と、山と。夜の帳に覆われて明度を失ったそれらを見ながら発した言葉は、まるで未来へ投げかけたような、地に足着かない響きを持ってトウガンの耳へと届いた。
傍らに佇むゲンを見る。
(闇に融け込む黒髪も、薄っぺらな身体も、何と儚い男だ。)
思いながら、口は全く別の言葉を紡いだ。

「…お前、旅に出るんだな」

ゲンはゆっくりと、頷いた。

「はい。――遠くへ」

「お前がヒョウタを幸せにするんじゃないのか?」
「私がヒョウタ君の側にいて彼が得られる幸せなど、本来のものに比べれば微々たるものですよ。彼にはクロガネでの新しい生活が待っている。丁度良いタイミングです」
「まあ確かに俺としては、孫が見られんのは勘弁して欲しいが、だからといって息子をホイホイ捨てられるのも不愉快だ」
「捨てるつもりなんか。私はいつだって彼を想っています。ヒョウタ君の波導を、私はもらったから」
「波導をもらう。…解りにくいな」
「解りにくかろうと、私にはそれで十分。私は朝が来る前に発ちます。そうすればヒョウタ君の中で、今夜のことは夢になる。それが良い」
ゲンの語りは、吐き出されるほどに熱を孕む。トウガンはそれを痛々しく思った。
きっとこの男は無理をしているわけではない。強がりを言っているわけではない。
真実ヒョウタの為を想い考え喋り行動しようとしているのだ。

その愛の何と、

何と切なく美しいことだろう。


「新月に見た夢は、満月に消え去りますから――」


ゲンはそう締めくくり、トウガンの目を見て微笑んだ。


「……もう、決めたんだな」
こくりと頷く。柔和な微笑には鋼のような意志が宿っている。
「さようならです、トウガンさん。今まで本当にありがとうございました。私もルカリオも他の仲間も皆――この町が大好きです」
「そりゃ嬉しいな。ぜひ旅先で喧伝して廻ってくれ」
「喜んで。」
ゲンの白い手が掴んでいた柵を離れた。
では、と、短い言葉が耳を打ち、
ゲンの背中を目で追う。


「ゲン!」

トウガンは彼の名を呼んだ。無視されるかと一瞬思ったが、彼はひらりと身を返した。

「何でしょう」

己のマントを外す。無言でゲンに放って寄越すと、彼はしっかりと受け止めた。
「持ってけ。これから寒くなる一方だし、お前はどうせ面倒がって防寒具など揃えないのだろう」
暗くて解りづらいが、ゲンは破顔したようだった。
「よく解っていらっしゃいますね」
「あたり前だろ。何年の付き合いだと思ってる?」
「僅かな間ですよトウガンさん。あなたの生は長いのだから」
グレーのマントを試しに纏い、うん、ちょっと大きい、と嬉しそうに呟くのに言ってやる。
「捨てるなよ、ぼろいが、大切にしろよ」
「もちろんです。私の魂がある限り、きっと大切にします」
「……意外と似合ってるぞ。」
駄目押しのように言った台詞に、はは、と声をあげて笑うゲン。どうにもその顔を見るのが辛くて、トウガンは外の景色を見るふりをして顔を背けた。真っ暗で、何も見えるものなどないのに。


「――じゃあ。」



するり、と、耳を撫でていった声を最後に、ゲンは姿を消してしまった。













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このゲンさんは多分もう二度とミオ一家の前に姿を現さないのでしょうね。
たぶんトウガンさんが老いて孫に囲まれて生を全うするときにちらりと来てくれるのでしょうね。
ヒョウタ君の子の子の、さらに子くらいの代にまた、偶然深く関わることになったりするのでしょうかねえ?

あとゲンさんがトウガンさんのマント(?)羽織ったらちょっとアーロン様みたいになるかもとか思った。ん?ならない?そんなぁ









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